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2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』あらすじ&感想(第23回「義輝、夏の終わりに」)

■あらすじ

将軍・義輝(向井 理)の文を手に信長(染谷将太)のもとに向かった光秀(長谷川博己)。しかし肝心の信長は美濃攻めに苦戦しており、話どころではなかった。代わりに取り次ぎを任された藤吉郎(佐々木蔵之介)から、京で三好長慶(山路和弘)の子らによる義輝暗殺計画のうわさがあると聞く。しかも裏で糸を引いているのが松永久秀(吉田鋼太郎)であると知り、衝撃を受ける光秀。すぐに大和の松永のもとを訪ね、その真意を問いただすも、松永は「義輝はもはや将軍の器ではない、このままでは世が治まらないので、殺しはしないが追放するつもりである」と告げる。

■トリセツ

「百人組」の頭、藤吉郎
光秀が初めて藤吉郎と対面するシーンでは、信長は藤吉郎のことを「百人組の頭だが、面白いやつじゃ」と評します。
「百人組」とは、雑兵が100人程度集まる小部隊「足軽百人組」をさし、この小部隊を率いているリーダー・足軽組頭を“百人組の頭”といいます。
このときの藤吉郎の織田家でのポジションを、現代に例えて織田家を会社とするならば、藤吉郎は“係長クラス”まで出世していることになります。

駒の丸薬、売り上げの7貫はいくら?
駒が作っている丸薬が評判を呼び、伊呂波から商売を持ちかけられます。
1袋が10文、これを700袋売ると7貫になります。
現代の価値に換算すると、1貫=約15万円。
7貫だと約105万円になります。

■大河紀行 愛知県小牧市

愛知県小牧市。織田信長は美濃攻めの拠点として小牧山に城を築きました。
山の上へ延びる大手道の両側や山全体を取り囲むように曲輪(くるわ)の跡があり、ふもとには、信長の館があったと考えられています。頂上近くには、大きな石を積み上げた石垣があり、近世城郭の原点ともいわれています。

さらに信長は、何もない原野に城下町をつくりました。清須から水運を使って資材を運び、商人や職人たちも移り住まわせたのです。

清須の御園神明社(みそのしんめいしゃ)をこの地の守神(まもりがみ)として分祀(ぶんし)し、理想の町を一からつくり上げました。

居城を清須から小牧山に移した信長は、斎藤義龍の子、龍興(たつおき)と激しい攻防を繰り広げるのです。


 明智光秀は、足利将軍義輝の命を受け、上洛要請の御内書を持って小牧山城の織田信長の元に向かった。しかし、織田信長は、御内書を読もうとしなかった。(こういう場面って、使者が読んで聞かせるんじゃないの?)
 織田信長は、御内書の内容が足利義輝の上洛要請であることは、取次役の家老・林貞秀に聞いて知っていた。織田信長は、生死をかけて美濃国の斉藤竜興と約3年間と戦っていた。たとえそれが将軍であっても、他人のことを心配する余裕はない。そもそも「上洛する」と返事したところで、東山道は、美濃国→近江国→京都であり、美濃国を通る。斉藤竜興に勝たねば美濃国は通り抜けられない。(そもそも美濃国と3年も戦っている織田信長が上洛して将軍を支えられるだろうか? 美濃国など、即座に征服してしまうレベルの人物でなければ無理ではないか?)
 織田信長は「今から軍議を開く」として、明智光秀に木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)を紹介した。(幼名は「猿」。その由来は、申年生まれだからとか、顔が猿に似ていたからとか言われている。動作が機敏で、その動きが猿に似ていたという。以前は登場する時に猿の鳴き声がしたと思うだ、さすがにもうなかった。)この木下藤吉郎は情報通であり、京へ調査に行った明智光秀よりも、京都について詳しかった。裏の情報についても──。京で三好長慶の子・三好義継(実父:十河一存、養父:三好長慶)らによる足利義輝暗殺計画があるというのだ。「止められる人物がいるとしたら、裏で糸を引いている松永久秀である」と言う。
 衝撃を受けた明智光秀は、すぐに大和国多聞山城の松永久秀の元を訪ね、その真意を問い糺した。多聞山城で松永久秀は、3つの茶壺を鑑定しており、2つの茶壺をこなごなに砕いた。そして、松永久秀は、「物の価値も、人の価値も、人が決める。足利義輝はもはや将軍の器ではない」と言い放つ。明智光秀は、「将軍・足利義輝には価値がある」と反論するが、そこに、足利義輝の側にいるはずの細川藤孝が登場し、「『将軍』には価値があるが、足利義輝は将軍の器ではない。次の将軍に期待する」と言った。細川藤孝の変わり様に明智光秀が驚いていると、松永久秀は、「このままでは世が治まらない。安心せい。殺しはしない。追放するだけだ」と言った。

 ──時は人を変える。頑固な明智光秀だけが変わらない。

「変わらない」というか、学習塾の運営&講師をして古典を教える隠遁生活をしているから、変わりようがない。明智光秀の時は止まっている。

:その踊りは「盆踊り」というより「クラシックバレエ」。上半身しか映さなかったのは、靴を履いてるからではないか?(門脇麦さんはクラシックバレエを習っていた。東京ガスのCM「ガスの仮面」を思い出す。)

内山永久寺:奈良県天理市杣之内町
http://www.city.tenri.nara.jp/kurashi/kyouiku/bunkazai/1395982437751.html

三好長慶:「河内 飯盛山城」で病死し、その死を誰もが知っていた。(永禄3年(1560年)、三好長慶は、居城を芥川山城から飯盛山城へ移し、芥川山城は息子の三好義長(義興)に譲渡した。病名は不明。奇行が多く、豊臣秀吉の晩年と似ている。永禄7年7月4日に亡くなる時の遺言は「死を2年間秘匿せよ」であり、葬儀は永禄9年6月に行われた。実際、彼の死は、数ヶ月は、ばれなかった。宣教師の手紙には、「最近の松永久秀は、残虐な暴君で、将軍・足利義輝や、三好長慶を自分の家臣にしている」とある。宣教師は三好長慶が既に死んでいることを知らない。また、松永久秀が本性を表して急に残虐になった原因は、主君・三好長慶が死んだ事を知ったことにあると理解できていない。)

山崎吉家:明智光秀の留守中、毎月お金を届けてくれたという。家族の喜びようにしても、何ヶ月も家を空けていた感じ。越前(一乗谷)→京(二条御所)→尾張(小牧山城)→大和(多聞山城)→京(二条御所)→越前(一乗谷)を馬に乗らず、歩いて回ると、何日かかるのだろう?


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