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『明智物語』の明智光秀と『綿考輯録』の細川藤孝

・明智光秀について書かれた本は『明智軍記』(全10巻)。
・『明智物語』(全2巻)は、明智家宗主・明智定政(後の土岐定政)の本、つまり、戦国時代の沼田藩主家についての本ですが、養子の明智光秀も登場します。
・『綿考輯録』(全63巻)は、熊本藩主家の家史で、藩士・小野景湛が多くの本を読んで、「連綿と考えを輯(あつ)めた史書」ですが、時代を遡るほど史実ではないことが増えるようです。(戦国時代についての巻は「藤孝公記」「忠興公記」になり、明智光秀や細川ガラシャが登場します。)

 ──『綿考輯録』は『明智軍記』をもとに書かれている。

と誤解されている人がいます。『綿考輯録』は『明智軍記』を含む数多くの本を小野景湛が読んで、考え(史実と思われる部分)を抜き出して書いた史書で、本文の後に「一書」として、本文と違うことが書いてある本の紹介があります。そこによく『明智軍記』が登場します。つまり、小野景湛は、「『明智軍記』と本文(史実)とは異なる」と言っているわけです。ただ、『明智軍記』に書かれていることには史実と考えられるものもあり、そこは『明智軍記』が本文に採用されています。

 小野景湛『綿考輯録』の採用基準は、「史実かどうか」ですが、読んでみると、「細川藤孝がかっこよく書かれているかどうか」のようにも思われます。たとえば、居城・勝龍寺城を三好三人衆から奪還したのは織田信長であり、その日、細川藤孝は御所の警備をしていたことが分かっています。ところが『綿考輯録』では、織田信長が勝龍寺城を攻めようとすると、細川藤孝が「私だけでやらせて下さい」と言うので、織田信長は承認し、細川軍の兵数を聞くと少なかったので「援軍を付けよう」と言うと、明智光秀が申し出たが、細川藤孝はそれも断ったとする。(結局、「細川軍だけで攻め、まさかの時のため、明智軍が後方に控える」ということになり、細川軍は単独で見事、勝龍寺城を奪い返したとする。)

(注)「龍神に勝った」として名付けられた「勝龍寺」を、細川家では「青龍寺」というようだ。「細川家文書」は「永青文庫」に収められているが、「永青」の「永」は細川家菩提寺・京都建仁寺塔頭永源庵の「永」で、「青」は細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」だという。寺の名前が「勝龍寺」で、城の名前は「(勝龍寺にちなんで)青龍寺城」ということか。

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