見出し画像

小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第3回【各種「明智系図」と光秀】

小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第3回【各種「明智系図」と光秀】

明智光秀の家系とはどのようなものだったのでしょうか。明智氏は、清和天皇から続く清和源氏系統の一つで、美濃を支配していた有力な守護、土岐氏から途中で分かれたと言われています。今回は、現存するいくつかの明智系図から、光秀に至るまでの家系をたどることにより光秀の父は一体誰なのか、おじの光安との関係についてなど系図を通してその生い立ちとおかれていたポジションを考察します。

【要旨】

「系図は使い物にならない」という学者もいるが、私(小和田)は、どこまで信じてよいか判断が難しいが、参考資料にはなると考えている。(系図の裏に描かれているような状況をどう理解するかによって明智光秀の生い立ちや置かれていたポジションなりが少し見えてくると思われる。)
今回使用するのは、
①『尊卑分脈』「土岐系図」(『国史大系』(第60巻)吉川弘文館)
②『続群書類従』「明智系図」(『続群書類従』(第5輯下)「系図部」)
③『系図纂要』(第12冊上)「明智系図」
④『明智氏一族宮城家相伝系図書』(『大日本史料』第11編の1)
である。

①『尊卑分脈』「土岐系図」

土岐氏は美濃源氏(清和源氏)であり、明智家は土岐家の分家であることが分かる。

②『続群書類従』「明智系図」

頼貞─頼基─頼重(明智を号す)…頼尚┬頼典─光隆─光秀
                 └頼明─定明

・通字が「頼」から突然「光」へ。その理由は不明。
・父の名は「光隆」以外に「光国」「光綱」とも。(1人の人が複数の名を持つことは当時はよくあることであった。)

③『系図纂要』「明智系図」

頼兼6世光継┬光綱─光秀
       ├光安─光春
       └光久─光忠

・「光春」を私(小和田)は「秀満」としている。
・光忠は明智光秀の家臣として活躍し、周山城を任された。

④『明智氏一族宮城家相伝系図書』

頼弘─光継┬光綱─光秀
      ├光安
      ├女子(山岸勘解由左衛門信周先室。光秀実母)
      ├光久
      ├光広
      ├女子(山岸勘解由左衛門信周後室。安田国継実母)
      ├女子(斎藤道三室。織田信長室実母)
      ├光廉
      ├女子(堀田佐渡守正元入道道空室。堀田孫左衛門尉正種母)
      └女子(隠岐内膳正惟之室)

・明智光秀は、進士(山岸)家の居城・多羅城(石津郡)で生まれた。
・明智光秀は、父や叔父・明智光安の妹の子であり、養子である。
・斎藤道三室が出ているので、明智家の身分は高かったといえよう。

★明智光安の謎
・明智光秀元服後もなぜか明智城主(落城時に明智光秀に託す)。
・明知遠山氏との関係も不明瞭である。
・明智光秀が学んだ人物と場所は?
 ①人物:叔父・明智光安
 ②場所:禅宗(臨済宗妙心寺派)の寺(明智荘か岐阜の禅寺)

・2020年6月10日(水) 午後3:00まで配信
https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=1927_01_37892

ここから先は

1,599字

¥ 100

サポート(活動支援金)は、全額、よりよい記事を書くための取材費に使わせていただきます。ご支援よろしくお願いいたしますm(_ _)m