脳と多数の山羊。

 その日はいつもの太陽が、いつもの道をたどっていた。それに変哲は無く、白い光と熱は、地球という球体とそれに寄生している人類を焼いていた。そこに悪意は無いとは思うが、もしかしたら太陽が熱いのは、人類への嫌がらせなのかもしれない。
 幼稚園。
「せんせえ、ちんちんが飛んで行っちゃいましたぁ!」
「え? ちんちん……?」
「そうです。ちんちんが飛んで、空高く行ってしまったんです。ぼくは止めたんですけど、聞かずに飛んでいきました」
「え、ええと、どういうことかな?」
「だから、ちんちんが飛んでいったんですよね。つまりちんちんが飛んでいったんです。ええ。ええ、理解しました? ちんちんが、大きく風を切って、こう……びゅうううんって、飛んで、空高くね? そう、飛んだの。ちんちんが」
「そっかあ! 先生もうピクトグラム作るの、やーめたっ!」
 すると園児は唐突に、まるでいきなり目の前に電信柱が現れたような感覚で、真顔になった。
「え、ちょっと、どうしたの……?」先生は、急激に頬から汗を流していた。
 神妙な顔を続ける園児の、どこまでも続いていそうな眼球に目がいってしまう。瞳には、どこまでも続いていそうな空洞の闇があって、どうしても恐ろしかった。
 しかし実際のことろ、眼球の底には何も無かった。底すら無かった。無という概念が広がっていると言えばそれまでではあるが、そんなもので言い表せるほどのものでもなく、見ていると吸い込まれそうになってくる。
「なんなのっ! ねえ!! アンタほんと、なんなんだよっ!!」
 先生は園児の眼球の中に、神秘的であり恐怖的でもある何かを見出した。それは例えば宇宙の真理や、生命誕生の秘密などと同じようなものなのかもしれなないが、少なくともそれを観測している先生には、それが何かなんてことは全くわからなかった。ただ神秘的でただ恐怖的。そういう抽象的なイメージだけが先生の心の中に植え付けられ、最後にはその眼球の中に、自分自身もたどり着きたいとすら思ってしまった。
 すると園児が言った。
「先生。男の人にはおちんちんが、女の人にはおまんこがついているんだよ」園児という歳には似合わない、とても男らしい低い声だった。
「え、えっ……」
 それは先生にとっては、不意打ちで頭から冷水をかけられたような感覚だった。
 先生はあまりにも巨大な興奮と、それが一気に冷却されていく衝撃によって息を飲んだ。しかしそれは飲み込んだというよりは、息を喉奥に押し込んだというものだった。
 目の前の園児は笑っていた。まだこの世の汚れを何一つ知らない、純真無垢な笑みだった。それでも先生は恐怖を感じていた。
 すると、
「大丈夫」
 園児が突然言い、そして先生の両頬に、両手で優しく触れた。
 園児の手は、できたての餅のような生ぬるくて柔らかい感触だった。しかしその感触は休むことなく変化していく。触れていれば触れているほどに柔らかさが増していき、ついには感じられるほどのものですらなくなってしまった。
 園児の手の感触が完全に消えたとき、先生は初めて、自分を取り巻く世界の全てか消え去っていることに気が付いた。まるで水で薄めているように徐々にボヤけていき、やがて完全に消滅していく。目の前に居たはずの園児はとっくに居なくなっていて、建物としての幼稚園も消えていく。
 消滅した先にあるのは暗闇で、大した時間も使わずに、先生の周りは暗黒が包んだ。
 それからはもう何も無い。と先生は思った。思ったので、園児が消えかけている時に見えた山羊の顔を頭に思い浮かべながら瞼を閉じた。
 それからすぐに、なんだか誰かに体を動かされたような気がした。最初はそれに警戒をしたが、体が動いたことで気持ちが一気に楽になったので、そのままでいることにした。そうしていると、脳に急に眠気が襲ってきた。流し込まれたような感じだったが、不思議と不快感は無かった。すでに心地の良い気持ちだったので、先生はそれに浸かることにした。
 すると、次に意識が戻ったのは喫茶店の中だった。まるで上から落下してきたかのように、ストンと喫茶店の隅の席に着席していた。
 その瞬間、先生は先生ではなくなった。先生はすでに、灰色の世間を漂う、ただの山羊だった。
 喫茶店には雑音が入り乱れていた。他の客の対話の声や、どこからともなく流れるラジオ番組のざわめいた音は意識をしなくても聞こえてくるし、それからさらに耳を澄ませば、厨房の音まで聞こえてくる。
 そんな耳の良さが、先生が山羊になった証拠だった。
 周りの客に山羊は居た。それも二種類で、自身と同じような四足歩行に白色毛並みを持った完全な山羊と、頭だけが山羊の人型。その二種の間と、ただの人間の間に種族的な差別などは無いらしく、どの席も楽しそうに食事や談笑を繰り広げていた。
 先生はそこで、自分の居る席を客観的に見てみた。なんだかこの席は、喫茶店側から忘れられていそうな席だった。実際、山羊の丸い眼球をキョロキョロとさせて、不自然なくらいに辺りを見渡しても、誰一人としてこちらのことを見てこない。なんだか不遇な気持ちになってくる。頬杖を自然とついていた。
 先生は窓の向こう側を眺めてみた。外には少しの風が吹いているらしく、道を歩く人間や山羊頭や、山羊の合間をサラリと抜けていく、その度に、衣服や毛並みを撫でている。
 そんな外に、どっしりとした雰囲気で置かれている広場があった。円形で、周りはアスファルトだというのに、そこだけは茶色い土が露出していた。いわゆる空地的なものらしく、今のそこでは、山羊らが決闘を繰り返していた。
 一人のどろりとした目を持つ山羊を、多数の山羊が囲んでいた。どうやら、様子をうかがっているらしい。睨み合いの時間がしばらく続くと、その後に突然、輪の中の一匹の山羊が、どろり目の山羊に向かっていった。四肢をけたたましく動かし、土煙をものともせずに突進していく。攻撃をしかけるらしい。
 しかしどろり目の山羊は、それを自慢の大いなる頭突きによってあしらった。
 頭突きを喉元に喰らった山羊は簡単に宙へ浮き、それから後方一直線に、まるで無重力空間にいるかのように、非常に軽々しく飛んでいった。
 数秒後、大げさな音と共に山羊の断末魔が決闘場にも届いた。しかしそれに反応する山羊は、どろり目を囲んでいる山羊らの中にも一匹としておらず、それよりも標的である、どろり目の山羊の驚異的な攻撃力への警戒を続けていた。しかしそんな警戒を簡単に崩し、蹂躙してしまうのがどろり目の山羊だった。一匹を吹き飛ばしたことを皮切りに、それから流れるような突進と頭突き攻撃で次々と山羊らを蹴散らし、あっという間に茶色い円形広場には、どろり目の山羊しか居なくなった。
 どろり目の山羊の猛攻に、先生は硝子窓越しに圧巻していた。まるで歴戦の戦士のような高速さには、全身が硬直してしまうほどの驚きと恐怖を感じていた。もしかしたらあの山羊は、本当に歴戦の戦士なのかもしれない。それならばあのどろりとした目にも納得がいくので、先生はそう思うことにした。
 すると不意に、そのどろり目と目線が重なってしまった。先生は瞬間的に生命の危機を感じた。自分の脳内に、あの山羊の強力な頭突きによって自分の体が炸裂していく様が妄想として映し出され、それから一気に毛並みが逆立った。悪寒が全身を駆け巡り、それがどうしても気持ち悪く、サッとテーブルに顔を向けた。しかしそれでも悪寒が治まらなかったので、先生は最大限に自分の聴覚に集中し、やがてありもしない音を聞くことに成功した。
 惑星の話を、どこに行っても聞かなくなったのはいつからだろうか。それは言い換えれば、民間が惑星に対しての興味を失い、別のコンテンツに関心が移ったことを表しているので、そんなデータは実際に、現代を研究している学者達には必要だった。喉から手どころか、肘までが出てきてしまうほどに欲している科学者が、世の中という地獄の中に、山のように存在している。
「この世界はどこまでも闇で、どこまでも地獄だ」
 そう言った偉人が、余生を平和に過ごすことはありえない。災難こそが平和だとするのなら平和だが、実際の場合、そうではない。
「甘い人間をよく思い出してみよう」高校球児がよく言っていた。
 問いかけが勇ましく、それでいて愚かだった。向日葵のように上手く行くことは無いが、少なくとも、風を信じる子よりは良い進路だった。
 病院に駆け込んだ昨日の少女が、不安がっていた。
「頭がぼうっとするのです。体がくらっとするのです。もう、熱湯などでは何も解決しないのです。……何なんでしょうか、ああ恐ろしい」
「ああ……」主治医にはその姿が、なんとも美しく見えてしまった。小動物のような小ささには支配したいという欲求が働き、大げさなほどにガタガタと震えている眼球には、興奮を感じていた。
 だからこそ主治医は、「よし、ならこの薬を打ってみよう」と言いながら、特製の青白い興奮剤を注射してみた。薬物に頼る事は禁忌であると、完全に知ってはいたが、もはや主治医には、我慢ができなかった。どうしても、目の前の怯えている少女のことを、わが物にしたかった。
 そうして打たれた薬が、しっかりと体の中の全てに浸透した少女は、まるで電源を落とされたロボットのようにがっくりと頭を下ろし、それから最低限の口の動きでこう言った。
「ミンカン、民間。ミンミン、あ、蝉ドラム」
「え、どうしたんだい?」主治医は意表を突かれていた。目を丸くして少女の顔を覗き込むと、少女の二つの眼球はすでに赤く染まっていた。
 それは本当に、ロボットが起動した時のようだった。
 少女はさらに続けた。
「ライライ、乱闘。全勝、未来。三日月、未確認、予定無し」
 なんだか生臭い臭いが、辺りを漂った。
 主治医はその瞬間、この先の未来を全て知ったような気持ちになった。しかし実際にはそうではなく、全てが主治医の妄想だった。未来を予測するということは、しょせんそれまでの経験を元にした行為でしかなかった。結局は排気ガスも、人間が作り上げたゴミの山も、芸術でしかなかった。未来を救うなんて、そんな幻想的なことはありえなかった。後の世界の職員らは、とっくに人間らしい姿や体内組織を失っていた。しかしそれの代わりに、人間よりも耐久度の高い腎臓を体内に得ていた。
 学芸会で、口々に言う。しかしその学芸会とは、見る人間によって、姿や形式が変わる。
「十三年後の未来の中で、世間がようやく精液についての思考を開始した瞬間を狙って、向日葵の叔父が空からやってきたらどうしよう。あの変態クソ野郎はどうしてか両足をバタバタとさせて、明日の生徒会に備えていたけれど、近所で騒ぎになっていたパイプオルガンが、これまたどうしてか、勢い良く飛んできた。まるで活きの良いマグロのような飛来に、乗っかっていた老人たちがローブを意識して、青い乗車券を捨てていった」
「ロープを意識するのは、とても大切ですよ!」通りすがりの木刀売りが言っていた。
「煙草屋が恋しくて。恋をしたくて、または濃いを強いたくて。悶えるような快感が、やがて痒みになる前に、楽な恰好で遊びに出かけた。徘徊者はいつまでも、小学生時代の明るい妄想ほどにしかならない文字列が好きだった。……黄昏とは少し違った橙色の時に、正解が頭の中で芽を咲かせる」
「いつかに聞いた演説で、怪しい老人が言っていた」簡単に一息をついてから、改めてマイクを口元に持っていく。「そう、変態は加速するものではなく、常に加速し続けるものである、と」
「そんな一つの科学的説明を、父親があらためてホワイトボードの上で説いたとしても、それを聞いていた家族の心情は変わらなかった」
 それらはある日、教会に出向いて神父に言う。
「なあ、最高のマスターベーションを求めていこう」
 神父においての心情とは、『己の生死は一秒前の自分よりも速くに誕生する』というもので、それはつまり、最高速のオナニスト。コンマ一秒以下で競う彼らに通常の人間の声援は届かないが、変わりにアダルトビデオの素晴らしい性行為だけはしっかりと見えていた。
「あの日の精液の、白濁な世界が美しい」神父は昔の記憶に思いをはせながら言う。世間は結局十三年間、それの存在自体すらも否定していたが、しかしこの目で見る限りそれは存在するし、それを発展させるための快感を促進させる組織すらあった。まるで薬のような、刺激的で効果的なアダルト行為も同じように存在する。
 美しい宇宙のスイッチを、頭髪で作った親指で押してみよう。ゴミの臭いに犯された主治医は瞼を閉じていたが、それでもしっかりと開く口で言う。「そうだ、全世界で開催された脅威の水洗い選手権が、賭博行為の中で空中分解をした旨を、文学はまだ知らない」
「檻の中の鬱状態は、暴力的な言語を使うのか」それが真実とは限らなかった。
「いいや。全員、そんなふうに気取っているだけだ」
「なら、どうしてコンビニエンスストアの、あのイートインスペースを嫌悪しているんだ? あれはとても良いものではないか?」
「ああ……」それから、数秒間の沈黙。そして冷たい空気を吸いながら、「あれは、あれに居ると、なんだか戦いが始まりそうなんだ」
「戦い?」
 無言でうなずいてから、「戦い……いやそれというよりは、なんだか、闘争心が沸き立ってくるというか、なんだか、とても他人を脅かしたい気持ちになってくるから」
「皆がそうなのか?」
「ああ」
 自分に対しての身代金を、銀行強盗に要求してみたい。そうすることで救われる命があるのだけれど、どれもショーウインドウの中のデザートでしか得られない快感があった。
「息継ぎすらもまともにできない異性が好きな人間ほど、美学におぼれて綺麗になっていく」
 ファウンデーションを食べた時に爆発して、三十五個以上の落雷を達観しよう。
「ぼくはそれ、とっても嫌ですね」
 なので、おります。と、謝罪を付け加えながらお辞儀をして、去っていった研究員。そんな事態は、もう彼で五人目になる。
 無言が広がっていく研究室の中で、所長が壁に向かって口を開く。
「……例えばこの世から音が無くなったとして、そうすると次に死ぬのは誰だろうな」ここでの死とは生命からの逸脱であり、鮮血を有するものではない。なお引力を使用した際の乗車だけは、それに該当しない。「昔はいつも玄関が開いていて、誰でも出入りと盗みが可能だったけれど、そんな昔の人間に、他人の物を盗むなんていう思考は無かった。だから、音が無くなると真っ先に死ぬのは、もうあの世に逝っている音楽家たちなんだ。絶望の底に立たされた彼らは枯れ葉になって、それから養分になるまでの何百年をそこで過ごすんだ。そうしているうちに、音のことなんて忘れて、自分がどうして狂っているのかすらも、忘れてしまうんだ」悲しげに、顔をどこにでもない場所に向ける。瞳には寂しさが映っていたが、それを拭える人間は、居なかった。
 沈黙が、今だけ特売。先導を好ましく思わない呼吸音が、群がってギターを弾いていた。
「ああ……そういえば」一人が立ち上がり、そして本棚の中からお気に入りの映像作品を選び抜く。そうしてそれを部屋の隅にある円形の機械に入れてから、改めて向き直る。「昔ね、本当に昔。オジイサンが溺死してしまっている姿に遭遇したことがある」
 とても楽しそうだった。それに対して所長や他の研究員が、「おい、あいつは気が狂っているのか」という疑問をぶつけ合ったが、それの答えは結局出てこなかった。
「その時の自分は、まだまだ世間とか、何より死というものを知らなくて、だから溺死している人間を前にしても、何も感じずに体に触れたんだ。少し冷たいなとは思ったけれど、でもそこが水場っていう場所であることから、そんなに気にならなかった。そのまま体を揺さぶると、それの影響で溺死体は横にズレたんだ。ゴテンって、物みたいに動いた。それを見たら、ああこれって本当に死体なんだって実感した。でもやっぱり、恐怖はなかった。確かに心臓はバクバク言っていたけど、不思議と、そこから逃げたいとか、そういう感情は一切無かった。むしろそのまま死体のことをもっとよく観察して、できるならお嫁さんにしたいな、とか思ったりして……」
 そこまで言い、そしてテーブルの上の冷たい紅茶をすする。それから紅茶のカップをテーブルに置くと、それまでのお気楽な顔とは一変した、冷たい顔で言った。
「だから、あの死体を家に持ち帰ったんです」再び紅茶を飲んだ。「それから、彼女との生活が始まったんです。起きるのは基本的に僕のほうが先で、食事も僕が作った。彼女は不器用で、そういうのは苦手だったから。でもだらけていたわけじゃない。彼女は癒しの達人で、僕の疲れ切って萎れている心を完璧に癒してくれた。温かく、全てを受け入れてくれて、とても嬉しかった」
 そうして再び、紅茶を手に取って飲んだ。それまでのすすり飲みとは違い、今回はカップに口を付けたまま顔ごとカップの底が天井を向くように上に動かして、紅茶を一気に飲み干した。
「彼女との生活の中で、僕は初めて気づいたよ」息を吐き、紅茶が美味しいと小声で言ってから、「クッキーってのは、世界を繋ぎ、人間を癒すことができるってね! へへ」とても楽しそうだった。
「ああそういえば、この人はなんなんだっけ。ねえこの人間って、なんで自分と一緒に居るんだっけ。なんだかおかしくなってきて、なんでだろうなあってずっと考えても答えは出てこなくて。それから少しして水場に入ってきた女の警察官の顔だけは、今でもどうしてか、しっかりと覚えていて、でも、その警察官がナニを話したのかまでは全然覚えてない。多分、あまりにもよくわからない出来事なせいで、当時からよく聞いていなかったのだと思うけど、改めて記憶として思い出そうとしても、スッポリと抜けてるみたいに、あるいはその部分だけが切り取られているみたいに、思い出せない」
「大丈夫。どちらも大して高尚な人間ではないさ。だって大衆だって、あんなふうに子供を放って会議なんてものを始めてしまうんだもの。みんな、たいしたことないさ」
 次は病棟だった。
「たいしたことない……たいしたこと、ない」
「ああ。みんな、たいしたことない。ぼくも、きみも。みんなだ。みんな、全員たいしたことない。これからココに来る、ぼくの友人達も」
「人がくるの?」
「そうさ! 愉快な人間だ!」
「それらは、たいしたことない……?」
「そうさ! たいしたことない。ぼくやきみと同じで、たいしたことない。だからきっと、仲良くなれる」
 すると二人の後ろにある、赤い扉が開いた。白い光が部屋の中に充満したと思ったら、すぐに二人の人型が入り込んできた。
 人型の二人は普通の人間ではなかった。二人の頭は山羊だった。しかし頭から下は、人間のそれだった。
 二人は部屋の中に入ると、すぐに扉を閉めた。途端に白い光は扉の向こう側へと消えていき、部屋の中には湿った薄暗さが残った。
「間違いなく、この秋の最高傑作!」
「ポップコーンもついてくる! あの長いやつも!!」
「感動できます。楽しめます」
「えっとあの、映画の宣伝でもしてるんですか?」
 その一声で、他の人々はワッと笑顔になった。
「してます! ええ! この映画はファンテック! たのしい」
「なあ、見に行こう。楽しいぞ。ここに居るヤツら全員、一緒にさ」
「そうさ!」
 そうして彼らは、愉快に映画館へと足を運ぶ計画を立てた。実行は三日後で、それはすぐにやってきた。
 映画館は遠いので、新幹線を使うことになった。新品らしい新幹線に乗り込む彼らは、退屈しのぎとして有名な小説を回し読みすることにした。
「じゃあ、ぼくが読んだら次はお前な?」指さしで確認しつつ、全員がどうしようもなく楽しいことを笑顔で示す。
「よしっ、行くぞ」そうして小説を両手で持ち、息を吸ってから文字列に目を向けた。

「目をつむったまま、呪文を唱えるように好物を順に言う私は、その瞬間に目を覚まし、そして機械が起動するように起き上がりました。
 ああ、どういうことなのだろう。その内心をしっかりとした言語で答えるのなら、混乱が正しいのだろうか。いや、しかし私の脳内というグラスの中には、混乱という強い酒に、冷静という氷塊も確かに浮かんでいる。つまり、こうして脳内で、声として口から発音をせずに言葉を紡ぐ事ができるぐらいには、私の脳内は冷静でした。
 普段から細いと言われている眼を更に細めて睨みつけていたのは、私が今いる精神病棟の、私が入院している部屋の壁ではありません。確かに病室のボコボコとした、まるで手でちぎった木綿豆腐の断面のような壁には、長い悪夢から飛び起きるように解放された後に睨みつけるほどの価値はありますが、私が現在見ているものは、そんな現実的で具体的な物ではありませんでした。私は病室の中央にあるベッドにて睡眠状態になっていましたが、顔面に覆いかぶさるほどに大きい蛸の吸盤の恐怖にて現実へと帰還することができました。それは奇跡的なことでしたが、睡眠状態の時に脳内で見た悪夢の強烈な現実感のせいで、その奇跡に興奮を感じるほどの余裕がありませんでした。
 私の脳裏には、そんな悪夢が自分の意思とは関係無しに再生されていきます。まるで前日の出来事を思い出すかのようなそれに、私は恥ずかしながら、逆らうことができませんでした。
 私は自分の上半身を、買ったばかりのバネのように跳ね上がらせ、純白のベッドの上で上半身だけを起こしました。そこは八畳の部屋で、睡眠状態にある私の肉体が横になっている病室と同じように、全てが白でした。壁も、床も、中央にあるベッドと、その直線上の壁にある扉もしっかりと白色でした。ただ、私の両足を掴んで離さない手錠のような輪っかだけは黒の色を持っていました。我道をゆく! と主張しているような目立ち方に、私は一瞬だけ心をも掴まれましたが、しかし私は鉄などに興奮したりする癖は持っていないので、数秒後にはそれがどれだけ頑丈で冷たいかを自由の効く両手で感じていました。手錠は硬い鉄で出来ていて、氷のような冷たさがありました。試しに舐めてみると、その鉄分の中に火薬のような物の付着を感知しました。その火薬の辛味は舌から私の体内に侵入し、神経を新幹線のように走り、やがて脳に浸透していきました。私の脳みそはまるで、キッチンペーパーが水を吸収するように、外部からやってきた危険な辛味を吸い付くし、それは私自身に頭痛と意識の覚醒という二つの影響を与えました。
 私はそこで、再度現実に帰還しました。悪夢を再生した際の頭痛をピキリと感じつつ、しかし頭の中ではしっかりと、あの悪夢の中で最終的に流れてきた一つの歌を思い出していました。そうです。私は夢の中で聞いたあの歌を、あのどんな歌よりも優れた歌を、私が書く小説に活かしたいなと思っていたのです。夢で聞いたものなので、それに対して著作権などは発生しないと思うので、堂々と使用かできるなと、夢の中に居た時から考えていました。
 私はなんとしてでも覚えていたいその歌を唱えようと、口を開きます。乾燥の影響でカサカサと血の臭いがする唇を、痛いなあと思いつつも動かします。……よし僕の番は終わりだ」
 ふう、と一息ついて、文字列から顔を上げる。聞いていたやつらはすっかり小説の物語に夢中になっていたらしく、少し難しい顔で考察をしていた。
「どんな歌って、どんなのなんだろうな」小説を聞いていた一人が言った。
「ええと、歌は、『るーるー! ステップ、ステップ』という感じだ」小説を読んだやつは言いつつ、次の番に小説を回した。
「なるほどな。愉快じゃんか」
「なあ、ここからは台詞のパートだし、みんなで役をやらないか?」
「なるほど、良いな」
「ああ」
「やろう」
 そうして即興劇のようなものが始まった。一つの小説を台本としたそれはなかなかに窮屈なものだったが、楽しくはあった。
「そしてそれからは、勢いに任せて流れてくる吐瀉物のように歌は口から勝手に出てきました」
「真珠に染まった枯れない木の、その下に。あーあー! ストック、ストック……日陰とは呼べないほどの暗闇の、その中」
 次の番のやつは台詞を言う前に一息。ついでにコーラを飲んでから、続けた。
「今日の教科書三重なんですか! 今日の教科書三重なんですか! 今日の教科書、三重なんですか!」
「メェー! と大きく合唱してみせる」
「そんな、そんなっ、ホイッスルを授かったモノ達のっ、アナザーストーリーが開始する!!!」
「そこまで唱えると……ああ、ここは心理文章だ。えー、そこまで唱えると、私はいよいよ頭の中の整理が終わり、そして思考のフィールド、つまり私自身の優秀ダンボールの中は、動物以外が無い空っぽの状態になりました」
「ヤギについて考える時、それはとても深い快楽を、私に提供します」
「とてもフレッシュな脳内に流れてきた言葉を、私は何の抵抗もなく発音しました。するとその瞬間、私は強烈な頭痛と方向感覚の喪失を受け、やがて視界が焼かれていくように、暗黒へと染まっていきました。
 その次に見えてきた景色は、爽やかさが感じられるほどの新鮮味を漂わせた草原の、中華屋で出てくるような炒飯の形をした丘でした。
 丘の上に人影のようなものを見た瞬間、すでに死にかけだった私の意識は、ぷつんと潰される虫のように消えていきました。
 三千年の歩行実験が、民衆にとっての救いだった時代。連続する場面と、それに連結された心情が、全て意味のあるものなのかはわからないが、それをしっかりと調べる必要があるとは思えなかった。労働を食事としている人間が、落ちていたチリ紙を拾い上げる。それには黒い、七時五十二分の時間が刻まれていた」
 そこで、新幹線内のアナウンサーが目的の駅の到着をアナウンスした。彼らは少しだけ慌てた様子で新幹線から降りると、映画への期待を会話しながら映画館に向かった。
 その後、彼らがどうなったのかは、誰も知らない。
 少なくとも、その後の彼らをしっかりと目撃した人間は、一人も居ない。
 優秀な人間が、教員として所属する大学。
 そこに、教員としての最高位である教授という称号を持った白衣の男が居た。男の強い優雅さがある自室の四方は、天井にまで届く鷹さの本棚に囲まれていた。棚には大量の冊数がぎっちりと収納されていて、そこにある本の種類は、男が専門としている心理学に関する書物だったり、男の単なる趣味である人体解剖の本だったりと、とても豊富だった。
 部屋の真ん中にある長方形の長机は、図書館などに置いてありそうな広々さのある明るい木目調。それに対応した一脚の椅子もまた、明るい木目調に包まれていた。
 そんな部屋の中で男は一人、身勝手な思考に飲まれていた。
「うむむむむ……無価値とはなんだろうか。タダであることだろうか。しかし、人は物をタダでもらえると、さもその物に価値があるようなそぶりをしてくる。その人にとって、タダで手にした物には価値があるけれど、それを手にするために払った対価は無くて、それはつまりタダってことで……」
 自室をぐるぐると歩き回る男。脳みそに迸る熱はついに熱暴走をしたパソコンのそれを超え始めていて、男は自分自身が爆弾か、ライターを武器としているタイプの通り魔に放火をされた被害者になったような感覚に陥った。その熱は男の室内徘徊の足を止め、その場にしゃがませるまでに至った。
「うううっ……」
 そろそろ頭を冷やす例の呪文でも唱え始めるべきか、最初の一文字目はなんだったか……。となって、それを調べるためにしゃがんでいた体勢から机にあるスマートフォンに手を伸ばした瞬間、
「おい! 失礼する!」
 という怒号とともに、自室の扉が大きく開かれた。
「え……」
 男はスマートフォンを手にしながら中腰で、開かれている扉とその先に居る人物を丸くした目で見ていた。
「ど、どちら様ですか……?」
 限界まで開かれた扉。その先から、男の自室内にずかずかと入ってきたのは、男と同じく教授であり、男の友人でもある人物だった。
 それから二人は外に出た。高尚な大学の建物の外にある世界は、いつかの日常だった。灰色で、気分は悪く、天気で表すのなら今にでも豪雨が発生してしまいそうな曇り空。それはいつも通りで、それが二人にとっての日常。なのである意味、二人の調子は良かった。
「おいっ! いい加減、爆弾のフリをするのをやめたらどうだ! 周りの人間を見てみろ、ちくわを食べるのに必死なんだぞ!」
 コンビニの近くにある、とてもとても馴染み深い自動販売機の前で、夏だというのにやはり白衣を着ている男に友人は言い、そしてさらに続ける。
「なああ、僕は君の右端が開いていることに、心配を掛けているよ」そう言いながら、手元の缶コーラを飲み干す。
「だから止まれよ!! なあ!!」
 それは最大限の見せ場での告白のような、大きな声の発言だった。友人はそれから、缶コーラを投げ捨てた。
 白衣の男は友人のその一連の流れで、背中に数多の摩擦熱を感じていた。つぎに買う眼鏡は夕暮れ色のものが良いなと思いながら、歩き出そうとしていた足をピタリと止めた。
 すると友人も、立ち止まった。
「おい、どうして立ち止まる」そして白衣の男の背中に言った。
「え、ええと……」
 どうしよう。ああそういえば、昨日食べたきのこは本当に、毒が無かったのだろうか。あのグニャリとした感触には、さすがにほかの教授も驚いていたが、昨日の料理担当である女の言葉を信じると、あれは毒なんかではないはずだが……。
「ええと……」
 立ち止まっただけで何も言わず、自分の中での思考で全てを執行している白衣の男に、友人はいい加減、背筋に新しい摩擦熱を感じながらも嫌な気持ちになっていた。
「なぁ! いい加減、本当にいい加減、そのタオルを盗んで返してみせろ! なあ!」
 友人は、白衣の男の体調を考えた上で、白衣の男の体調のことを無視して言う。砂嵐のようなザラザラとした、ノイズが入っているような大声は、白衣の男の思考完結型な脳にもしっかりと届き、ついに白衣の男は、友人に対し、こいつの声にしっかりとした肉声で反応してやる、という意思を、道に落ちている硬い石よりも硬く固めた。
「おれは、先に、行くぜ」振り返らずに呟く。
 渋く、低い声で発せられる白衣の男の発言には、普段から男の決まり事などを軽々しく無視していく友人も流石に驚いて、漫画のような驚き顔をせざるを得なかった。
 白衣の男は友人の意図をしっかりと読み取り、その上で無視をする。固まっている友人の方を振り返り、それから口角を吊り上げる満足げな笑みを見せつけると、そのままさっさと歩き出す。
「山羊山羊……どうして喧嘩別れなんてしなくちゃならないんだっ!」
 友人は長い舌を噛みちぎりながら、舌から出る鉄臭い血液を飲み込みながら思った。
 そのか細い声を背中で聞いていた白衣の男の脳裏には、今朝、拠点でオペレーターや友人と交わしたやり取りが蘇っていた。それを思い出として脳内に再生しようとしたが、なんだか思い出そうとすればするほど、あの時の出来事がおぼろげになって、煙のようにじんわりと消えていく。焦って思い出そうとすると、さらにそれが加速する。
 そうして完全にあの時のことを忘れてしまった白衣の男は、そのまま道を直進する。それから交差点に差し掛かると、それを右に曲がり、再び直線を歩く。住宅が並ぶ歩道を少しばかり歩いていると、再び分かれ道に当たるので、それを右に曲がった。
 そこはひと気の薄い道で、静かだった。白衣の男はそこを静かに歩く。人が居ないので鼻歌を歌っていると、不意に人が現れるので恥ずかしくなり、それからは分かれ道に当たるまで無言早足で歩いた。
 三度目の分かれ道も、変わらず右を行った。それからの直進は、一度目の分かれ道、交差点を右に行った後の直線と同じ距離だった。大きな道路の隣の道だったので、車やバイクの音がうるさかった。
 四度目の分かれ道も、やはり右に行った。
 現れた直線の道には、少し先に友人の背中が見えた。白衣の男は早足で行く。いつの間にか駆け足になって、あっという間に友人の真後ろに到達した。
 白衣の男は通常の顔のままで友人の右肩を左手で叩き、そして言った。
「はぁ、全くしょうがねぇな。もう、あの人に頼むしかねぇ」
「はぁ? あの人……? 誰のことだ?」
 友人はいつも通りに言う。
「ああ」白衣の男は得意げだった。「今からあの人に会いに行く」
「え、いやだから、あの人って誰?」
「ああ。今のあの人の職業は、確かホームレスだっけか」
「え、いやいや、ホームレスは職業じゃないよ。職業とか失ってる人のことだぞ」
「ああ。いいから、そういうの」
 脱力系な言葉を述べた白衣の男は、そのまま友人のことを無視して、自身の中にだけある目的地に向かって歩き出した。後ろから、「おいおい」という声が聞こえてくるが、それでも男は構わずに、どうせ付いてくるだろうと思いながら進む。
 そうしてたどり着いたのは、よくある路地裏だった。
 ビルとビルの隙間にある、時代の波に取り残されたようなその狭い空間には、情報こそが全てであり武器である現代に対応することができなかった者や物が散乱していた。
 そんな古臭い場所を、何にも構わずに進んでいく男。それに疑心の目を向けながらも、シブシブとした足取りで付いていく友人。そのうち男は立ち止まり、それに対して友人も立ち止まる。
「いたいた。……おーい、ちょっと」
「え、誰だ……」
 男の白い背中から、男が見ている先を覗く友人の目には、どう見ても何の能力も情報も持っていなさそうな、ただの小汚い老人が見えていた。
 その老人は二人の存在に気づくと、途端に岩のような堅苦しい顔面を歪ませて、人の良さそうな笑顔を向けた。
「ああ……こんにちは」
「いやぁ! ご無沙汰してます! 調子はどうですか? なんか、また家のリフォームをしましたか?」
「え、いや家っていうか、裏路地に家具とかそのまま置いてるだけでしょ、これ」
 老人はそんな友人を無視して、愉快なテンションで言う。
「ああ、確かに最近、新しい生活をはじめましたね。でもこの生活が、思っていたよりもつまらないものでして」
「そうでしたか」男はそんな老人の無駄口に、一切の関心が無いようだった。「で、本題なのですが、最近我々は、この周辺で着火の犯行をしている者を追っているのですが、どうでしょう?」
 別に男は、放火犯を追っている凄腕の刑事なんかではなかった。
 しかし老人はそれを聞いて、真剣に思考を巡らせた。「着火ですかあ……」と唸りながら言う老人。その小さな脳のシワが一気に増えていくのが、友人には手に取るようにわかってしまった。
「ああ……そういえば、最近、正確には二日前にバーに行ったのですが、その際、まあ別になにもなかったのですけどね! ははは」
「ええっ?」友人がお手本のような驚き声を上げる。
「あははははははっ」
 老人は本当に愉快そうだった。
「ええ。その際、着火の犯行の情報を、別に手に入れてないんですけど。まあ、その店は酒がウマかったですねえ」
「なるほど、良いですね。……ありがとうございました。……そうだ、それともう一つ、この近くで集団幻覚の被害があったようなんですが、何か知っていますか?」
「ええと、確かトマトがナマコになったとか、それのせいで、店員が一時的に退避したとか」
「いや、自分はナマコ苦手なもんで……」
「ああ、なるほど。ならもう無理かもしれませんねえ」
「そう、なら、しかたがない。もう行こう」
 そう言い残して去っていく男のことを、友人は慌てて追いかけた。それからの永続的な旅、二人に幸運を与えるのかもしれない。
 溺死体であり轢死体である肉塊が、優秀な毒殺によって殺された。夏のタクシー運転手の肉体破損フェチに、不本意として付き合わされている同級生が、脳みその中のひじきを引っ張り出した。
 全体の九割が平和を楽しんでいる中で、残りの一割は平和破壊を願ったり、悪になったり、何もしない虚無になったりしているが、九割はそれに気づかない。気づいたとしても、自らにある平和を放棄したいとは思わないので、何もしない。
 三日月に嫌悪を感じる悪人が月の破壊計画を考えた。爆弾を投げつけて、月を木端微塵にするというものだったが、結局それは失敗に終わる。その悪人はロッケトを持っていなかったので、地球の地上から月に向けて爆弾を投げた。それは無事に月に到達したが、月に住まう連中から投げ返された。そうして超高速で降ってきた爆弾によって、悪人が木端微塵になってしまった。
「私は大人じゃないかもしれないけど、子供ではないから。幼稚では、あるけど」それは女神の言葉だった。
 頬が殴られ、赤く腫れている少女は父親に言う。
 汚い部屋の中で仁王立ちをする父親は、ついさっきまで獰猛な獣の如く暴れまわっていたとは思えない。それほどの穏やかさが、少女にとってはむしろ恐ろしく、前にしていると、父親の生物としての強さに足が震える。
 それでも戦っていかなくてはならない。自分はもう、何もできない子供ではないから。
 少女は頬の痛みを無視し、改めて父親に対して口を開いた。それから少女が何を言うのか、また結末がどうなったのかを知る人間は少ないが、おそらく生きてはいる。ただの肉塊となる前に、幸せをつかんでいる。
 殺人をしたいという欲求を、ケーキを食べることで解消している女性によると、どうやら砂糖とは、人類にとっての次なる脅威になりかねないらしい。三日後の月曜日に起こる異常現象が、世間を火曜日へと変換させる。「でも、今は木曜日と水曜日の境目だけど」
 頭の良い、詳しく言うと脳のシワが通常の人間のそれよりも多い少年が、休憩としてパソコンの液晶画面から目を離した。
 少年は眼鏡をとってから、「ぼくの眼鏡はどこへ行ったんだ?」と騒いだ。それに対して八方美人な店員は「眼鏡なんてアナタの手にあるじゃない」と答えるが、少年は「はあ? ぼくは眼鏡をかけてないぞ?」とだけ言って、手にある眼鏡をエビフライ定食の大皿に添えた。
「お済のお皿、お下げしますね」
 店員は何ともないような顔をして、少年の前に置かれているエビフライ定食の皿を取り上げた。
「ごゆっくりどうぞ」
 店員は持っていたお盆にエビフライ定食の皿を乗せ、さっさと歩いて去っていった。
「え、何だよアイツ。意味わからん」
 人のことは言えないと思った。
 落下ほど、人間の情を煽る行為は無い。何にでもそうだ。何にでも、落下という行為は等しく美しい。赤いダンベルを持ったプロレスラーが、タバスコを足元に置いた状態で腕立て伏せをした瞬間、それを傍観していたぼくは、嫌な予感というやつがして、しょうがなかった。背筋から放たれる微弱の電撃が体中を駆け巡り、感覚を無いものへとさせていく。ぞわりとした寒気が気持ち悪くて、どうしてか不安感に包まれた。方角を指定してくる上司が、どうしても憎かった。落下の地獄に送ってやろうかとも思ったが、下水道の臭い臭いを擦り付けて、それから茄子を食べさせるだけで満足した。上司は、いつまでも奥さんの名前を呼んでいたけれど、この上司にそんな存在は居ないので、それを聞いていたぼくは不安になった。身震いが治まらないので、社長に確認しに行った。社長室は重々しい雰囲気があって、どうしても息が詰まる。さらに身震いがひどかったので、ぼくの脳はすっかり、口を開いて言葉を発するほどの容量が無かった。社長の前に出ても、「えっと……」だの「ああ」だのということしか言えなくて、次第に社長の顔にも曇りの色が見え始めた。
 そんなふうにして、死に物狂いで確認した事柄の答えは、ただのぼくの勘違いだった。なんだか、安心したようながっかりしたようなそんな気持ちだった。社長室を出たあと、疲れがドッと襲ってきた。息の詰まりもようやくなくなって、身震いも消えていた。天使のように羽ばたけるような心地ではなかったけれど、社長室に入って、社長室の空気を感じて、そこから解放された時の気持ちまで体験したことは、ぼくの人生の中でも良い経験だったのではないかと思えてきた。
 安心感と自信を胸に、ぼくは寝室で眠りについた。
 それから早朝。ぼくこと軍人はいつも決まった時間に、決まった職場に歩きで向かって、適当な挨拶を交わしながらロッカー室に向かった。
 奥から三番目と二個目のロッカーを開いて、上段にある生首に敬礼。
「あっ、今日の毛細血管! 毛細、毛細。とても、けっかーん」
 そうして下段のアサルトライフルに手を伸ばす。上段の生首の、その断面から滴り落ちている血液を頭にかぶりながら、それをちょっとだけ舐めながら、軍人はアサルトライフルを片手に現場に向かった。
 軍人の着ている軍服は、聞いたところによると祖父のものだったらしい。すでにしわくちゃになって、風船がそうなるように破裂して死んでしまった祖父が、ちょうど今の軍人と同じ歳の頃に来ていたものらしい。確かに、この軍服は頑丈で傷らしいものが無いにしては、血によってできたシミが多い。祖父は必要以上に敵兵を殺す、下品な軍人として有名だった。
 軍人の祖父は、正義感にあふれている人間だった。それでもグロテスク好きという性癖のせいで、敵兵には必要以上に攻撃をしてしまうが、基本的には正義で動く男だった。また祖父は、いくつもの言葉を残した。その言葉とは時に正義であり、時にグロテスクだった。言葉は孫である軍人だけでなく、軍事社会の全てに響き、たくさんの人間の心を様々な方向に動かした。
『世間には、いくつもの悪が存在している。それはどれも巨大であり脅威であるが、いずれにしても、世間という大舞台には顔を出さない。悪とは影に潜み、静かに繁殖するもの』
 これは祖父の言葉であり、孫である軍人が二番目に心を動かされる言葉だった。
 軍人は祖父のいくつもの言葉を思い出しながら、現場への道を歩いていた。その歩幅は全て均等で、少しのズレも無いものだった。軍人はそれが正しいことだと思っていた。全くのズレが無い歩幅こそが歩行における至高であり、それをしない人間のことが、どうしようもなく嫌いだった。
 三年間の付き合いのある女性が、おとといのデートで歩幅を崩してしまった。二センチほどのズレを察知した軍人はそのことがどうしようもなく気になった。だから即座に、女性に対してなぜ歩幅を崩したのかを聞いた。すると女性はあからさまに困惑した表情で、お前の言っていることがわからない、と軍人に言う。軍人はそれが、自分の信念を否定されたような気がしてならなかった。深すぎる傷は軍人の体を無意識のうちに動かし、そしてあっという間に女性のことを殺害してしまった。
 胸の谷間から腹部にかけてをナイフで切り裂かれ、中の臓物を思うがままに弄び、それから思い出したかのように二つの眼球をえぐる。空洞になった眼窩に口をつけて、むせかえってしまうほどの強い血なま臭さを舌で味わう。そうしているとパンツとズボンの下にある性器が膨らみ始め、それからは獣のように女性の死体を犯した。
 三年も付き合いのある女性にすら否定をされてしまっては、もはや自分は女性と深い関係になることができないのだろうな、と精液まみれの女性の死体を見下ろしながら、軍人は思った。
「顔面を叩き潰しておこう。それから両手を五段階に折って、足も三回ほど折り曲げて、胴体も腰の辺りで切っておこう。原型が無くなるくらいにぐちゃぐちゃに、真っ赤にしておこう」
「そうしないと……そうしないとぼく、安心できないから」
 軍人は均等は歩幅で、その場を去った。
 それが鮮血軍人だった。しかし、それを観測した人間たちは、いわゆるネームバリューが隣人のいびきよりも嫌いだった。原則としての日光浴が、すでに懐かしい。
 時とは加速するものではあるが、その加速が人間に良い影響だけを与えるとは限らない。
 ミンカン、民間。ミンミン、あ、蝉ドラム。
 ライライ、乱闘。全勝、未来。三日月、未確認、予定無し。
 ゴミ臭い街の世間ではそのような、幾何学を模したいくつかの呪文があった。少年少女、青年、果てには犯罪者までがそれを歌い、楽しみ、そして死んでいった。
 ある種の連動。録画にそれを捧げてみたとしても、終わりは訪れなかった。他人の集団による映像作品を全て見た軍人まがいの武器商人は、その粗悪な出来栄えに、映画館の爆破予告を監督に送り付けた。街にある井戸端が、どうしても隣人には迷惑だった。それでも井戸端の会議とやらは続く。そこに参加している頭が山羊な、ただの人間は、全員が他人のことをしっかりと考えることのできない人間だったから。
「あらやだ奥さん。アナタの旦那さん、今日ここでブリッジしてたわよお」
「どうだった?」
「うんうんうん美しいー! 世界いち」
「でもでも、サーモンだよ? サメ」
「バレーボールとバレリーナさんって、どうして包丁で刺し合いをしたの」
「金属のお見合い」
「新鮮な人選が人身を信じん」
「ええっと、確か息子は未来を教授に質問したら、どうしてか無視されて、だから刺したんですよ。確か」
「ええっ? ホント、それ……?」
「ホントよ、ホント。もう大変だったんだから」
 その瞬間、場には静電気のような激動が走った。ええっ、というような驚きの声が一通り上がると、それから数秒後には口々に自分の事情を話す声で辺りは埋まっていった。
「ウチの子もよ」
「ええ、娘も」
「オレの息子もヤったってよお……」
「もう、人口とか減っちゃうかもねえ」
「学者社会も終わりだわ」
「みんなの流行りなのかもしれないわねえ……」それを言った後、ひときわ声を大きくして話し出す。「そういえばアナタ、昨日ワタシが言ったこと、旦那さんに話したの?」
「ええと、あれは」指名をされた女は、それから悩むふりをした。「そうだわ……あのあと奥さんに言うように言ってみたけれど、報われなかった」
「あらそー」心にもない同情。
「残念ねえ……」心にもない哀れみの目。
「私もう。アラサーになっちゃう」なってるだろ。
 するとそんな流れを壊そうとした一人が、突然思いついたように叫んだ。
「ねえ、天気が悪いので。傘で道を歩く人間を刺していこう!!」
 その興味の無い人間を全て吹き飛ばすような発言には流石に反論らしい波ができた。しかし、発言者はそれに一切の関心を持たず、さらに続けた。
「たくさん刺したらそのあと、傘を開くんです!」
「すると、赤い円ができますね!」
「ああっ! 幸せだ!!」大衆の中の一人が言った。
「そうか!」それに賛同するように、別の一人が言う。「楽しいヤツだ!」
「なるほど!」
「いいな」
「やろう、やろう!」
 皆、阿呆のように賛成を口にしていた。発言者はそれに満足げだったが、すでに傘で人々を刺そうという行為に飽きを感じていたので、もういいやと心の底から思い、火炎のように勝手に燃え上がっている大衆を無視して、去っていった。
 それから出向いた廃墟の中に、ホコリだらけのブラウン管テレビを見つけた。黄ばんでいるボタンを押してみると、なんとテレビの魚眼レンズのような湾曲した画面が付いた。
 ブウウン、という音と、それから荒い線のようなノイズが入ってから、声が聞こえてきた。
「小説を書いていない私に価値は無いんですよ。たとえ他人がどんな方法で私の価値を設定したとしても、私自身がそれを否定して、小説を書いていない私を無価値にする」
 音質が悪かった。声は続いた。
「突然、過去を振り返る。そこに楽しみは無かった。では未来を見てみる。そこには何も無かった。未来を見るという超能力を持ってはいないので当たり前だったが、それでも現在の状況やこれまでの経験から、ある程度未来を予測することはできる。しかしその予測を使っても、未来は真っ暗だった。
 だからこそ、私は妄想に逃げるのかもしれない。妄想とは自分の頭の中だけで完結させることができるので、全てが自分の思い通りにできる。
 たのしかった。妄想から出た途端に、それはもうなくなってしまうけど、でも私の中のぼくは、楽しそうだった」
 それを聞いていた、会社員をやっていた過去を持つ男はその声に同情してしまった。まるでちょうどいい温度のお風呂に全身を浸したときのようで、ブラウン管テレビの中の声に、じっとりと同情してしまった。
 だから男はその声に続きを促した。
 声はすぐに語りだした。
「執筆をしようとすれば体が動く。しかしたまに、それすらもできないときがある。そうして一日を終えてみると、自分はこのままもう何も創れなくなってしまうのではないかと考えて、それは嫌だ、とただ思う」
「なら、お前の小説を読み上げてみろよ」男は独り言のように言う。
 すると声は少しだけ、戸惑っているように無言になった。男は待った。数分待つと、声は再び声を発した。
「山奥の小説家が万年筆を手に取って、その触り心地の悪さにストレスを感じながらも執筆を始めた。一時間ほどで原稿用紙の上に出来上がった小説は、小説家の手の汚れがついていて汚かったが、それでも物語は美しく、残酷で、楽しいものだった。小説家はその小説を読み上げた。架空の格闘家が技を決める際に叫ぶように、肩と肺に力を込めて、一気に読み上げた。
 小説は、良いものだった。読み上げを終えた小説家も、その完成度には惚れ惚れとしていた。
 しかし、憧れのあの先生のものと比べると、どうだろう。小説家はすぐに頭の中で考えた。例えば、自分が始めて読んだ先生の長編と、この小説を比べてみる。天才的な比喩表現が高く評価されているあの作品と自分の小説の比喩表現を比べると、そこには天地の差を感じれる。先生の天才的な比喩表現は、今の自分では到底たどり着けない次元にあった。では次に、最近読んだ先生の短編集と比べてみる。あれは登場人物の台詞が短い上に適切で、小説を読んだことの無い人間でも読みやすいと世間で話題になった一作だ。それと比べてみると、この小説の台詞は、どれも長ったらしくてしょうがない。
 ダメだ。この汚い原稿用紙の上の物語は、すでに美しくない。
 小説家は無言で首を振った。こんなものに惚れ惚れしさを感じてしまっていた自分が、また嫌いになった。しかし同時に、先生への憧れと、敬意は強くなった」
「いやあ、わかるなあ。ぼくもコンビニにポテチが入ってなくて、なんだかイライラしちゃって、その場に居た店員を蹴り殺しちゃったりするもん。その時の女店員の死体が妙に色っぽくてねえ。犯しちゃった!」
 男は他人のことなど一切考えずに言う。その身勝手な武勇伝は他人のことをナイフよりも傷つた。
 そうして南の弁当配達員は、現在刑務所に居る。しかし当の本人はそんなことにも気づかずに、ただ来年のピックアップを楽しみに生きていた。
 問題とは、いつだって私の予想よりも大きくて厄介なものだった。しっかりと予測をして対策をしたはずなのに、問題はそれを簡単に蹴散らして、バラバラにしてくる。そうして何もできなくなってから、私は初めて問題の大きさを知る。
「だからなんだよっ! みんなで手をつないだところで、何も解決しないじゃないか!!」
「あ、そういえば最近になって、精神状態さんは我慢というものをやめてみた。いや、やめてみたのではなく、正確には、ブレーキが壊れたことで我慢をすることができなくなってきたので、それに流されるようにして我慢をやめた」
「そうしてどうなった?」
 一旦咳きこんでから、楽しそうな顔を取り戻して言う。「すると精神状態さんの日常は、我慢をしてストレスを感じていた日々よりもボロボロなものになった」
 まるで吸い込まれるような絶望感だった。
 町の中にあるマンホールを、興味本位で開けてみた。その中は基本的にどろどろとしていて、何もしたくないという気持ちを不思議技術で固形化した物がはびこっている。それらが視る未来は常に黒いが、そうして妄想していると、固形らは結局いつも、そもそも我らに未来などは存在していないのではないかという結論を出してしまう。固形はまれに自己分析を行うが、そもそも我らに良いところなんてないので、何も得ずに終わってしまう。
 固形たちは自己を肯定するをとっくに諦めていた。自己の肯定をするためには、まず自分を受け入れろ。とはよく言われているが、固形らにはそれすらもできなかった。周りの人間がどれだけ固形らを認めても、固形自身が固形のことを好きになれないから。
 体温が高い研究員が、赤い報告書を眺めながら冷たい珈琲を飲んでいた。珈琲は白いマグカップに入っていたが、その珈琲には霜のような色をした油が浮いていた。研究員はこれを楽しそうに飲んでいたが、赤い報告書に意思は無かった。
 時折、近くのテレビが鼓動する。そうしていると、その画面に砂嵐と、助けを求める女の声がする。
 数秒間の沈黙が、退屈そうな幼児の頭を通過するとき、研究員はスッと立ち上がった。
「こんな惨状なのに、いまだに生きているのは、この状態が永遠に続くわけではないからだ。人間とは調子に波がある生き物だが、自分の場合は波ではなく、例えるならオンとオフのあるスイッチのようで、ある時突然、元気になる。その時の自分は妄想が盛んで、前向きな未来、明るい未来を頭の中に描く。創作においても、なんでも作れる気でいる」
 研究員は廊下を歩いていた。白く無機質な廊下だった。
「物語の中の自分というものは、常に成功者だった。この自分自身のことを他人が好きなのかはわからないが、少なくとも周りの人間からは愛され、評価をされている人間だった。闇を抱えていないわけではないが、それでも幸福そうだった。
 そんな妄想と現実にギャップを感じることはあまりない。妄想に近づけるように頑張ろうとする気持ちが無いと言ったら嘘になるが、それでももう、大方はあきらめた」
 どうせみんな死ぬんだから、と老婆は言いきってから、マンホールの穴に飛び込んだ。すると数秒後には絶叫が辺りを包んでいて、近くに存在しているたんぽぽの妖精の耳を貫いた。顔の無いたんぽぽの妖精らに顔をしかえるという概念は無いが、それでもたんぽぽの妖精らは顔をしかめた。
 老婆はそれから、底の無いと思われていたマンホールの穴の最下層に体を打ち付けて死んだ。硬い地面に付いた両足に衝撃が伝わり、それが全身を細かく砕き、内臓までもを崩壊させて殺した。血液とともに辺りに迸った肉塊が、妙に色っぽい匂いをだしていた。
 避雷針によって得られた、数多の報告書と実験記録。それの事前調査による高等記述の一例が、右の隅にある惑星を魅了するほどに黄金だった。隣町に出向いている王国が山のふもとに桃の木を植えたように、少年は静かに、涙と闘志を心に抱いた。
「別に、みんながそうしろって言ったからそうしただけで、警察のセワになるとは……」
 少年は自らのナイフを誘ってから言う。
「削って削って、それから出来上がったものを天井に掲げる。それで何ができるのかという話ではあるのだけれど、でも僕は、みんなとこの世を脱したい」世界。
「人外で心外」
「黙れ」
 それでも続けた。それが使命だと思っていたから、それが、唯一のできることだと信じて疑わなかったから。
「断面が残念な、そーめんと対面! ローションのダンジョンで、ダンシング。……遺影!」
 まるでマントルが突き出てくるような、熱と衝撃。それが人間の脳裏に到達するころには、とっくに国は滅んでいるけれど。
「遺影だと……?」大衆が望むような、劇のような怒りが眉間を襲っていた。「てめえ、カーサンの葬式にこなかったのは、そういうことなのか? おいおい」
「いいや違うさ!」少年は掴まれた胸倉にある腕を、優しく取り外した。
 ただしそれは少年の形をしているだけの何かだった。ただしそれは、過剰の革を剥いでいる野心で、全員が巻き込まれる対象だった。
「だって、好きな子のお葬式に、出たかったんだもの!」女性はただ愛したかった。
「そうよ! あのしんみりとした雰囲気に突撃して、あの子の遺影を手に取って、その場で遺影の中のあの子に顔射したかったんだもの」
「気持ち良かった? 気持ち良かった? ねえ」
 真っ黒で、ギョロついている眼球があるだけの大衆が、口ぐちに尋ねてくる。まるで困っているこちらのことを楽しんでいるようだった。
 先月の半ばに出向いた教会が、ついに地上から落下してきた。ズシンという激しい音と砂煙を辺りにまき散らしながらの落下によって、木製の教会は簡単に崩れ、巨大で広範囲な木材の集合体になってしまった。
 享楽主義者が新しい実を売っている。それは『コト』という実で、食べると特殊な幻覚が見えた後、発狂して死んでしまうというものだった。幻覚による精神崩壊での発狂らしいが、それに耐えられた人間はいまだに居ないらしい。
「なら、その享楽主義者の特徴は?」
 ぼくは、隣でぼくと同じように歩いている部下に言った。
「はい、ええと……」部下は言いつつ、手に持っている数枚の紙がホチキスで束ねられている資料集をガサガサとめくりながら、それの細かい黒文字に目を走らせる。
「ええ……山羊のお面を被った、奇妙な集団です。人数は確認されているだけでも五人。しかし実の供給率と販売されている地域のことを考えると、これよりもはるかに多い人数が居ると予測されています」
 山羊の連中。ぼくは一度だけ、そいつらに対面したことがある。ぼくが対面した山羊は、山羊のお面の中にさらに山羊が潜んでいた。それは横向き、横顔で、なんだか不気味な含み笑いをしていたことを覚えている。
「わかった。とりあえず、今回の現場に向かおう」
 ぼくは部下に言い捨てると、少しだけ歩く速度を上げた。向かう先は、新しく作られた映画館。今日こそは、あの友人たちと約束していた映画作品をこの目に収めると決めている。予告で大炎上をしていた巨大な山羊の真実を、終幕にかけて出産で感動ができると謳っていたキャッチコピーの真実を、確かめるために。
「ホームセンターを基地とした時の株式会社の顔を見たか? あれはもはや、威厳らしいものを喪失していたさ」
 コンビニエンスストアのイートインスペースの、肌色に近い木目机に肘をつく男は、たまたま隣に座ってきた老婆に言う。
「なあ、もうカップヌードルのことは良いのか? できてると思うんだけど」男は肘を机から離し、机についている引き出しに指を触れさせる。
「ハハハッ、こんなところに引き出しなんて、シャレてんな」
 すると老婆が、ここぞとばかりに口を開いた。
「あんた、どうしてメガネをエビフライ定食に入れてしまったんだい」
「え?」
「だって、どう考えたっておかしいだろ。皆が蜜柑で手を汚しているのに、一人だけブドウを使って殺人現場を再現しているみたいだ」
 男の顔はすでに軍人のそれだった。
「あんた……どうして崩壊した後の世界を知っているんだ? なんで、その『皆』が知らないはずの未来を知っているんだ?」
 老婆はため息を吐いてから言う。「でもオマエじゃあ救えない」
 生物としての現象に心の隅をつつかれ、そのまま生理現象に流される生涯を渡りたい。男はいつでも、「下水道を食べてみたい」と夢を見る少年のように口走っていたが、糸のように細い人間の命がどうしても邪魔だった。鴉と一緒に寝たことはないけれど、息苦しいから、その垣根を越えてみようとした。
「再現がなかったんだろう?」老婆だった。
 世紀末のような世間の中が脳内にあったとして、それの中に住まう人間や山羊は、果たして生きていると言えるのだろうか。
 山羊とは超越していたもの達だった。
 空き缶などのゴミにまみれた外を、おんぼろな車が進んでいく。その運転手は確実な実力者ではあった。
「うわあああっ! 太陽のブラジャー、財布でぇ!!」
 割られた窓から顔を出す運転手。それを端のほうで見ているほかの山羊頭な人型生命体は、高速で走って行ってしまう車と、運転手のことを指さして言う。
「彼は、正真正銘のくそ山羊だ。廃棄物と寝るのが似合いな、ゴートだ」
 そんな独り言を缶のコーラ片手にかましている。
 その男の肩を叩きながら現れた、もう一人の山羊頭。
「おい、くそってどういう意味だよ」もう一人の方はそう言いながら、コーラを飲み干した。
 山羊の鳴き声混じりなゲップを横に、運転手を指さしていた山羊は答える。
「くそはくそだ。ゴミって意味だ」
「なら、そのくそが廃棄物と寝てるってのは、つまりくそくそかよ」
「……ああ、まあ便意がスゴそうだな」
 それを言う山羊の足元は、黒く湿っていた。
 自分に対する悪口のような発言を、運転手はしっかりと聞いていた。
「どうしてよう」
 楽しそうな顔を急速に曇らせて、悲しそうに言う。両目から流れる涙は顔を濡らしていた。
 自分が涙を流していることを認知した運転手は次の瞬間、顔中に激昂の色を貼り付けて、「はあっ? おいおい。なんで涙なんか、そんな汚いモン流してんだっ!!」と自分自身に叫ぶ。
 そんなふうに言いながら、楽しそうな顔で、黒く細いハンドルを握っている運転手。それは廃棄物が似合う、正真正銘のくそ。
 ガタガタと言わている地面には相変わらずの灰色で、みんながそれを気に入っていた。
 山羊とは超越していたもの達だった。山羊は基本的に四足で存在しているが、まれに、頭だけが山羊である生命体も居る。
「おお! 帰還せずにして四肢にて地を砕く、恐るべき山羊よ!」
 頭の中に、新鮮さがある丘を想像したとして、それの頂上に大樹を築くことは、また、大樹のそばに山羊を置くことは、脳内であるのなら可能である。
「そなたは、ボタンすらも盲目にするか?」
 みずみずしい草原のちょうど真ん中にある大樹の、絵の具のような茶色をした幹。それのすぐ近くに四肢を置く山羊に向かって、王だった者は掠れた声を投げつけた。三日三晩ほどを外で立ち尽くしていた後のせいか、その口周りはヨダレや鼻水でまみれていた。
 山羊は無表情だった。山羊に表情は無いが、それでもそこに居る山羊は、確実に無表情をしていた。
「めぇ」山羊は真っ黒い、しかし丁寧に磨き上げられた石のような両目を草原の葉に向けて、適当に鳴いた。「めぇー」
「なんと、貴様はこの大樹の親ではないのか」王だった者が言う。すると口周りのヨダレが、言葉とともに山羊の脳天あたりに付着した。
「めぇ?」山羊は少し低く鳴き、そして少しだけ顔を上げた。
「ん、どうした……?」その目にはどこか、王だった者に対しての嫌悪が浮かんでいて、そんな目を向けられた王だった者は、そのどろんとした覇気に冷や汗をかいていた。
「おい、なんだ……何をしでかそうと、いうのだ」
「めぇー」山羊は再び鳴いた。今度の鳴き声には、目にあるような覇気があり、面倒くさそうな雰囲気は感じ取れなかった。まるで何かしらの決断を済ませた後のようだった。
 王だった者は、もはや恐怖と呼べるような感情を、その空っぽな脳みその中にガスのように充満させており、すでに思考回路は逃走に支配されていた。
「わ、わわわわっ、私、私はああああっ!」脳内がぐるぐると回る感覚に陥り、王だった者はたちまち平衡感覚が無くなった。自身が立っているのか座っているのか、はたまた天井とはどこなのか、ふりかけとは本当に宇宙なのか。現実とは何なのか。それら全てがわからなくなり、また再度認識することも困難となった王だった者は、そのままわからない両手をプラプラと震えさせながら、五十音を順番通りに、しかし変な音程で叫んだ。
「ふざけた、めぇ、だこと」山羊は至極冷静に、まるで隣の国の誇り高きお姫様のような口調で言う。そして王だった者が「んんんっ、んー!」と最後の『ん』を言い切ると同時に「これこそアイウエオよっ!」と語気を強めて言った。
 王だった者は山羊から目を離し、手の甲に浮かぶ赤い文字に目をやった。
「トマトさんと……最後……?」
「なんだと」
 王だった者が口ずさんだ言葉を耳にした山羊は、驚いた感情を隠すこと無く言葉で出す。
「それは、あの作家の文書であるぞ」山羊はかつての愛おしい思い出に浸りながら、その姿勢を真っ黒な眼球に写しながら、王だった者を見る。
「続きは映るか?」王だった者は沈んていく赤い文字を見ながら、山羊に訪ねた。
「続くわ。読め」山羊は興奮気味の声だった。それに対して王だった者は、「うむ」としっかりとした語気で言い、激痛と共にやってくる赤い文字を読み始めた。
「ネオアルアルノーツのその右にあるまぶたは、二重どころではなく、四つの切り込みで構成されている。断面的な英単語は間抜けを自負する学生の、その革のような手のような、近未来的な鞄すらも焼き尽くす。美しいと錯覚するような、二つに一つの真ん中を攻める自傷行為。それよりも良いなと言える、いや、それよりも家や自宅と言える、ぷにぷに。そして狸。猫。イーグルッ! イ、イ、イ、イーグル! 富よりも、偏差値よりも、中にあるサラダバーなんかよりも、繋がりを生かしたドリンクとのコラボレーション。民衆を食べたい。ドリンクバーを飲み干したとき、正解が頭上から降り注ぐ。ふりかけは必ず右の端に置いておく。そこより右と五重、うなぎの重なりを市民と殴り合おう。昼頃から、陰湿なカンフーを学ぼう。最期の最期にたどり着くのは、毎日の野菜収穫作業を極めた明日だけであると、君の天に浮かぶ月見は言っていた。蕎麦の装置は遭難で遭遇し、牡蠣の加筆は蚊取り線香よりも佳境であったか。そうか! そうかそうか、そうなのか。納得がいくが信用はしていない。理屈だけの講義が好きらしい。君の気味は、天の月見を見上げようとしたあの日に帰った。納得したような点眼は、酒場の隅に散らばる鼠を食らい付くした。貴女は再びログへと入り込んだ。貴方は再び海を飲んだ。そして、一つ目として書いたのは、この夜の、この夜とも言えないような左右の揺れで、天空に近い町を包んでいた闇を食べていた。そんな貴女は、もしかしたら貴方は、気づけば手にあった、その、紙切れを見つめた。その名前は、ええ、と貴方は笑う。かたかた、けたけた。園の花の蜜を飲んで、味のランキングを一緒に決めよう。どうしてよう。どうしてよう。と笑っていた日もある。そうなると質問者は、明るすぎたあの葬式は、と問うた」
 王だった者の語る、愉快を想定した全ての物語が終わったと同時に、概念として山羊と王だった者の対話を聞いていた私は確かな肉体を取り戻し、そして元々体が存在していた病室へと帰還していた。それは授業中によくある、あの居眠りから授業という現実に戻される際の、ガタッという落下してきたような感覚だった。
 気づいた時の私の視界は、病室の白い壁があった。私の体は病衣に包まれ、特に下半身は清潔なベッドのシーツを病衣越しに感じていた。
 以下、蛸だった。いいや墨は確かに黒いけれど、それを放出している蛸の脳は、明らかに白色だった。白子がぎゅうぎゅうに詰まっているような感じで、これのおかげで高い知性を発揮できると考えると、どうしても美味しそうだった。なぜだか小さいのが玉に瑕で、悲しかった。自然と流れる涙は塩の味で、海を感じ取れた。軟体はどうしても幻覚を現実としたかったが、幻覚と掲げている時点で、もう無理だった。
 メリハリの無い山羊が、木製の舞台にて殺害された。それは恐るる山羊軍団によるもので、新聞を読み聞かせた山羊の母親は、ついに夫との第二次性に成功してしまった。しかしそれを襖から、顕微鏡を使用するかのように見ていた子どもたちは、同様の作業をしようとして混沌の園へと果てて消えていった。
「それから、その子どもたちを見た山羊は、人間は、存在していない」
「なら、最後の戦いが始まる」
 純正なる組織、ヤギ一味のモノたちがそれを言うのは、これで三十五回目だった。それはやはり、「ガソリンを束ねた液体を、バナナのような棍棒に絡めて取る。そこには永遠の隙間を感じるような液体があるが、結局は固形で、そんな宇宙にいける」という文言に、いつも通りつながっていた。
 何を言っているのだ。と、観測者である貴女。うんざりとした感情を、付けすぎたボンドが隙間からにじみ出てくるように感じた貴女は、やがて缶詰のコカ・コーラを投げ出して、走っていく。
「どこへ」と貴女の背中を見るアイツ。
「大腸だ」
 大腸は、ヤクザが経営するコンビニ。何も無いことをウリにしていて、とても好評。
「やめろ」アイツは駆け出し、貴女の大きな背広の背を、紅葉色の五本でバシンと叩く。嗚咽のような吐瀉物を喉の奥で感じた貴女は、脚を関節にそってガクリと折り、そして灰色の地面に吐き出した。その時にその様子を見ていた蝶の空中ドローンは、やがて起こる少年たちの戦争に、子供心の僕達を見出していた。
「行きたいんだ」と、大粒の涙をポロポロと落とす貴女。歯列はすでに、自身の血液で彩られていた。
「やめておけと、いっている」太ましい棒状の言葉を何本も突き刺すアイツの背中。貴女はついに、自身の瞳の中に闘志を浮かばせる。その時の脳裏には自室にある山積みの本があったが、それでもアイツはお構いなしに、紅葉色の五本を叩きつけた。
「おとなしくしろっ」
 五本を背中に叩きつけられた貴女は、唾液混じりにぐえぇと叫ぶ。それでもアイツは叩きつけをやめずに、赤くなった背を想像しながら、興奮しながら叩きつけを続けた。
「やめて、やめて、やめてぇっ!」
 貴女は腰を落として、泣きながらアイツに許しを志願する。しかしアイツはやめるどころか、むしろ貴女のそんな泣き声に興奮しながら、更に背広に五本を叩きつけた。
「このやろうっ! このっ、このやろうがっ! おらっ、電柱と結婚でもしてろ!」
 肉を自称するあの悪魔のような、そんな血相を浮かべてアイツは叩く動作を続けた。貴女はいよいよ生命の玉の崩壊を脳裏に予期し、それを口から吐き出した。しかしアイツは、全く叩く動作をやめない。それは貴女にとってはある意味予想通りのことだったが、その予想通りは悪夢のような、地獄のような事態であり、まるで重苦しい鉄の塊が体内に突然現れたような感覚に陥った。
 そんな時。「やめなさい」という声が、後ろの方から聞こえてきた。まるで老人のもののように聞こえる声に、貴女もアイツもそれまでの動作をやめ、即座に振り向いた。とくに貴女は、声によって背中の激痛から開放れたので、得体の知れない声に感謝すら感じ、それを噛み締めながら顔を素早く動かした。
 そして貴女は息を飲んだ。恐ろしいのではなく、圧倒された。
「そんなみっともないこと。やめんか」続けてそう言う声の主。その老人のような落ち着いた声は、なんと山羊から発せられていた。
「貴様、なんだ」アイツは五本をゴキゴキと鳴らし、山羊の見た目をした老人のような声を出す存在に向かっていった。それを見ていた貴女は、なんだかその山羊には近づかないほうが良いような気がしたが、それをわざわざ口に出すほど、貴女は優しくはなかった。
「おい、名乗れ」アイツは山羊に近づくと、ファイティングポーズを取りながら低く言う。
 それに答えることになったのは、山羊ではなく貴女だった。
「ヤギヌス」貴女はとっさにそう言っていた。考えるよりも先に口が動いていた。アイツの先に見える山羊の顔が、心なしか満足げだった。
 すると前進していたアイツが「ああ?」と貴女にしっかりと振り返り、その間抜けな顔を晒す。同時に山羊の見た目をした老人のような声を出す存在、ヤギヌスが、脚を使って跳ねるように前進し、アイツの背中に向かっていく。貴女に顔を向けているアイツは何にも気づかずに、間抜け面で貴女のことを見ていた。
「あの、逃げ」貴女はそこまで言うが、アイツの背中のすぐ近くまで来ているヤギヌスの口から、ゴリラの片腕のような黒い物体が見えたので、それが感動的と思えてしまうほどに美しかったので、残りの「たほうがいいですよ」という続きを喉奥に押し込んだ。
 やがてヤギヌスの口から出てきたゴリラの片腕は、ようやく何かしらの異変に気づいたアイツの顔面に、気持ち良いほどぶち当たった。だらしないアイツの頬をゴリラの片腕はボヨヨンと打ち付け、そのまま、その下にある肉を叩きつけた。貴女にはその一連の流れがスローモーションの中での出来事に見えたが、現実では一秒もかかっていなかった。
 肉をも弾いたゴリラの片腕は、アイツを遥か彼方に吹き飛ばした。その際アイツは口から赤黒い血を吐き出していたので、赤い線が放物線を描いていて、貴女はそれがとても綺麗だなと思った。
「ふむ。以上だ」
 ヤギヌスは貴女のすぐ横で着地すると、そのまま役割を終えたパラシュートのようにしぼんだゴリラの片腕を、飲み込むように口へと収納し、やがて普通の山羊の見た目に戻ってしまった。
 貴女はそんなヤギヌスに強い興味があった。
「あのあのあの、アナタは?」
 満足げな顔をしているヤギヌスの顔面のほうに歩いて行き、目線を合わせようとしゃがんで訊ねた。
 ヤギヌスは満足げではあるが、それでもその興奮を声色には出さずに言う。
「我、ヤギヌス」低い声だった。
 それを聞いた貴女は、ああそういえば、さっき自分で言ったっけ、と独り言ちた。そんなふざけた独り言は、ヤギヌスの脳天に見事に突き刺さった。いわゆる癇に障ったというやつで、苛々の、溶岩のような熱く迸る液体は脳に充満していき、脳の細胞を一つづつ、じゅぷりじゅぷりと破壊していった。ヤギヌスの理性は、その脳細胞が破壊される度に薄まっていき、やがてヤギヌスは自身の真白い体毛がトマトのように真っ赤に染まってしまいました。
 怒りに満ちたヤギヌスは、最後の理性で思う。
「全てを、語らねば」
「え?」困惑に眉毛を、尺取虫のように曲げる貴女。
「ヤギヌス。それは神と悪魔のちょうど中間の存在。それは、世界中が二度目の戦火に塗れる中に突如として現れ、全ての戦を人智を越えた力で終焉へと導いた存在。
 戦争を終わらせたヤギヌスはその満面の笑み山羊フェイスを轟かせ、二度目の戦争の引き金である一つの王国へと向かった。外見には何の変哲も無い山羊がただひたすらに王国を目指すその様。それを目にした誰もが、この山羊は王国に制裁を下しに行くのだろうと考えた。しかし王国にたどり着いたヤギヌスは、その地に脚を踏み入れるや否や、「この国で一番見晴らしの良い丘はどこだ」と問うた。それを聞いていた国王は、なぜそんなことを訊ねるのかと聞いたが、ヤギヌスは自身の黒い眼球をキョロキョロと動かすだけだった。国王の質問攻めは三日ほど続いた。国王は何百もの質問をヤギヌスに、唾とともに放った。しかしヤギヌスはどの質問にも答えず、ただ眼球をキョロキョロと動かすだけだった。ついにしびれを切らした国王は、諦めと怒りを混ぜた語気で、丘の所在を吐き捨てた。ヤギヌスはそれに対して満足そうにめぇと鳴くと、その丘の元へと駆けていった。三日間もの質問攻めによって顔面が唾液と鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった国王は、ヤギヌスが見えなくなると同時にその場にばたりと倒れ、そのまま動かなくなり、やがて生涯を終えた。そんな国王の最期を知らないヤギヌスは、それから一週間の時間を掛けて丘へと向かった。歩くのは慣れているし、そもそもヤギヌスに体力の概念は無いので、別に途中で辛くなることもなかった。道中で盗賊のような存在に出くわしたが、それも簡単な頭突きで吹き飛ばしてやった。そのような手順を踏んだ上で、ようやくたどり着いた丘。みずみずしさがある草原が、山盛りご飯のようにもっこりとなっているその景色。ヤギヌスはなんとなく感動できた。ヤギヌスに涙という概念は無いが、もし涙を流せるとしたら、こういう時に流れるのだろうなとヤギヌスは思った。しかし思ったのもつかの間、ヤギヌスはすぐに行動を開始した。まずこの、山盛りご飯のような丘を登り尽くし、少しだけ平地になっているあの頂上に行く必要がある。ヤギヌスは四肢を動かし、せっせと歩いた。いや登った。丘は急斜面だった。他の国からすれば丘ではなく山と見られるのではないかと思うほど、その丘は急斜面だった。しかしヤギヌスは別に負けなかった。ヤギヌスには体力なんていう概念が無い。だからどれだけは急であろうと、四肢を付けて進むことができるのであれば別に苦労はしなかった。そしてヤギヌスはやり遂げた。急斜面を最後まで登り、頂上の平地から下を見渡すとなんと、なくこみ上げてくるものがあった。涙はこういう時にの流れるのだろうなと、ヤギヌスは再び思った。思ったと同時に、その思いを草を口の中で咀嚼するように噛み砕くと、ヤギヌスは平地のちょうど真ん中に向かった。平地は斜面と変わらず草原で、みずみずしい草が生い茂っていた。ヤギヌスはそんな平地のど真ん中に四肢を運ぶと、そこに自身の頭を突っ込んだ。首元まで埋まってしまうほどに、口の全体で草と土の味を感じることができてしまうほどに頭を埋め込み、そしてめぇめぇと鳴いた。鳴き声は土の中を走り、やがて丘の全体に広がっていったのを、ヤギヌスは無いはずの心で感じ取った。それからすぐにヤギヌスは顔を土から出した。そして顔面に付いた土を、自慢の長い舌で全て舐め取り、口に入れて咀嚼し、そして飲み込んだ。その瞬間ヤギヌスは、丘の全てと一体化したことを感じ、感動のあまりすぐに上を向いてめぇめぇめぇめぇと叫んでしまった。ただしこれは突発的なものではなく、地面と天空に一回ずつ鳴こうとヤギヌスは最初から考えていた。天空へと己の鳴き声を轟かせたヤギヌスはそれから美しい丘を見渡しながら数分待った。そしてその数分で、ヤギヌスはすっかりこの丘が気に入った。今から出現するとある物をここに置こうと考えた時は、この丘に思い入れなどこれっぽっちも無かった。しかし今は、この場所にとある物を置こうとしていることに興奮すら感じてしまっていた。そしてその時は訪れた。ヤギヌスが頭を突っ込んだその場所に、植物の芽が生えた。小さく緑色の芽は目にも止まらぬ速さで成長していった。ヤギヌスはその様を、子の成長を見守る近所のおじさんのような目線で見守った。芽はすぐに大きくなっていき、やがて丘の全体を覆うほどの大樹へと成長した。立派になったその木を見たヤギヌスは歓喜のあまりたくさん鳴いた。めぇめぇという鳴き声が、木に付いている、たくさんの葉に触れて消えていった」
 語り終えたヤギヌスは、まるで何百人もの人間を殺めた成人時代を生き抜き、老後の隠居生活を独りで噛み締める元殺し屋のような、様々な苦痛を味わった後ような眼差しだった。
 それからヤギヌスは少しの間をおいてから言う。
「どうだ?」
 そんな、ノスタルジックな雰囲気を体臭のように撒き散らすヤギヌスを前に、貴女は羞恥心を感じていた。それはまさに、天井から滲み出てきた雨漏りのようなものであり、心の中にポツンポツンと落下していくる衝撃は、身震いを発生させるほどに驚異的だった。
「『しね』っていう言葉が喉元まで来た」
 貴女は知らずに言っていた。
「いや……」ヤギヌスは言いよどみ、それから、「私は尻から出てきた」となぜか恥ずかしそうに言う。
「ぶり」
 ヤギヌスは口で言い、そして自身のケツの穴から大量のうんちを、ぼとりぼとりと出し始めた。
「食う?」ヤギヌスは顔色変えずに言う。すっかり空中を支配していた夕焼けからの、いやらしい橙色がその白い毛に映っていた。
「いやだ」貴女はきっぱりとしていた。夕焼けに照らされているヤギヌスのヤギフェイスは確かにイケメンだといえるようなものだったが、貴女は山羊ごときの糞を食らうことなんて、できなかった。
「そうかい。なら私の妄想中の娘と、激しいセックスをしやがれ」
 そんなヤギヌスの話題に、貴女は両目を見開いて素早く飛びついた。「でもっ、セックスつて実は結構グロいよな。だって、『女性器』っていう内臓に、『男性器』っていう内臓を突っ込んで、奥にある『子宮』っていう内臓に分泌液を注ぐなんてさ!」
「落ち着けよ」
 ヤギヌスの一言は貴女の心の突き刺さった。衝撃が全身を走り、やがて貴女はスイッチが切れたかのように、だらんと静止してしまった。
「……トーストになる理由は」
「は?」片眉をあげるヤギヌス。
「トーストになる理由は、山羊になりたいからで、山羊になりたい理由は山羊になりたいからです」
「え、え……」担々麺よりも淡々とした声でそれを言う貴女に、ヤギヌスは混乱の意を向けた。冷や汗すらも滴るような緊張感の中、貴女は颯爽と体育座りをすると、更に、その色のない唇を動かしていく。
「トーストになりたいな、と無の存在は思いました」
 それは悲しげな声だった。
「理由なんてものはありませんでした。ただトーストになりたいと、無は思ったのです」
 貴女は体育座りの体勢を変えることなく、自身の頭の中にある物語を口からまき散らす。しかしそれは幻想なんかではなく、しっかりとこの世界のどこかに存在している、現実だった。
 その町の小さな道のど真ん中。町で最高の実力者であるパン屋の親父を前に、黒いコートを着たおかっぱ頭の女が確かに居た。
「おめぇっ! パンをさっさと返せえっ」
 女に向かって一歩出た親父は、力んだ声で言う。着ている白いタンクトップがパツパツになってしまうほどに発達した筋肉達が、空からのギラついた太陽光を受け、その肌色を輝かせていた。
「食パン、三斤。早う、せい」胸の辺りに両拳を構えたファイティングポーズ。太陽光にも負けないほどに鋭い目つきには、どんな手を使ってでもパンを取り返すという意気込みが見て取れた。
 しかしおかっぱ頭の女は、そんな凄みを出した親父にも全く屈していなかった。ギリギリ肩に触れないほどの長さがあるおかっぱの、その黒髪をさらりと撫でると、私は余裕である、と言わんばかりの自信満々な笑みを親父に向けた。
 親父はそんな女が、ひどく生意気な存在に見えていた。ふふふん、と勝ち誇ったような笑みが心底憎たらしく見え、今すぐにアスファルトの地面に押し倒し、自慢の筋肉で形成された豪腕を、無駄に美しいその顔面に叩きつけ、黙らせたいと強く考えていた。そう思いながら女のおかっぱを強く睨みつけていると、不意に、女の方がカラカラと笑い始めた。
 数十秒ほど弾けたように笑うと、女は針のような目つきで親父を見上げ、そして言った。
「アンタ、さては弱いな?」その顔には、親父の全てをあざ笑っている様子がありありと見えていた。
「……はぁ?」親父は空気のような声で言う。「なんだと、おめぇ」
 今すぐにでも殴りかかってしまいそうな血相で、親父は女を睨みつけた。すると女は、「いや、だって……」と、もったいぶった様子で言い、それから親父の体の全体を、舐めるように見渡した。
「その肉、全部見せかけじゃん」女は自分の発言が面白くなって、またカラカラと笑う。「いわば、ハリボテ? あははっ」
「貴様っ! いい加減にしないかっ!」親父はいよいよ、理性を我慢させておける限界が来てしまった。すでに汗が蒸発してしまうほどに高くなった体温が、辺りの風景を歪ませていた。獣のように叫んだと同時に、大股で女に向かって走り出した。
「ぶっころしてやる!!」
 親父は自慢の豪腕を振り上げながら、女に突っ込んていく。アスファルトの地面を蹴って走る度に、岩のような足ドがスンドスンと音を立て、地面には隕石が落下しているような衝撃を走らせた。そうしてついに女との距離が目と花の先になった瞬間、親父は右手を勢いよく振り下ろした。
 風をも切り刻む高速で振り下ろされた拳。しかしその凶器が女の体に触れ、その肉や骨を生々しく粉砕することはなかった。女は自身に拳が触れる寸前のところでひらりと回避行動をし、うまく親父の殴りつけ攻撃を避けていた。
「逃げるなよぉ!」
 激昂した親父は顔を真っ赤にし、後方へ回避した女に更に襲いかかった。そして再び、高速の拳を女の顔に向かって放つ。しかし女は、その二回目の殴りつけ攻撃も、さらに後に続く三回目以降の殴りつけ攻撃も、お遊びのダンスをするように簡単に回避してしまった。
 余裕が見える顔で身軽なステップを繰り返した女は、ついにコートの内ポケットに手を伸ばし、忍ばせていた拳銃を取り出した。黒光りをするそれの口を素早く親父に向けると、流石の親父も流動的な肉体を静止せざるを得なかった。
「おい待て……撃つな……」親父の顔には怯えの表情が見えていた。
 親父はあくまでも冷静に、黒塗りの凶器と、その後ろにある女の無機質な顔に語りかける。
「おめぇだって、罪人にはなりたくないだろう?」親父はいつの間にか両手を上げていた。
「さぁ、どうかな?」女はニヤリと口元を歪ませてみせた。「とっくにそっち側かもしれない」
 拳銃を持つ女の右手の人差し指は、すでに引き金に触れていた。
「罪を重ねるというのか?」
「……なら、教えろ」
「なんだ」
 女は溜めを作ると、それから真剣な顔で言う。
「アンタは、トーストになることができるか?」
「トースト……そりゃあ、小麦粉って感じだな。粉っぽくて、むせちまいそうだ」
 女は顔色を変えずに言った。「ああ。それで、トーストはどうだ?」
 親父は少しだけ気が楽になったのか、平常心を顔に作って声を出した。
「ああ、それはだから、小麦粉だろう? ああ、そういえば、昨日出向いた工場は、埃の管理ができてなかったな。そこら中に埃があって、全体的に煙たかった。便所ですら、深呼吸をすると咳きこんじまうんだぜ?」 
 親父はそのまま少し下に顔を向けて思考を動かし始めた。しかし考えていることとは、自分はトーストになることができるのかについてではなく、その背景にあるとされる、美術館の再奥地の秘宝の、最も効率的で安全性のある摂取方法だった。
 それにしても。この女は一体どうして、こんな質問を自分に突きつけてきたのか。親父はふとそんなことを考え出した。それから親父は、それについての考えられる可能性の全てを頭の中で検証し始めたが、結局どれも、納得のいく答えにはなり得なかった。
「わからんな」親父は顔を上げて言う。「全くもって、わからんな」しかしこの発言も、自分は無事に工場長になれるかどうかではなく、埃の送信の都会進軍方法がわからないという意味だった。
「アンタはトーストの使いだろう? なら、なれるのでは」
「いや、俺はブレッドではないぞ。店に陳列された経験は無い」
「なんだと……?」
 困惑してしまった女はこれまで親父に向けていた拳銃を弱々しく下ろし、散乱する内心をなんとか抑え込んでいた。
「こんがり焼けるのが、生きる目的ではないのか?」女は震えた声で言い、涙すら流れる瞳で親父を見つめていた。
「その四角の四肢を使うのでは、ないのか?」
「違うな。俺はノーマルだ」眉間を歪ませる女に、親父ははっきりと言った。
 女はそれを受けて、ひどく混乱してしまった。
「どうしてだ? なあ、どうして……?」
 拳銃の先はすでに、アスファルトの地面を捉えていた。
「どうやら、解釈の違いらしいな」親父はゴホンと咳をすると、そのまま今度は、優しい目で女を見た。
 そして、優しい声で言う。
「俺たちが肉をぶつけ合う、または火と血を交える必要はないらしい。ここが火薬の臭いにまみれる必要も」親父は言うと、そのまま棒立ちで混乱している女を置き去りに、女に背を向けて歩き始めた。
「おい、まだ話は」
「また会おーう」親父は女に背を向けたまま、女に手を振りながら去った。
 肉達磨はどんどんと見えなくなっていく。地平線に消え、やがて町並みに飲まれていく。女はどうしようもない劣等を感じていた。
「くそがっ、くそ、くそ……」
 拭っても拭いきれない悔しさが、滝のように自分の心に流れてくる。
「くそぉっ! くそがっ!!!」
 そうして体の全体で力んだ瞬間、二つの拳を強く握りしめた途端、ドカンという轟音が女の足元で鳴った。
「ひいぃっ!!」女の耳を衝撃が走ったが、女はそれから間もなくして現れた、右足の甲の焼けるような激痛でそれどころではなかった。
「痛いっ!!!」力んだせいで誤射してしまった拳銃の弾丸が、運悪く足の甲に当たってしまった。足から全身に伝わる痛みは女の筋力を奪い、女はアスファルトの地面に倒れこんだ。
「ああああああああああっ! 痛い!! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!」
 しかし叫んだところで痛みが消えるわけもなく、なおのこと続く地獄に、女は叫べるだけの声で叫び散らかした。
 女はそれと同時に、手の拳銃を振り回しながら乱射していた。ドカン、ドカン、ドカン、と、そこらじゅうに轟音が撒き散らされ、それと同時に超速球の弾丸が、あちこちに飛び交う。近くにあった住宅の窓硝子は立て続けに割れていき、電信柱すらもバランスを崩し倒れていく。たまたま近くを通りかかった老人と、それが連れていたペットの犬は簡単に真っ赤になって倒れた。
 その不本意の乱射魔は、仕舞いには自分の体すらも標的としてしまった。手の甲を貫通していく弾丸をきっかけに、女は体勢を本格的に崩してしまう。
 それから連続で発射した二発の弾丸は右の胸部に入った。中腰になった瞬間に発射した弾丸は腰から地面に抜けていき、その流れで太ももに向けて発射した五つの弾丸は、異様に綺麗に横並びになっていた。
 体中に開いた穴からは、水道のようにジョロジョロと赤黒い血液が流れた。女はすでに死にかけだった。しかし女は、それでもいまだに治まらない激痛に暴れていた。軟体動物のように手足を動かす女の体に、体内から流れ出る血液が付着して、女を赤く彩った。
「ああっ、なんでこうなったんだ」徐々に動きが鈍くなっていく女の、壊れかけている視界には、弾丸が全て撃ち終えた拳銃が見えていた。
「くそ、痛い、なぁ……」
 頬に当たったアスファルト。女はそれを酷く冷たいと感じながら、ついにその重いまぶたを最後まで閉じてしまった。
 女の冷たくなった死体のそばに、スーツを着た別の女が歩いてやってきた。別の女の着ているスーツは黒く、また下半身はスカートだった。
「私が教師だ。そしてこれが、トーストになれなかった者の末路」
 全ての話を理解した女教師は女の死体をつま先でいじりながら、意気揚々と言った。
 その顔は嬉々にあふれていた。
「ふふふっ。授業で使えるかもね」
 そう呟きながら、女教師は赤いパンプスをコツコツと鳴らしながら帰宅した。
 日中の強い日差しが差し込む、五年肉組の教室。二時間目の授業をしているその場には、異様な空気が漂っていた。なにせ、学校一の美人教師が、いきなりわけのわからない物語を、美しい笑顔で読み上げ始めたのだから。作者の名前の頭文字すら不明な物語を、とことん楽しそうな声で読み上げていくと、教室はまるで、ガスがだんだんと充満していくように、異質で、不快な雰囲気に包まれた。
「変わりようこそ愛くるしい」
 美人教師はそうやって、何年か前のようにブリッジをして校長室にたどり着いた。腰に力を入れて立ち上がると、そのまま目の前の重々しい扉を両手で開く。
「そうさ、それこそ、山羊山羊」
 その先で、当たり前に校長先生が出迎えた。
「なるほど、つまりどうやら世間でいう『家族』と、私が思う『家族』には、もう到底覆すことができないほどの違いがあるらしい」
 何の前触れや予告も無く始まった校長先生の話。そこの十五畳ほどの部屋の中央に立ち尽くす美人教師は当然のように、「え、なんですか」と訪ねていた。
「……それがわかった、というよりもわからされたのは、いつだっただろうか。」
「知りませんよ」
「ここではっきりと言うが、私は家族のことが嫌いだ。全員死んでしまえ」
 そういう校長先生の手には、いつの間にかショットガンが力強く握られていた。
「え、なんですかそれ」
「お前だぁっ!!」血管が浮き出てしまうほどに力を込めて握っていたショットガンの銃口を美人教師に向けると、そのまま躊躇なく、美人教師にドカンと発砲した。
 辺りに漂う火薬の臭い。そして後からやってくる血生臭さ。死の香りというやつは、美人教師だった肉塊の、自慢だった顔面が綺麗に炸裂したことを校長先生に自覚させる。
「おお、美しい」
 校長先生は、肉塊として倒れ行く美人教師だったものを、素早く抱きしめた。
「もう、一生離さないぞ」
 耳としての機能をに担っていたその部分に、校長先生は低い声で囁きながら、下半身は静かに射精をしていた。
 いつまでも終わらない連結に、鉄くずのような終止符を落としたのは駐車場の一角で、その時の近くにあった、朦朧大腸がとても愛おしい。赤子で作ったスープを便器に流し、隣の部屋に滞在している赤ん坊を食らいつくす。幸福の道とはそういうもので、どうやら人間はそれから、長い道を歩いたらしい。
 道の様相とは人それぞれで、同じものを持っていることはありえなかった。幅も、周りの景色も、道に落ちているものも違う。しかし人間は、それをしっかりと認識することができなかった。自分の歩いている道が全てだと思い込み、それを他人の道にも見てしまう。自分の道が、こんなふうにつらかったので、他人のそれもきっとそうだと思い込む。愚かな行為こそ人間の本質であり、真実である。
 カップラーメンが出来上がると、同時に一つの世界が崩壊した。まるでお湯を注がれたように、地面はあっという間に熱を帯び、歩いている人間は全員が窒息感と共に熱がった。そうして世界は熱く滅びていくが、そんなことを全く知らない、知るきっかけすらも無い人間は、今日もカップラーメンにお湯を注ぐ。
 そのお湯が、どんな所に行っているのかすらも知らずに。
「でも弁当に入っている漬物って、ぼくは食べないかな」
「ええ、なんで?」
「だって……もー! 気分悪くなってしまうのですもの! なんであんなに酸っぱいのぉ」
「それは、みんなが食べたいからじゃない? 刺激を求めるのが人間なんだもの。痛みが好きなのが、人間なんだもの。過去を見ているとね、どうしても人間はいたずらが好きで、殺し合いが好きで、血なまぐさいのが好きなのよ」
「美しい鮮血を好むのに、グロテスクは嫌うのが人間だと思う」
「そんなのおかしいよ。血みどろが一番楽しくてえっちなのに」
「そうだ、そうだー! 三年後に熱帯魚食べろー!」
「ダンプカーでデートしよう。そうすれば、今回の金魚踊り食い事件の発案は許してあげる」
「許しをいいんですか! うれしいです」
「ただし、土砂降りを飲んでからよ。あの豪雨を、全部喉にいれてみなさい」
「了解しました。私、がんばる」
 その日から、その地域に雨が降ることは無かった。それどころか雲すらも浮かんでこないので、ギラギラとした太陽光が地域の町を照らし、夏が終わるころには、その町は照り焼きになっていた。
「出てくる料理が無条件で照り焼きになっている町とは、面白いものですね」
 それからその町の名は、『照り焼き町』になった。全てが照り焼き現象は全国のニュース番組でも取り上げられ、それからは今まで以上の観光客でにぎわい、さらに照り焼き好きの人間からの移住希望が殺到した。
「もしかして人間って、現代を生きれるように作られていないのかも」
 照り焼き町大学のイートインスペースで、両手を使わないブリッジを披露しながら、女子大生は友人に言った。友人は女子大生がブリッジをしているテーブルに肘を付き、存在しない椅子に体重を乗せていた。
「ねええ、変わってないねって、いわれたくない」
「味がしなかった」
「苦味って痛みなのかも」
「痛覚は激痛と、それを水で薄めた辛味で出来ているんだよ」
「ふうん……でも私、映画館にはいったことがないの」
 そっか、と女子大生は言いながら、未確認の優勝候補へと足を向けた。
「明日、決戦の日なんだ」受験期への扉を前にした女子大生の足は震えていた。死にかけの魚のように震えていた。
 するとそこに肩を並べる友人が、「大丈夫、刺身なら、もう食べた」と頼もしい顔で言う。
 実際、その顔と声は女子大生にとって頼もしかった。少なくとも、深夜まで営業をしているスーパーと同列に、頼もしかった。
「じゃ、行こっか」
 扉の紫色のドアノブに手を伸ばす女子大生の足は、すでに震えていなかった。
 開け切った入り口から、真白い閃光。それが十秒ほど、二人の視界を包んで離さなかった。眼球には握りつぶされているかのような痛みが走ったが、やがて閃光が消えると、それも無くなった。
 そうして見えてきたのは、一般的な大学の講義室だった。落ち着いた茶色の壁に少し汚い白い床。長机と椅子のセットが、数えるのが面倒だと感じるほどにたくさんある。天井には細長い蛍光灯が並び、それから落ちてくる光は、先の閃光に似ていた。眼球は居たくならなかった。
 二人から見てちょうど真正面。一番遠い壁には、大きな液晶画面があった。そこには黒文字で、『山羊について考える。第一回』と表示されていた。
「さあ、二人とも座って。講義を始めるわ」
 その声は液晶画面のすぐ横に居た、白衣の男から発せられたものだった。
「ええ、また山羊かよ」友人がノロノロと歩きながら言う。
「でも、この講義を入れたのは、アナタよ」
 それに答えたのは白衣の男だったが、女子大生も賛同的だった。
 その講義室に、二人と白衣の男以外の人間は居なかった。山羊も居ず、完全に三人だけの部屋だった。
 そんな部屋の中で、白衣の男は得意げに講義を始めた。
「まず、山羊になるということは最高の快楽であり傑作である。なのでこれにより、アナタはもうヤギにる夢を抱かなくても問題ない」
 観測者である二人は、性別不詳の白衣の男が発する、高くて奇妙奇天烈な言葉の列に、「はい?」の一言で対応するしかなかった。とくに友人は勉学が苦手なので、本当に言っている意味が変わらず、まるで別の国の言葉を耳に入れたような感覚になってしまった。白衣の男は、そんな二人に対して自慢の通常山羊フェイスの表情を変えることなく、二人に対し、本物の山羊のようにメェーと鳴くよりも上手に、人が理解できる単語で、人間がしっかりと理解できる文章を作り上げる。
「……あの、色々な仕事をやった後に、実家に帰省するみたいな感じで山羊のマネをやるとね、『ああ、山羊ってやっぱり、良いなぁ』ってなる。熱々の珈琲を飲んだ後に胸の奥から温かくなるみたいに、安心感で包まれるの」
 白衣の男ははそこで言葉を区切り、着用している白衣の男付いた白い毛玉のようなものをいくつか払ってから、続ける。
「だからアナタ達も、山羊やろうね! ほら、虚無に向かって鳴くと、快感を得られるよ!」
 白衣の男はもともと表情筋の発達があまり活発ではないが、この瞬間の白衣の男の表情は、とても嬉しそうで、とても明るくて、自信のあるようなものだった。
「なら、どうするんだ? この危険地帯の問題に対し、アンタのようなふざけた頭の教授とやらが、どう立ち向かうんだ?」
 自信満々な白衣の男に対し、友人が鋭い目つきで言い放った。友人は腕を組み、椅子に全身を預けているようで、すっかりこの場に適応しているようだった。自信と安心感を得たことで、つまり心に余計な心配や警戒が無くなったことで、白衣の男の話に対してしっかりとした疑問を感じることができていた。その疑心は眼に釘のような鋭く冷たい光を産み、それが白衣の男の芯を突き刺していた。全てを敵視していることが、白衣の男自身だけではなく隣の女子大生にも理解できた。
 白衣の男は両目を閉じ、そして十分な溜めを経て言う。
「……私の脳内は、電波にて表れる」
「電波だと……?」鋭い目の友人は、低い声だった。
「我が文の、全てよ」
 白衣の男はは目を開きながら、ゆっくりと両手を後ろに回し、脚を軽く開いて堂々と言った。その真っ黒な瞳に光は無く、どろどろとした暗黒があるだけで、そういう色のコブにすら見えてしまう。そんな目に、真正面から見つめられた二人は、たちまち脚が痺れたように動かなくなり、更に心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。体の内なる変化は二人それぞれが顔に出ていて、個人によって差はあるが、両名とも表情を動かす筋肉すらも強張っていた。
 白衣の男ははその瞬間、自身の勝利を見据えた。その喜びは顔や体には出さなかったが、心の内には体が宙に浮くほどの高揚感がありました。
 しかし、一人だけ。鋭い目をした友人は、まだ諦めていなかった。
「アンタ、それが文字書きし者か?」
 友人はその細い目を、更に細めて言った。
「ああ。そうだ」白衣の男は端的だった。それから心の内の空中浮遊をやめて、どろどろとした目を友人のように細めてみせた。それは焦りによるものだった。完全に勝ったと思っていたにも関わらず、それを簡単に覆されそうになっているという状況に、男は恐ろしく身構えていた。
 そんな時、いままで恐怖に支配されていた女子大生が口を開いた。
「ふん。そのようなものが、あるものか」
 その瞬間、すでに限界だった白衣の男の心の風船が破裂した。
「あるさ! お前の無知を振るうな!! ああああ!!」
 白衣の男は簡潔に発狂すると、目の前の何かを何度か殴りつけ、そのまま後方にバタリと転倒していった。
「死んだ……?」女子大生はゆっくりと言う。すると友人は無言で立ち上がって、仰向けに倒れている白衣の男の首元に指を添えてみせた。
「うん。死んでる」
 友人が言うと、すでに液晶画面は奥の空間への入り口になっていた。
「いく?」友人は女子大生に訊ねたが、それの答えを聞くつもりはなかった。なぜなら実際に訊ねた際に見た女子大生の顔が、完全に覚悟を決めた後の顔だったから。
 そうして巨大な入り口の前に立った二人は顔を見合わせると、それから柵を乗り越えるようにして入り口の真っ暗な空間に入っていった。
 空間は確かに暗かった。地面も、天井も、壁も無い。完全な暗闇だった。
 それでも二人は歩いた。そもそも暗闇だというのに、その空間はしっかりと歩くことができた。原理はわからなかったが、それでも歩けた。
 原理が不明といえば、どれだけ先に進んでも、視界が暗闇に支配されることがなかった。暗闇の中を歩き始めたころは、後ろの講義室の蛍光灯からの光のおかげで足元や体が見えていた。しかし歩くことで講義室が小さくなっていくのを確認すると、講義室からの光もいつかは無いものになってしまうのだろうなと二人は思った。しかしどれだけ前に進んでも、すぐ横を見れば互いの顔がしっかりと見えた。やがて二人は講義室が見えなくなるほどに進んだが、それでも横にはしっかりと顔がり、下を見れば二人分の足が見えた。
 おかしいな、と女子大生がつぶやくと、友人が、それはこの空間もそうでしょ、と言う。女子大生はそれに笑みで返事をし、そのまま再び歩いた。
 数時間の歩行の末、唐突に出てきた扉に、二人は歓喜の声も上げずに走り出した。もはやそれほどまでに疲れ切っていたが、ゴールのようなものを目にしたことでそれが一気になくなり、走ることができた。
 先に扉にたどり着いた女子大生が、その錆びているような様相の引き戸を片手で開けた。
 扉はギリギリという金属同士が擦れるような音を出して開いた。そのタイミングで友人がやっと追いついた。
 扉の先にあるのは、体育倉庫のような空間だった。狭く、埃を含んだ空気が漂う。用具は壁沿いにある木製の棚に置いてあって、一番奥にはなぜか大学でよく見る教壇があり、その横には木製らしい扉、そしてそれのさらに横に、マットレスの山があった。白いマットレスは、女子大生の腹部にまで到達するほどの高さにだった。
 そんなことは一切ないのに、どうしてか咳きこみそうになってくる。そんなよくわからない気持ちを抑えて、二人は倉庫内に入った。
 倉庫内には頭が山羊の人間が二人居た。
「なんだい、君ら」
「我々はいま、カウンセリング中なんだ」
 丸椅子に座り、向かい合う形で居る二人の山羊は、女子大生と友人の二人を見て面倒くさそうな顔をした。
 友人が言葉を発した。
「すみません。私たち、行くべき場所に行きたくて」
 それには女子大生も続いた。
「でも、その行くべき場所が、わからなくて」
「ふうん。ところで君ら、山羊?」
 二人はギリギリ、まだ人間だった。
「え、違います」
 するとそれまで黙っていた山羊が立ち上がり、素早く言う。
「すまない。山羊以外は帰ってくれないか」
 その顔は山羊だったが、迫真に包まれていた。
 この山羊は、何かの強迫観念にとらわれているのかもしれない、と女子大生は考えた。
 それからは友人と強迫観念にとらわれていそうな山羊との押し問答だった。残されたもう一人の山羊と女子大生は、互いに互いのパートナーを虚無の目で見守るしかなかった。
 もう好きなだけ言い争ってくれ。二人は、すぐ横で唾を飛ばし合いながら言い争いをする二人を見て、そう思うだけだった。
 結局、友人は山羊からいくつかの情報を手に入れることができた。
 名前は二人の山羊の名前はそれぞれ『c級』と『タイコ』というらしい。停学中に旧校舎から手に入れておいた教壇が置いてあるこの倉庫の中で、この二人の山羊は緩やかな言い合いをしていたらしい。
「それで、二人は行くべき場所に行きたいんだって?」
 c級は椅子に座ると、どっこいしょ、というため息とともに友人に言う。それに対して友人は椅子に座りながら、「そうです」とだけ返した。
 微妙な空気が流れた後、女子大生が何か知りませんかと訊ねた。
 それに答えたのはタイコの方だった。
「ここからなら、もう近い。後ろの木でできた扉を行け」
 それは、もう何時間も歩いてきた二人にとって、歓喜の悲鳴を上げさせるほどの回答だった。
 二人は颯爽と立ち上がると、そのまま山羊に礼を告げ、この倉庫に入った時から目にあった、あの木製の扉に向かった。すれ違った際に近くで見た教壇は倉庫内のどの置物よりも埃を纏っていて、これは本当に旧校舎にあったものをそのまま持ってきたんだろな、と二人は同時に思った。
 木製の扉には、銀色のドアノブが付いていた。それを握ってひねったのは女子大生だった。冷たいそれを前方に押し込むと、扉はきいと音を立てて開いた。
 その先に続いていたのは、やはり暗闇だった。相変わらず色だけの黒で、何も見えないというわけではなかった。
 二人は再度山羊に礼をすると、それから暗闇に足を踏み入れた。
 バタン、という扉が閉まる音と同時に、タイコはため息をついた。
「……みんな山羊だろ……」タイコはc級に言うというよりは、自分に対しての確認のような感じで言う。
「なあ、そうだよな……? 我々って、山羊だもんなあ」
「さあ、どうかな」
 タイコは、ひどく楽観主義なc級のことが嫌いだったが、しかしこの世界の中で成り上がるには、目の前のとてもチャラそうな風貌の雑魚山羊と手を組まなくてはならないことを重々承知していた。
 タイコは座っているc級のことを見つめながら、c級の不真面目な分析にできる限り寄り添うつもりで言う。
「いいや、人間と呼べる者たちは、少なくはあるが居る」
 二人はそれからうなるようにして思考を続けた。
 暗闇を進む女子大生と友人は、それからいくつかの休憩をはさみながらも、何もない暗闇を歩いた。体力的な疲れは不思議と無かった、休憩をしているのは、精神的な疲れを消すためで、十分もしゃがんでいれば、それは完了するものだった。
 ふと、女子大生が先を見つめながら言う。
「この先、どうなってるんだろうね」
 言いながらチラリと横をみると友人が確かに居た。女子大生はそれに安心を感じた。
 友人は前を見ている。
「まあ、ゴールはあるんでしょ。あの時、あの二人の山羊を前にした時、ここにはゴールがあるって、確信したから」
「だからあんなふうに、すぐに言葉が出てきたの?」
「アナタだってすぐに便乗できてたじゃん。確信したんでしょ?」
 それは事実だった。なぜだかあの体育倉庫に入って、中の山羊二人を見た瞬間、私たちにはたどり着くべき、ゴールがあると確信できた。それは友人の方も同じだったらしく、あの場で言葉がすぐに出ていたことには女子大生はひそかに驚いていた。
 女子大生が考えていると、友人はそれを見て、「ほら頑張ろう」と声をかける。女子大生はそれにハッとなって、顔を上げた。
 視界の近くに友人の顔が見える。笑っていた。
「もう少しだよ。なんだかそんなきがする。だから、頑張ろう」
「うん」
 二人は歩いた。闇雲にではなく、一歩一歩にしっかりとした自信を持ちながら。
 その異変は、すでに休憩回数も三桁の大台を超えたあたりで、二人はの前に現れた。
「なにあれ……」
 それは一人の人間だった。ただし直立しているわけでも、何かに座っているわけでもない。その人間は、暗黒の床にぐったりと横たわっていた。
「あの、大丈夫ですか……?」
 二人は颯爽と人間に近づき、傍らにしゃがみ込んで人間の顔を覗き込んだ。女性らしく、美人系の整った顔の瞼は両方とも閉じていた。
「この人も、あの山羊たちと同じ存在なのかな」
「でも、この服装……」
 友人が着目したのは、その人間の少し変わっている衣服だった。白い長そでのシャツにゆるい黒色の長ズボンまではどこでも目にすることができる衣服だったが、この人間はそれに加え、以外の上から華やかな黄色いエプロンのようなものを着用していた。
「これ、胸のとこのヤツって、名前じゃない?」女子大生は人間の着ているエプロンの胸元にある、向日葵を模した名札を指さした。そこには『エミコ』と書かれていた。
「エミコさん、どうしてこんなことろに」友人が話しかけるように言ってみても、エミコが瞼を開けることはなかった。
「この人、眠りたいんじゃないかな」それを言ったのは女子大生だった。
「眠りたい? こんなところで?」
「うん……いやわかんないけど。でもこの人の顔を見てると、そんな気がする」
「そうなんだ……」
 エミコの顔を注視している女子大生の顔は、エミコの顔ではなく、エミコの心そのものを見ているようで、そんな女子大生の言っていることは間違いではないのかもしれない、と友人には感じられた。
 だからこそ、友人はエミコの体をしっかりと横向きにし、最後には耳元で、「おやすみなさい」と言ってみた。
 そうすることでこのエミコという人間がどうなるのかはわからないが、それでも友人は、なんだかいい事をした気分になった。
 そんな友人を見ている女子大生もまた、なんだかいい気分だった。
 二人はまた歩き出した。
 ついに暗闇だけだった世界に、二度目の変化が現れた。それは一度目と同じように、歩いている二人の少し先に、扉が現れるというものだった。
 二人は扉の出現に足を止め、息を飲んだ。一度目のように走ったりはしなかった。できなかったのではなく、それがゴールであると確信していたからこそ、立ち止まって心構えをする必要があった。
「……行くよ?」
 友人は女子大生の方を見る。相変わらず暗闇だというのに、隣の女子大生の顔は良く見えた。
 女子大生の顔に、もう怯えはなかった。覚悟を決めた眼光で友人の目を見ると、それから無言でうなずいて、進んだ。
 友人もそれに合わせた。今までよりもより慎重に、見えない地面を踏みしめるようにして歩く。扉はどんどん近くなっていく。どうやら両開きらしい扉は黒く、開くためのノブは二つついていて、金色だった。
 ノブに触れたのは女子大生のほうだった。二つのそれを両手で握り、そのまま押し込むように扉を開いていく。扉は何の抵抗も無く開いた。
 先に続いていたのは、真っ黒な道だった。しかしそれは今までの暗闇とは違った。黒色のカーペットで作られた、廊下のような道だった。
 二人は再度顔を見合わせると、道を進んだ。足にはカーペットを踏んでいる感触がしっかりとあった。
 少し進むと、カーペットの道は右に曲がっていた。分かれ道などは無かったので、したがって進む。すると曲がった先の道にはその両脇に小さなライトが等間隔で埋め込まれていて、より道の全貌が見えて、少し進むと再び曲がることがすでにわかった。
 ライトの光の色は乳白色で、なんだか優しかった。そんな道を進む。そして二度目の曲がり角を曲がる。
 その先は、映画を上映するシアターだった。
 道にあったライトと同じような乳白色とは違い、シアターの天井にある光源は肌色の落ち着いた光を出していた。二人はこの光にも安心感や、心が鎮まるような気持ちを感じられた。また、珍しく、このシアターは階段状にはなっていなかった。二人は今座席の列の最前の位置に居るが、ここからでも最後列の様子がしっかりと見え、それがこのシアターはそんなに広々としていないことを表していた。無数の座席は深い赤色で彩られていて、それにはポツリポツリと人や山羊が居た。
 人は男女問わず、また年齢もバラバラだった。山羊に関しては、頭が山羊だけの存在だったり、四足歩行の山羊そのものな存在も平然と居た。
「ここがゴールなのかな」女子大生が言った。
「でも、確信はあるよね」友人も言うと、女子大生がそれに同意した。
 二人は何もわからなかったので、最前列の席に座った。もしこの席が他人の予約席だったとしたら、その時に退けばいいと思った。
 座ったことで、映画を映すのであろうスクリーンを目にした。講義室にあった液晶画面なんかよりも巨大で心なしか画質も綺麗だった。
 スクリーンには、よくある映画の注意が映像として流れていた。人間用の注意と山羊用の注意で分けて書かれていて、その差はしっかりとあった。例えば四足歩行の山羊と普通の人間では、まず体格から違うので、同じ座席でも座り方が全く違う。山羊の場合はひじ掛けに設置されている安全バーを使用し、映画鑑賞に夢中になっているうちに転げ落ちることを防止しなくてはならない。また山羊の頭と人間の頭はそもそも形が違うので、座席を決める際はしっかりと近くの人間または山羊と話し合って決めなくてはならない。
 そんなことがスクリーンの中で、デフォルメのされているイラストと共に説明されていた。文字だけではなかったので、映画館に初めて訪れた女子大生にもすぐに理解できた。
「大丈夫……?」
 それは友人の声だった。スクリーンの説明動画を見るのに夢中になっていた女子大生のことを心配して声をかけた。女子大生は友人の顔をしっかりと見ると、「うん」と笑みまで浮かべて言う。
「本当に? ここ、何が始まるのかわからないけど……」
 友人は怯えているようだった。
「大丈夫」
 女子大生は言い、そして友人の両頬に両手で優しく触れた。
女子大生の手は、できたての餅のような生ぬるく柔らかい感触だった。友人はその両手に顔を預けた。すると女子大生はそのまま両頬を少し撫で、それからそっと両手を離した。
「終わった、喫茶店にでも行こう。店員側から忘れられてそうな隅の席で、今から始まる映画の感想を言い合おう」
「なにそれ……ふふっ、良いよ」
 友人は穏やかな笑みを浮かべた。女子大生も笑みを返した。友人はすでに、安心感に包まれていた。それは、光なんかでは到底得られないような、底の深いものだった。
 二人がそれぞれの席に背中を預けると、そのタイミングでループしていた注意説明の映像が切り替わった。同時にシアター内の光がパッと消え、辺りは闇に包まれた。その闇の中では、スクリーンの光だけが光源だった。二人が横を見ても、お互いの顔は見えなかった。しかし友人は怖くなかった。女子大生も怖くなかった。それでも二人がしっかりと存在しているという証明がしたかったので、それぞれがひじ掛けに置いていた右手と左手をそっと重ねた。
 映像には黒く、『山羊について考える。』というタイトルらしい文字が表示されていた。文字はすぐに消え、背景である白色だけになる。しかしその白色というのはどうやら山羊の体毛を至近距離で撮影したものらしく、徐々に引いていくと山羊の全体がスクリーンに映った。
 緑色の芝生らしい場所に立っている四足歩行の山羊が、おもむろにに語りだした。
「悪魔に祝福された超生物、山羊。それらは世界が大きな戦争を起こしている最中に現れ、その戦争を圧倒的な力で終結させた」
 声は低く、紳士的な老人を思わせた。
「その力は脅威ではあったが、同時に次なる時代を開幕させる鍵でもあった。そうして、喋る山羊たちによる愉快な時代が始まった。山羊は高い知能を駆使し、人類の警察組織や、軍事組織を模した新しい山羊的組織を作りだした。しかし」
 映像はそこで切り替わる。町中を歩いている一匹の山羊を、少し遠くから撮影したものだった。
「……しかし、そんなものに一切の関心を抱いていない一匹の山羊が、代わりにどうしようもない信念を抱いて生きている」
 その山羊は、なんだかマヌケな顔をしていて、見ている女子大生も友人も、なんだか人生を舐めていそうだなあ、と思った。
 そこでさっきの芝生に映像は戻った。低音の山羊がまた語る。
「現代を生きる山羊は、その何も考えていなさそうな眼球で何を見るのか。それは、山羊本人にすらわからない」
 そうして映像は低音山羊の片目にアップしていった。それは見ているものが低音山羊の片目に吸い込まれていくような演出であり、近づくに伴って、掃除機が吸引をしているような音が流れた。
 数秒の黒色の後、場面は会社の会議室のような部屋に変わった。コの字に並べられた木目調の長机には、ワイシャツと黒色のスラックスという、現代社会ではよく見かける会社員の格好をした中年の男たちが、正面にあるホワイトボードを見つめながら言い合いをしていた。
 それは会議室にふさわしい会議だった。
「そもそも、何も考えていないのですよ、アレは」
 横に長い顔をしている会社員が言う。確かにそうかもしれなかった。それは、真実なのかもしれなかった。
 しかし反論はあった。
「山羊の眼球を見て、それを言っている?」横長顔の会社員とはちょうど対角線上の位置の席に座っている、パーマの会社員だった。
 なら違うぞ、それは違うぞと言って、パーマは続ける。「だって、山羊は皆あの眼球なのだもの。ガラス玉と大差ない丸っこい目。外付けのような、完成した粘土細工に後から接着剤で付けたようなものは、全ての山羊が持っているのだもの」
 パーマの言葉には熱があった。しかしその熱を何とも思わない横長は立ち上がり、「だから違うと? ならあの山羊は、何かしらの思考をしている、とでも?」と、あおるような顔で言った。
 パーマはそれにしっかりと答えた。
「それも違う」
「じゃあどういうことなんだ? 一体、アレらは何なんだ?」
 横長の目には、すでに敵に向けるべき光があった。
「おい! もしかしてあのクソ山羊の味方なのか、お前は。どうなんだ? なあなあ」
「ちょっと待て……」
 するとそこで、今まで何も口をはさんでこなかった小太りの会社員が口を開いた。
「……なあ、山羊って山に羊って書くだろう?」
「ああ、書くな」
「そうだな」
 横長もパーマも、それには同意した。
 小太りはそんな二人の様子を見て、満足げに続ける。
「つまりぃ……ふふっ、そういうことだよね」
「いや、どういうことだよ」
「どういうことだろうな。ああ、そうだ、アサルトさんに訊ねてみよう」
 そうして会社員は、後方に首を回らせた。そこには今までは居なかった、長身で長髪の男が立っていた。
 映画としてそれを見ている女子大生や友人らは、それが噓偽りの無い完璧な、あるいは純真無垢なアサルトさんであることを一瞬のうちに理解した。
 会社員はアサルトさんに言う。「なあ、どうして世間はみんなして、帽子のことを災害への命綱だと思っているんだ? それってつまり、抑圧だろう? 民間人がどうしてもっていうから、昨日一匹の狼を踊り食いしてやったんだ。そうした、どうなったと思う?」
 従順なアサルトさん「人がしにました!!!!!」
「そうだ! みんな、ただの肉塊になったんだ。幼少期の特別好き嫌いを物理的に叩きのめした英雄が、未来を望んで棺桶の中で死んでいった。それは予告とは違うけれど、でも正解だったんだ。動物の中で、木片を食べれるようなものがあるか? ないだろう、ないだろう。それこそが正解だから、真実だからこそないんだ。わかるか?」
 画面は季節のように変わりゆく。しかし、季節のような鮮やかさは、その映像の中にはなかった。アサルトさんという長身男と一人の会社員を残して、それ以外の全てが、映像の半分を占めている横断歩道に飲み込まれていった。
 横断歩道の真ん中で、会社員とアサルトさんは向かい合っていた。互いを信頼しているが故の行為だったが、実際のところ、二人は信頼関係で結ばれてはいなかった。
「なんども、何度も。みんなの眼窩を舐めていた。それが正しいと思っていた。それが救済だと思っていた」
「お前は気づいていなかった。それは救済ではなく、お前自身が九歳なだけだということにな」
 アサルトさんの台詞を聞いた大多数の映画閲覧者は、乾いた笑い声を出していた。女子大生と友人の二人は無表情で、映画が始まる時に握った手の、互いの汗の温もりを心地よく感じていた。
 映画の中では、すでにアサルトさんと会社員との殴り合いが始まっていた。それのきっかけは、会社員が蜜柑を食べるための作法を知らなかったことにあった。
 しかし、その蜜柑を食べるための作法というものについては、女子大生も全く知らなかった。
「お前はいつもそうだ! そうやって、作法だのなんだのって、厳しいんだよ!!」
 会社員のストレートがアサルトさんの頬に入った。しかしアサルトさんは全く痛がらず、それどころか頬で会社員の拳を受け止めると、そのまま、「そういうところが九歳なんだ!」と叫びつつ会社員の腹に蹴りを入れた。
 会社員は体をくの字に曲げて、さらに汚い声を出しながら地面に倒れた。
「まったく、どうしようもない」
「はは。そうかな……」
 会社員の声は、今すぐにでも消えてしまいそうな弱弱しいものだった。アサルトさんの蹴り攻撃がそんなに効いたのか、と女子大生は思った。
 すると会社員が言う。
「どこで、間違えちまったんだろうなあ……」
 空を見ているらしい会社員の顔には、本当の後悔を経験している色があった。アサルトさんはそんな会社員の傍らに腰を下ろすと、そのまま会社員と同じ空を見上げ、「間違えたっていいじゃないか」とささやく。
「え?」
「間違えたとしても、その後上手くやればいい。それでも間違えたら、また次に頑張ればいい」
「でも、それでいつまでも間違えてたら、どうすりゃいい?」
「そんときゃあ……」アサルトさんは空から目を離し、会社員の顔を見る。「死んじまうか! 二人で」
「あ、アサルトさん……」
 会社員の頬には、確かな涙の線があった。
 場面はそれから、今まで映っていなかった空を映し、それからその空の画に、空を見上げている二人の顔面を乗せて終わった。
 一秒間の黒色の後、画面は再び切り替わる。壊れかけのテレビがようやく調子を取り戻した時のような、ノイズと砂嵐の後、しっかりと切り替わった。
 そうして画面に出てきた場面は、先ほどと同じような横断歩道がある場所だった。しかし、そこには誰も居なかった。見下ろすような視点の映像の中には、ただ横断歩道が映っているだけで、誰一人として居なかった。

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