見出し画像

2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』あらすじ&感想(第11回「将軍の涙」)

■あらすじ

再び今川が尾張に攻め入り、次々と織田方の南部の領地を制圧していく。ついに非力ぶりを露呈した信秀(高橋克典)は、道三(本木雅弘)に援軍を頼むが、高政(伊藤英明)や稲葉(村田雄浩)らが尾張との和議を独断で決めた道三を糾弾しており、美濃は一枚岩ではなかった。兵が出せない由を尾張に伝えにいく光秀(長谷川博己)。このままでは人質同然の帰蝶(川口春奈)が犠牲になってしまうことを恐れていると、ふと信長(染谷将太)が、かつて京の将軍家の取りなしで美濃の内紛が収まった話を思い出す。光秀は道三に将軍家への取りなしを依頼しに戻るも、金がかかると難色を示される。そこで、高政の取りなしで守護の土岐頼芸(尾美としのり)のもとを訪ねるが、道三をよく思わない頼芸はその願いを突っぱねる。

■トリセツ

将軍に仲立ちを頼むために必要なお金、金10枚はいくら?
室町時代の末期は全国共通の高額貨幣はなく、経済流通の主流になっていたのが「金(きん)」でした。各地の大名により金貨が鋳造されていたとみられていますが、現存はしていません。のちの時代の金貨を参考にすれば、金1枚は現在の貨幣価値に換算すると100万円ほどでした。金10枚は、およそ1000万円になります。

■大河紀行 滋賀県高島市

滋賀県高島市。安曇(あど)川の中流、京都から日本海へ抜ける街道沿いに朽木荘(くつきのしょう)がありました。多くの物資と、情報が行き交うこの地を掌握する朽木氏は、室町幕府に大きな影響力を持っていました。

興聖寺(こうしょうじ)は朽木氏の館があったとされる場所に建立されました。将軍・足利義晴は、京(みやこ)の戦乱を避け、この館に身を寄せました。館の庭は、京から落ち延びた将軍を慰めるため、銀閣寺の庭園をもとに造られたともいわれています。

義晴の息子、義輝も戦乱が続く京からたびたび、この地に逃れてきました。時代のうねりの中、将軍・足利義輝は、幕府の権威回復を目指すのです。


『麒麟がくる』は全44回だそうで、今回は第11回。早いものです。
脚本家は、沢尻帰蝶の雰囲気に合わせて脚本を書き、第10回まで撮影が終了したところで例の事件。代役が決まるまで、急遽「駒パート」を作って埋め、川口帰蝶の登場は最小限に留めて撮り直したとか。そのため、「異常に駒パートが長い」という結果になったようです。ということで、今回からは脚本家が書きたかった内容の脚本になるとのことです。今回、駒が出なかったのは、そのせい?(今回で1/4終了するのに、まだ主人公が美濃国にいるというのがちょっと心配ですね。この後、越前国に渡って越前編、さらに、織田信長の家臣となって京都編なわけで・・・先は長い。とはいえ、最終回は天正10年(1582年)で、今は天文18年(1549年)ですから、あと33年。これを残り33回で描くのですから、1年1回・・・ぴったりですね。)

さて、あらすじです。

天文18年11月10日、竹千代と織田信広との人質交換完了。竹千代は駿府へ送られた。豪華な館、豪華な食事・・・今川氏の凄さが分かる。竹千代は、この強大な敵を討てるのか?

今川義元「左様。暫しの辛抱じゃ。雪斎、年が明けたら戦支度じゃ。三河を救うための戦ぞ!」

とはいえ、支度に時間がかかったのか、稲を早めに植えて早めに刈ってからにしたのか、出陣は翌・天文19年8月であった。

 今川軍の猛攻にあった尾張国の知多半島は、南部がすぐに今川領となり、今川軍は、知多半島の北部~熱田に迫る勢いであった。この時の織田家はと言えば、
・宗主・織田信秀:病気のために力が入らず、弓がひけない。
・長男・織田信広:城を攻められても無傷で帰る不甲斐なさ
・次男・織田信長:何を考えているのか全く不明
・三男・織田信勝:まだ若い。
と、今川軍には勝てそうもない。

そこで、織田家家老・平手政秀(吉法師の守役から家老に昇進。京都との外交担当)は、同盟国の美濃国に援軍を申し込んだ。(この同盟、何と呼べばいい? 張と濃だから、「尾美としのり同盟」? 史実は、平手政秀が考えた斎藤利・織田信同盟なので、「平手政秀同盟」?)

早速、守護代・斎藤利政は、評定(軍議)を開くが、守護・土岐頼芸派の稲葉良通は、「稲刈りの時期であるので、兵が集まらない」と言った。斎藤利政は、「稲刈りの時期に今川が攻めてきたらどうする?」と聞くと、稲葉良通は、横を向きながら「(あなたが勝手に同盟を締結した織田のためには戦わないが)美濃のためなら戦う」と答えたので、呆れた斎藤利三は評定を強制終了した。
斎藤利政が金魚のフンのように付いてきた腰巾着の明智光安に相談すると、「『美濃は兵粮米は送るが兵は送れぬ』と告げて収めてもらうしか無い」と提案した。これを斎藤利政は「それじゃ」と採用した。使者は、当然、我らが主人公・明智光秀である。

斎藤利政「平手がその返答で不満なら、盟約を破棄して、今川に乗り変えるまでじゃ」

明智光秀は、乗り気ではなかったが、命令であるので、仕方なく、那古野城へ行った。(織田信長は相撲をとっていた。)平手政秀が出てきて、いきなり、「織田信長と前回会った時は何の話をした? 対今川戦の話とか?」と、何を考えているか分からない織田信長の考えを聞こうとしたが、明智光秀は「鉄砲の話だけ」と答えると、がっかりして、
「織田信長は鉄砲にしか興味がない。先日、国友村に数百注文した。」
「尾張が今川によって傾きかけてる時に」
とペラペラとしゃべった。いくら同盟者相手とはいえ、口が軽すぎる。ダメな外交官だけど、鉄砲の話しかしなかった明智光秀もダメなのでは?
使者・明智光秀が「兵は送れぬ。背後の清須の動きには目を光らす(ので、後方は気にせず、存分に戦って下さい)」と告げると、平手政秀は怒って出ていった。織田信長に報告に行ったのだ。折返し、織田信長が入ってきて、帰蝶の膝枕でリラックス(NTR? 目の前でこんなことを見せつけられると、自分も早く結婚したくなるよね)すると、「和議じゃ!」と名案を思いついた。思いついたはいいが、誰に頼むか、どう頼むかは分からないという。
明智光秀「美濃内乱を将軍・足利義晴が収めた」
織田信長「将軍が守護ではない織田家のために動くか?」
帰蝶「光秀は、将軍の側近・三淵藤英と仲良かったよね?」
織田信長「思案せよ。わしに帰蝶を殺させるな」

明智光秀が稲葉山城に戻って斎藤利政に報告すると、「将軍家のとりなしは金がかかる」と断られた。(どうも明智光秀は、お金がかかるとは思っていないようだ。)明智光秀が「土岐頼芸に頼んで・・・それが筋かと」と言うと、「やりたければ勝手にやれ。わしは1文も出さぬ」と言われたので、明智光秀は、土岐頼芸派である斎藤利政の子・斎藤義龍に「土岐頼芸に会わせてくれ」と(家臣が、守護代の子に「守護に会わせて」と頼むには、取次料として金2枚必要だと思うが、干蛸ではなく、金と大きさと形が似ている魚の干物2枚で)頼むと、「今後、何でも斎藤義龍の言うことを聞く」という約束と交換に土岐頼芸に会うことが出来た。
土岐頼芸は、斎藤義龍に「いざという時は、父・斎藤利政を殺す」という約束と交換に、次の依頼状を書き、明智光秀に金10枚(約1000万円)を渡した。(三淵藤英に金4枚、将軍に金6枚渡した?)

※「三淵藤英宛土岐頼芸書状」
久雖不能音問候。非本意候。去年■■(夏於?)
摂州不慮被一線右京太夫被失■■(命候?)
其上(闕字)公儀離御所於鄙身過候事■■(然者?)
京都之様体、無御心元、為如何候哉。■■(御尋?)
度候。然者近年尾州織田備後守威■■(武大?)
雖前代未聞候。与駿河今川治部大輔
断絶剰及合戦候。当国接尾三候間、
迷惑千万、言語道断之至候。
然者両人
被遂一和候可企御行事肝要候。
此旨(闕字)公儀江宜被下、御披見様是非に
頼申候。委細此者可申候間、不能詳候。
恐惶謹言。
       美濃守頼芸(花押)
 謹上三淵弾正左衛門尉殿

※大意:ご無沙汰致しております。「江口の戦い」で、細川右京太夫晴元は亡くなられ、公儀(足利義輝)は鄙(洛外)に退かれたそうで、京都の様子が心配で、どうなっているのか、お聞きしたいものです。さて、尾張国の織田備後守信秀と駿河国の今川治部大輔義元が不仲になり、とうとう合戦を始めました。美濃国は、尾張国や三河国と接していますので、迷惑至極です。尾張国と三河国の和睦が肝要です。この件につきまして、三淵藤英様から公儀(足利義輝)へお取り次ぎお頼み申します。詳細は使者・明智光秀にお聞き下さい。

・右下の2文字は、TVで映されなかった。()内は想像。
・なぜか日付なし。「天文19年11月」。

 将軍・足利義輝は、「自分には力ない無い」と言って泣くが、「今川義元と織田信秀であれば、私の言うことを聞いてくれるだろうから」と前置きした上で、「将軍は『争うな』という人」だと明智光秀に、「世を平らげて麒麟を連れてくる人」だと父に言われたこともあって、仲介を引き受けた。そして、明智光秀に向かい、

 ──十兵衛、麒麟が来る道は遠いのぉ。

と言った。

「『麒麟が来る道は遠い』という義輝の言葉は、光秀がいたからこそポロリと出たのだと思います。このシーンで大切にしたのは“哀愁”であり、将軍でありながら世の争いを止められない悔しさ。“長谷川光秀さん”ならではの実直さが義輝の心を開かせたのだと思います」(向井理)https://twitter.com/nhk_kirin/status/1244230842337112065

「麒麟が来る道は遠い」はアドリブ? てっきり台本通りかと。明智光秀が話した「父は「将軍は武家の棟梁」だと言った」を受けて、「私の父は「強い将軍になれ、麒麟を連れてこい」と叱って(励まして)くれた」と話したのだと思ってました。
 足利義輝がお父さんの話をした理由には、もう1つあるでしょう。足利義輝は「今は叱ってくれる人がいない」と言っています。そうなんです。足利義晴は、半年前の天文19年5月4日(今は11月だから、まだ半年前)に、亡命先の穴太で亡くなったばかりなのです。自分も朽木(史実では堅田)に亡命して、「父はどんな気持ちで死んでいったのだろうか? 立派な将軍になった姿を見せたかった」と、空(雪雲)を見て思いながら語っていたのかも。

役目を終えて美濃へと帰る明智光秀目にも涙があった。    (つづく)

サポート(活動支援金)は、全額、よりよい記事を書くための取材費に使わせていただきます。ご支援よろしくお願いいたしますm(_ _)m