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小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第2回【光秀の生年・出生地に諸説】

小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第2回【光秀の生年・出生地に諸説】

明智光秀に関しての生年と出生地については、現在、いくつかの説が存在しています。生年に関しては1516年、1528年、1540年とする3説です。出生地については、現在の地名で岐阜県の可児市、恵那市、山県市、大垣市、そして滋賀県の多賀町とする5説があります。今回は、明智光秀の生年・出生地に関する諸説を解説すると共に最も有力な説とするその根拠についてお話し頂きます。

要旨

(1)生年に関して

 ①永正13年(1516年)説:『当代記』(信憑性の高い古文書)
 ②享禄元年(1528年)説:「明智氏一族宮城家相伝系図書」『明智軍記』
 ③天文9年(1540年)説→若すぎるので論外

丹波の鼠 京に出て 馬を喰い」(江戸時代の川柳)
・丹波国の国主・明智光秀が、京都本能寺で織田信長を討った。
・「明智光秀は子年生まれで、織田信長は午年生まれ」が江戸時代の常識。
・永正13年は丙子、享禄元年は戊子、天文9年は庚子で、全て子年。

(2)出生地に関して

 ①岐阜県可児市瀬田の明智城(長山城)説
 ②岐阜県恵那市明智町の明知城説
 ③岐阜県山県市中洞説(明智光秀生存説が付随)
 ④岐阜県大垣市上石津町の多羅城説
 ⑤滋賀県犬上郡多賀町佐目の十兵衛屋敷説

①説と②説が有力説

①説について
 明智氏の本拠地は、石清水八幡宮領「明智荘」(可児郡(可児市~御嵩町)の「明智八郷」=柿田、瀬田、渕之上、平貝戸、石森、石井、顔戸、古屋敷の8村)である。
 「明智氏一族宮城家相伝系図書」の「頼兼」に「美濃郡可児郡明智城主」とあり、明智家初代・頼重(「頼兼」とも)の居城が明智城である。
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/150/0090?m=limit&n=20
 明智氏の居城「明智城」は可児郡(明智荘)内にあり、それは瀬田の長山城(明智城)か、顔戸の顔戸城(明智城)である。

★明智城とされる長山城(形態:平山城)
・「長山」は馬の背のような山で、要害堅固な城を築ける山ではない。
・堀や土塁といった遺構が残っていない。
ことから「城跡ではない」とすら言われているが、
・曲輪が数箇所残っている。
・北麓に「東屋敷」「大屋敷」「西屋敷」「竹の腰」という屋敷地名が残っており、平時の居館があったと考えられる。
・「明智」の語源は「開けた土地」「新しく開墾した開く土地」であり、それなりの数の武士団を養うには、明智荘のレベルの平野が必要である。
・「七ツ塚」という弘治2年(1556年)の「明智城攻め」の明智方の戦没者の墓がある。
・明智氏の家臣の名字が瀬田付近の地名と一致する者がいる。(涼子注)
以上のことから、長山城が城であることは間違いない。

(涼子注)家臣の名字と一致しても、一族の名字とは・・・
・瀬田付近「明智八郷」の地名:柿田、瀬田、渕之上、平貝戸、石森、石井、顔戸、古屋敷
・明智一族「明智十家」の名字:明智、隠岐、溝尾、奥田、三宅、藤田、肥田、池田(東池田。西池田は土岐宗家)、柿田、妻木
で、「柿田」しか一致しない。(明智光秀の父・光綱の異母弟・光安の本名が柿田光安である。光綱が早世して明智家を継ぎ、明智光安と名乗って明智城に入った。)
明智光秀は11代宗主という。歴代10人の宗主に弟が各3人いれば、分家は30家ありそうであるが、宗家を入れて10家だという。その10家で「明智八郷」を取り合っても意味ないので、分家は「明智八郷」を出た。その先の地名を名字にしたので、「明智八郷」の地名と一致するのは柿田氏だけらしい。
名古屋鉄道広見線・明智駅は、岐阜県可児市平貝戸川田にある。後に「広見町」になる村は、明治元年(1868年)の時点では、村木村、乗里村、下田尻村、伊川村、山岸村、田尻村、小作村、瀬田村、石森村、石井村、柿田村、東柿田村、渕之上村、平貝戸村であった。山岸村には山岸氏居館があり、一説に、明智光秀の生誕地だという。

③説について:城がない。
④説について:系図に登場する。
⑤説について:地誌(研究書)に登場する。完全否定はできない。

★小和田哲男氏の結論:享禄元年(1528年)、可児市瀬田で誕生。

・NHKラジオ らじる★らじる(2020年6月3日(水) 午後3:00配信終了)
https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=1927_01_37769

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