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2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』あらすじ&感想(第15回「道三、わが父に非ず」)

■あらすじ

道三(本木雅弘)は仏門に入り、ついに高政(伊藤英明)が家督を継ぎ、美濃の守護代の座を得る。そんなある日、道三の正妻の子・孫四郎(長谷川 純)が帰蝶(川口春奈)の命を受け、光秀(長谷川博己)を訪ねてくる。高政はいずれ信長(染谷将太)と敵対し、国を間違った方向に進めると皆が心配しているので、どうにか高政に退いてもらう道をさぐりたい、明智家にその先陣に立ってもらえないかと、孫四郎は光秀に懇願する。光秀が高政のもとを訪ねると、帰蝶に会いに行き孫四郎との妙なやりとりをやめさせてこいと言われる。さらに信長との盟約を見直すことや、信長と敵対する織田彦五郎(梅垣義明)との関係をほのめかす高政を、光秀は不安に思う。

■トリセツ

斎藤利政(道三)が剃髪したのはなぜ?
劇中で行われた「剃髪式」は斎藤利政が出家し“道三”と名乗ることになる、区切りの儀式でした。
息子である高政に家督を譲ると決め、自身は隠居することを広く示すために剃髪し、仏門に入ったのです。
頭を丸め仏門に入るという行為は、これより以前の時代からごく一般的な選択肢でした。世俗を捨てて僧になることで、政治や戦から身を引くという意思表示になります。
武将たちが剃髪し出家する事情はさまざまで、降伏の意を示すためであったり、中にはより大きな権力を手に入れるためのパフォーマンスとして使われることもありました。

■大河紀行 静岡県静岡市

静岡県静岡市。かつてこの地は、今川義元の本拠地で、駿府と呼ばれていました。臨済寺は、太原雪斎(たいげん・せっさい)が開山(かいさん)となり、創建された今川氏の菩提寺(ぼだいじ)です。修行僧の道場として、今なお、静寂な空気を漂わせています。

雪斎は、幼少期の義元の教育係を務め、家督を継いだあとは、外交や軍事面から支え、今川氏の繁栄に貢献しました。雪斎は、このころ人質となっていた松平竹千代、のちの徳川家康の教育係も務めたといわれています。

「黒衣の宰相」とも評された雪斎は、駿河・遠江(とおとうみ)、さらに三河へと勢力を拡大していく今川氏にとって、なくてはならない存在だったのです。


「一生は、雑事(ざふじ)の小節にさへられて、空(むな)しく暮れなん。日暮れ、塗(みち)遠し。」(兼好法師『徒然草』)

ドラマ中で豊臣秀吉が読んでいた『徒然草』の一節である。吉田兼好は、出家すると、俗世間との関係を絶ち、仏教の真理を追求しようとした。
 斎藤利政は、側室・深芳野の亡骸に、家督を斎藤高政に継がせることを約束し、出家して「道三」と名乗り、美濃国守護代の座も譲って隠居した。「出家」と言っても在宅出家であり、仏教の真理をするわけではない。とはいえ、俗世間を楽しもうとしても、正室・小見の方も、側室・深芳野も亡くなってしまい、長男・高政は、守護代として書類に目を通すのに忙しいので、次男・孫四郎や三男・喜平次と鷹狩をして楽しむくらいだ。

※守護代・斎藤高政は、書類に目を通すのに忙しい。そんな守護がやるべき仕事は、土岐頼芸を呼び戻してやらせればいい。斎藤高政は、土岐頼芸を「鷹が殺されて逃げ出すような臆病者」と失望したようではあるが、書類に目を通すのは得意(慣れている)と思う。
ドラマでは「徳院庵の領地を安堵する」と言っていたが、この時期の発給文書としては、「范可」の名で出した「美江寺禁制」が有名である。

斎藤利政入道道三┬長男:高政(後に義龍)入道范可(母:側室・深芳野)
        ├次男:孫四郎(母:正室・小見の方)
        └三男:喜平次(母:正室・小見の方)

 そんなある日、帰蝶の命を受けた斎藤孫四郎が、明智光秀を訪ね、「斎藤高政はいずれ織田信長と敵対し、美濃国を間違った方向に進めると皆が心配しているので、どうにかして斎藤高政に退いてもらう道を探りたい。明智家にその先陣を切ってもらえないか」と懇願した。
 その懇願を断った明智光秀が斎藤高政のもとを訪ねると、斎藤孫四郎の懇願を断ったことを知っており、「帰蝶に会いに行き、弟・斎藤孫四郎との妙なやりとりをやめさせよ」と言われた。さらに、織田信長との盟約を見直すことや、織田信長と敵対する清洲の織田彦五郎信友との内通をもほのめかした。岩倉の織田信安とも親しいらしい。

※ドラマでは、岩倉城の城主を織田信賢(のぶかた)とするが、この時期、斎藤高政と組んで織田信長と敵対しているのは、織田信賢の父・織田信安(のぶやす)である。永禄元年(1558年)、織田信安は、長男・信賢を廃嫡し、次男・信家を嫡男として織田伊勢守家(岩倉織田氏)を継がせようとしたので、逆に織田信賢により、織田信家と共に岩倉城から追放され、織田信賢が岩倉城の城主となった。

 ──さて、明智光秀は、斎藤孫四郎に付くか、斎藤高政に付くか。

明智光秀は、斎藤道三に相談に行くが、斎藤道三は、「斎藤孫四郎にはよく言い聞かせておく」と言うだけであったので、明智光秀は、「今後の道筋を付けてから隠居しないので、こういう混乱を招いている」と苦言を言うと、斎藤道三は「今の時代に道などない。強い者が勝つ」と持論を述べた。どうも、実の息子・斎藤高政と、義理の息子・織田信長のどちらが勝つか楽しんでいるようである。

尾張国守護・斯波義統┬尾張下四郡守護代・織田大和守信友(清洲織田氏)
          └尾張上四郡守護代・織田伊勢守信安(岩倉織田氏)

 ──事件は尾張国で起きた。

天文23年(1554年)7月12日、尾張国守護・斯波義統が織田信長に内通しているとして、清洲城主・織田彦五郎信友が小守護代(今川の目付家老)・坂井大膳に斯波義統を討たせたのである。そして、斯波義統の子・岩竜丸(後の斯波義銀、津川義近)は、織田信長のいる那古野城へ逃げ込んだ。

 ──織田信長に、清洲攻めの大義名分が出来た!

帰蝶が御手洗団子を食べながら、守山城主・織田信光をそそのかすと、翌・天文24年(1555年)4月20日、織田信光が「『囲碁の相手を』と呼ばれた」として清洲城に入り、清洲城主・織田信友を討った。

織田信定┬信秀─信長(那古野城→清洲城)
    ├信光(守山城→那古野城)
    └信次(深田城→守山城)

・織田信長は、岩竜丸を連れて清洲城に入った。那古野城には織田信友が入り、守山城には織田信光の弟・信次が入った。

これにより、岩倉城を攻め落とせば、織田信長の尾張国平定が完成するまでになった。ただ、織田信長の快挙を斎藤道三が褒めれば褒めるほど、斎藤道三と斎藤高政の溝は深まっていった。
そして、ついに、斎藤高政は、重病だと偽り、見舞いに来た孫四郎と喜平次を殺してしまった。

■参考資料

(1)御手洗団子
(2)美江寺禁制
(3)吉田兼好『徒然草』第112段
(4)鴨子芹

★みたらし(御手洗)団子
起源は下鴨神社(京都市左京区下鴨)の葵祭(御手洗祭)の時に神前に供える団子だという。境内「糺の森」にある御手洗池(みたらしのいけ)の水泡を模して、この団子が作られたので「御手洗団子」という。
http://gifu-kiwami.jp/products/72/

★美江寺禁制

「禁制」は、掟や禁令を広く告知するために作成される文書で、戦火による被害を避けるため、寺社などが領主(戦国大名)に保護を求めて申請した。(領主が変わると申請された。斎藤義龍が領主になったのは年末(2人の弟を討った11月22日から翌4月20日の「長良川の戦い」の間)であろう。)

「美江寺文書」(大日山観昌院美江寺(美江寺観音):岐阜市美江寺町)
永正16年2月18日 室町幕府奉行人(斎藤時基、飯尾貞運)奉書禁制
天文8年12月 日 左近大夫(斎藤利政)禁制
・弘治元年11月22日 斎藤義龍、2人の弟を殺し、斎藤利政は大桑城へ避難
弘治元年12月 日 范可(斎藤義龍)禁制
・弘治2年4月20日   斎藤義龍、斎藤道三を撃つ(長良川の戦い)
永禄10年10月 日 (織田信長)禁制
天正10年7月1日 三七郎(神戸信孝)禁制
・織田信長の禁制は現存するが、斉藤左近大夫利政、斉藤義龍(范可)、織田三七郎信孝の禁制は現存しない。斉藤義龍(范可)の禁制は、蓬左文庫に写しがある。

★吉田兼好『徒然草』第112段「明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に」
 「明日は遠き国へ赴くべし」と聞かん人に、心閑(しづ)かになすべからんわざをば、人言ひかけてんや。俄(には)かの大事をも営み、切(せち)に歎く事もある人は、他の事を聞き入れず、人の愁へ、喜びをも問はず。問はずとて、「などや」と恨むる人もなし。されば、年もやうやう闌(た)け、病にもまつはれ、況(いは)んや世をも遁(のが)れたらん人、また、これに同じかるべし。
 人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙(もだ)し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(いとま)もなく、一生は、雑事(ざふじ)の小節にさへられて、空(むな)しく暮れなん。日暮れ、塗(みち)遠し。吾が生(しやう)、既に蹉蛇(さだ)たり。諸縁を放下(はうげ)すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、「物狂ひ」とも言へ、「うつつなし」「情なし」とも思へ。毀(そし)るとも苦しまじ。誉(ほ)むとも聞き入れじ。
【現代語訳】 「明日は遠い国へと旅立たなければならない」と言う人に、「心静かに」(落ち着け)と、誰が言えよう。突然の一大事や、深い悲しみの渦中にある人は、他の事は聞き入れないし、他人の心配や喜びなども気にかけない。しかし、それを「どうしてだ?」と恨む人もいない。だんだん年をとり、病にかかり、ましてや世間から遠ざかって隠居しているいる人も同様である。
 行事は、どれも捨て難い。世間の目を気にして、何でも義理を果たそうとしたら、願いも多くなり、身も苦しくなり、心に余裕もなくなって、一生は、つまらない雑用の連続で虚しく暮れてしまう(老人になってしまう)。日は暮れた(年をとった)が、行く先(仏教の真理)は遠い。私の人生は、既にどうにもならないところまで来てしまっている。関わり合いを捨てなくてはならない。「信」を守らず、「礼儀」も考えない。この気持ちが分からない人は、「お前は気が狂ったのか? 正気じゃない。非情だ」と思えばいい。悪口を言われても気にしない。誉められても、聞き入れない。
【意訳】 引っ越しの準備をしている人や緊急事態が起きた人は、その事で精一杯で、他の事は出来ない。私のように、年をとり、俗世間との関係を断ち切って隠居している老人も同様で、仏教の真理を極めようと思うが、先は長く、余命は短いので、最低限必要なこと事しか出来ない。行事(酒宴とか、連歌会とか)には欠席させてもらう。それを「人付き合いが悪い」と言いたければ、どうぞご自由に。

※前回の「二本の矢(一矢入魂)」は第92段ですから、112-92=20段、読み進んだんですね。

★鴨子芹(カモコセリ)

ミツバ。薬草。乾燥させて用いる。
薬効は、(腫れ物の)消炎作用、血行促進作用。
若い葉は、サラダで生食したり、汁物の香味に使ったりできるハーブ。
個人的には茶碗蒸しのイメージが強い。  

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