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『明智軍記』と『明智物語』

「明智光秀について知りたいなら『明智軍記』を読め」
「織田信長について知りたいなら『信長公記』を読め」

と言われます。
 『信長公記』は、第1巻(永禄11年)から第15巻(天正10年「本能寺の変」)までの15巻本で、生まれてから永禄10年までについては「首巻」に書かれています。
 『明智軍記』は、第1巻(弘治2年「明智城落城」)から第10巻(天正10年「明智氏滅亡」)までの10巻本で、生まれてから弘治元年までについて書かれた「首巻」が存在しません。いきなり29歳の明智城落城から始まります。
 弘治元年以前の明智光秀については、明智定明の家臣へのインタビュー記事『明智物語』に少し載っています。

 明智頼尚┬頼典(義絶されて「光継」)【絶家】
     └頼明┬定明【土岐家】─定政…【沼田藩主土岐家】 
          ├定衡【遠山家】
          └光秀【明智家】

 明智家宗主・頼尚の家督は、嫡男・頼典が継ぐ予定でしたが、頼典は、明智氏の居城・顔戸城の麓の池で殺人事件をおこし、親子の縁を切られ、放浪の旅に出ます。(行き着いた先は、一日市場とも、佐目とも。)
 明智家宗主・頼尚の家督を継いだ次男・頼明には、長男・定明、次男・定衡と、養子・光秀(正体不明。明智家から追放された明智頼典(光継)の孫か?)がいました。明智家宗主・定明は土岐家を継ぎ、弟・定衡に遠山郷、義弟・光秀に明智郷を与えました。明智定衡は、遠山郷明智城(別名:多羅城)に兄・明智定明を呼んで殺害したので、嫡男・愛菊丸(後の明智定政)は、母の実家である東三河の山奥(奥三河)の菅沼家に逃げ込みました。
 明智定政が徳川家康に仕官すると、徳川家康は、滅亡した土岐家の再興を命じ、土岐定政と名乗らせました。(子孫は、代々、沼田藩主に就任しました。)
 明智定政が徳川家康に仕官すると、明智光秀は、明智家の生き残りがいたことを知り、明智定明から預かっていた明智家の家宝の槍「血吸」を明智定政に「そなたが持つべきだ」と渡したそうです。この槍「血吸」は、徳川家康に献上され、水野勝成が「日向守」と名乗った時に、「そなたが持っておれ」と渡されたそうです。

以上から何が言えるのか? 
私が下した結論は以下。

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