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2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』あらすじ&感想(第22回「京よりの使者」)

■あらすじ

信長(染谷将太)が今川義元を討ち果たした桶狭間の戦いから4年。京では三好長慶(山路和弘)が権力を掌握し、将軍・足利義輝(向井 理)は完全な傀儡(かいらい)に成り下がっていた。すっかりやる気を失い別人のようになった義輝の話し相手として、藤孝(眞島秀和)らの画策で京に呼ばれた光秀(長谷川博己)は、将軍の力を取り戻すため、いま勢いに乗る信長を上洛(じょうらく)させてみせると約束する。一方、駒(門脇 麦)は、新しい薬の製造をめぐって東庵(堺 正章)と言い争いになり、診療所を飛び出す。伊呂波太夫(尾野真千子)と共に訪れた大和で、駒は貧しいものたちに施しをしている僧・覚慶<のちの足利義昭>(滝藤賢一)に関心をもつ。

■トリセツ

朝廷と室町幕府の関係は?
このころ権威が失墜し政治的実権もなかった足利将軍家と幕府は、すでに朝廷を支えることができませんでした。そんな将軍家や朝廷が頼る先は、下剋上(げこくじょう)が横行する戦国の世で台頭してきた経済力・軍事力がある有力戦国大名たちでした。

「改元」と足利将軍家
当時、年号を改める「改元」は天皇が即位するときのほかにも、吉兆や凶事・天災や飢饉(ききん)・疫病の流行などをきっかけに時代をリセットする意味も込めて、一人の天皇が何度も行うことがありました。
劇中で、関白・近衛前久が将軍・義輝に促していた「60年に一度の“甲子(きのえね)の年”の改元」もその一つです。
「改元」のときには、慣例として代々将軍家が「帝(みかど)へのお伺い」をたててから執りしきる習わしでした。
しかし、義輝が固執していた6年前の正親町天皇即位の「永禄」改元は、義輝が近江・朽木に亡命中でその習わしが実現不可能だったため、年号は改元されましたが、室町期で将軍家が関与しなかった唯一の改元となりました。

■大河紀行 奈良県奈良市

かつて「大和国(やまとのくに)」と呼ばれた奈良県。武士ではなく、寺社勢力が支配する国でした。

守護大名に代わり、実質的な守護となっていた興福寺。畿内(きない)の武家の、家督を相続することのない男子の多くが、ここで出家しました。覚慶(かくけい)、後の足利義昭もその一人です。

松永久秀は興福寺を抑え、大和国を制圧します。久秀が築いた多聞山城。興福寺や奈良の街道などを見渡すことのできる山の上に築かれました。

今は中学校が建つこの地には、天守の先駆けとなった高矢倉などが築かれ、後世の城造りに影響を与えました。

三好長慶の重臣として、一国のあるじにまで上り詰めた久秀。長慶の死後、揺らぐ畿内の情勢を大和から見守ることとなるのです。



◯明智光秀の子

・長女:岸、次女:たま
・たまは細川藤孝がお気に入りのようだ。たまは、将来、細川藤孝の嫡男と結婚して細川ガラシャとなる。
https://note.com/ryouko/n/n6eba528cb2d4

◯改元
 弘治4年2月28日 正親町天皇即位のため「永禄(えいろく)」に改元。
 室町時代において、改元は、朝廷と室町幕府の協議の上で行われた。ところが、この「永禄改元」において、朝廷(正親町天皇)は、従来の慣習を破り、京都から追放されて没落していた将軍・足利義輝の改元の発議や費用の負担を求めず、しかも通告すらせず(万里小路惟房『惟房公記』)、三好長慶との相談の上で実施した。
 足利義輝は激怒し、以後半年間にわたって「弘治」の元号を用い続けた。足利義輝が「(天皇の改元に従わない)朝敵、反逆者」となっている事態を避けるため、11月27日、三好長慶と足利義輝が和睦し、足利義輝は将軍山城から入洛し、「永禄」改元が日本全国で承認されることになった。また、12月28日、足利義輝は、近衛稙家の娘と結婚し、近衛家との関係を再構築した。

 ──辛酉革命、甲子革令

・辛酉革命:「辛酉」は、天命が改まり、王朝が交代する革命の年。
・甲子革令:「甲子」は、「辛酉」の4年後で、天意が革(あらた)まり、徳を備えた人に天命が下される「革令」の年。
「辛酉」の年に天皇が変わり、「甲子」の年に誰か(天下人・三好長慶とか)が足利将軍と変わり、麒麟が現れるというのが、ベストなシナリオ?

 日本においては、政治的変革が起るのを防ぐ目的で、「辛酉」「甲子」の年には改元が行われてきた。永禄4年(1561年)は「辛酉」であったが、将軍・足利義輝が発議をしなかったので、改元されなかった。(足利義輝は、自分を通さなかった「永禄改元」をまだ根に持っていたらしい。)永禄7年(1564年)「甲子」、またしても将軍・足利義輝が発議をしなかったので、「永禄改元」の時と同様、再び三好長慶が改元の申請を武家伝奏・広橋国光(妹婿は三好長慶の重臣・松永久秀)を通して上奏した。しかし、改元が契機となって足利義輝と三好長慶の京都での軍事衝突に発展することを恐れた正親町天皇は、改元をしなかった。
 天皇と対立する足利義輝の人気は急降下し、永禄8年5月19日の「永禄の変」へと繋がる。(織田信長も『異見十七ヶ条』において、「光源院殿(足利義輝)は、宮中に参内されることを怠りがちだったので(天皇とコミュニケーション不足で対立したので)、不幸な最期を遂げることになりました」と足利義輝を非難している。)

 ──御参内の儀、光源院殿御無沙汰につきて、果たして御冥加なき次第、事旧侯。(織田信長『異見十七ヶ条』)

https://note.com/ryouko/n/n5a69c9f3b757


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