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桶狭間の戦い

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 桶狭間の戦いについては、なぜ3000人の織田軍が25000人の今川軍を破ることが出来たのか、「戦いの経緯」については、よく分からないのですが、「戦いの経過」については、織田信長の右筆であった太田牛一が書いた『信長公記』の記述が正しいとされています。

《桶狭間の戦いの経過》

・桶狭間の戦いの前哨戦①:今川軍、大高城への兵糧入れ
・桶狭間の戦いの前哨戦②:今川軍、鷲津&丸根砦攻撃
・織田軍佐々&千秋隊、抜け駆けし、今川軍先鋒に桶狭間村で敗れる。
・織田本隊、今川本陣を襲撃
・織田本隊、敗走する今川軍を追撃(今川義元、大脇村で討ち取られる。)

 桶狭間村の戦い(織田軍佐々&千秋隊と今川軍先鋒の戦い)では、織田軍岩室隊が横槍を入れて、今川軍の兵約830人を討取りました。今川本陣および追撃戦により、大脇村で討たれた今川軍の兵は約1670人ですが、桶狭間村で始まった戦いなので、「大脇の戦い」ではなく、「桶狭間の戦い」と呼んだようです。(徳川・織田連合軍と武田軍の戦いも、長篠から遠く離れた設楽原で行われましたが、長篠村の長篠城攻防戦から始まった戦いですので、「設楽原の戦い」ではなく、「長篠の戦い」と呼びます。)

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七ツ墓:織田軍佐々&千秋隊・岩室隊の兵士の墓
義元墓(桶狭間古戦場伝説地):今川義元や重臣たちが討たれた場所
戦人塚:追撃された今川軍の兵士の墓

早速、『信長公記』を読んでみましょう。

「御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。」

 今川義元は、45000人を率いて、「おけはざま山」(現在の石塚山)で休憩していたそうです。
 兵の数は史実ではないでしょう。史実は25000人とされますが、
・半数以上が非戦闘員の小荷駄(25000人分の食料を運び、調理したり、弾薬や陣地設営の建設資材を運ぶための人夫)であった。
・今川義元は、25000人を3隊(一説に7隊)に分けたので、桶狭間にいた戦士は5000人であり、3000 vs 5000の戦いであった。
とする説もあります。

《今川軍の陣立》
前方(大高城):大高城へ兵糧を入れ、鷲津砦、丸根砦を攻撃する役目
本隊
 ・先鋒(松井宗信、井伊直盛):桶狭間村(幕山、巻山)
 ・本陣(今川義元):桶狭間山
後方(沓掛城):織田信長が鎌倉街道を通って攻めてくるのを防ぐ役目

「信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、『義元が戈先には、天魔鬼神も忍(たまる)べからず。心地はよし』と、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。」

 織田信長は、見晴らしの良い善照寺砦に入り、作戦を練りました。この時、佐々政次ら300人が、織田信長にいいところを見せようと「抜け駆け」して、今川義元本陣に向かって打ち掛かると、50騎が討ち取られ、今川義元は「儂の戈先(今川軍の先鋒)には天魔も、鬼神も一溜りもないようじゃのぉ。気分良いわ」と言って宴会を開いたそうです。
 「人数三百」は「兵300人の軍勢」でいいとして、「五十騎」を「騎馬の武将50人」とか「騎馬の武将50人と周囲の歩兵合わせて1600人」と訳す方がおられますが、「300人で出陣して50騎死亡」を「300人で出陣して1600人死亡」って訳すとは・・・ありえません。この記事の「騎」は「(馬に乗った)武将」で、「五十騎」は50人でしょう。

「中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。」

 織田信長軍は、善照寺砦から中島砦へ移りました。この時の兵数は2000人弱だったそうです。

「山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓掛の到下(とうげ)の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。」

 織田信長の軍師・伊束法師の天気予報(一説に熱田の塩田の人足頭の天気予報)は的中し、暴風雨になりました。霰もしくは雹も降ったようです。沓掛の嶺山(とうげやま。鎌倉街道の二村山)の楠の木が、松の木に向かって倒れたり、大高の松の巨木が倒れたりする凄まじさで、宴会中の今川本隊が慌てふためいている時、織田信長軍は、中島砦から山際(山の南麓)のぬかるんでいない川の堤防を通って、あるいは、山際(山の北麓)のぬかるんでいない山道を今川軍に見えないように通って、善照寺砦と大師嶺太子ヶ根、戦後は大将ヶ根)の間の北谷、もしくは、桶狭間山北麓の釜ヶ谷へ移りました。

「空晴るゝを御覧じ、信長、鎗をおつ取つて、大音声を上げて、『すは、かゝれ』と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。(中略)『旗本は是れなり。是れへ懸かれ』と御下知あり、未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ、次第に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。」

 今川義元本陣にいたのは、宴会をしていた今川義元と重臣たち、それに小荷駄です。織田信長は、名古屋短大の敷地内にある信長坂を駆け下り、今川義元本陣を襲うと、小荷駄は、弓、鎗、鉄砲、幟、指し物、塗輿を残して逃げました。(武士なら逃げずに武器を手に取って戦うはずです。)
 旗色が悪くなった今川軍は、東へ、山を下り、沓掛城へと逃げようとしました。今川義元は300人に取り囲まれていましたが、2000人弱の波状攻撃により、逃げてるうちに周囲の兵は50人に減り、服部一忠が今川義元に一番槍をつけ、毛利良勝が今川義元を討ち取りました。

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 今川軍は、さらに東へ逃げましたが、宴会に参加していた主だった武将(松井宗信、井伊直盛など)も討ち取られました。討ち取られた今川軍の兵士は約3000人(『天澤寺記』に、驍士583人、雑兵2500人)で、首を切り取られた遺体は「戦人塚」に埋められました。(戦人塚の南部から、数多くの刀や槍が出土しています。)ちなみに、織田軍の死者は約580人でした。

以上、織田信長は、正面攻撃をして今川義元を討ちました。(今川義元は、織田信長が北西の中島砦を向き、今川本陣と中島砦の間に先鋒を配置しました。そして、先鋒の戦いを見ていると、北西から正面攻撃をしたのは、織田軍佐々&千秋隊であり、織田本隊は側面攻撃をしたといえるでしょう。)

織田信長の勝因は、
①天気が味方した。(熱田大神のおかげ?)
②今川義元の位置が正確に分かってピンポイント攻撃をした。
③今川義元が油断した。(重臣たちを集め、宴会を開いていた。)
と考えられます。

③についは、学者が「戦いの最中にそんなことをするはずがない」と否定していますが、していました。その理由は、ある人物の行動にあります。さて、その人は誰でしょう? そして、彼の行動により、今川軍の重臣たちは、戦争中に持ち場を離れて今川本陣に集まり、宴会を開きました。このため、今川義元だけではなく、重臣たちも討たれたため、今川氏真は、すぐに弔い合戦を行えなかったのです。

 跡問へば 昔の鬨の声立てて 松に答ふる風の悲しさ (香川景樹)

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「今川さん」公式サイト(静岡県静岡市)
https://imagawasan.com/
とよあけ桶狭間ガイドボランティア(愛知県豊明市)
http://toyoake-okehazama.com/
NPO法人桶狭間古戦場保存会(愛知県名古屋市)
http://okehazama.net/

今川義元公生誕500年祭事業「今川復権まつり」(静岡市)
http://shizuokakenjinkai.jp/spcontents/14858/
https://kyodonewsprwire.jp/release/201904115309
桶狭間古戦場まつり(豊明市)
http://welcome-toyoake.jp/event/history/post_65.html

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