〈祈りのエッセイ〉「ほどかれていい」自分
転居をくり返してきたので「ほどく」事が苦手である。いつまた引っ越すかもしれぬので荷解きをしないのだ。だから、どこも「仮住まい」である。
人間関係も同様で、始終転校・転職をしてきたので、初めから深い関係づくりをしなかった。「いま・ここ」に身を置いて生き抜く、という根の下ろし方・張り方ができなくなってしまったのだ、いつのまにか。
だが、本当はほどきたいのだ、荷物でなく己自身を。そして「いま・ここ」で思い切り生活したいのだ、いきいきと。
すき間からそっとのぞくようなオドオドシタ人間関係でなく、遠からず別れるにしても、「いま出会った人」「ここで一緒に時間を過ごしている人」そのひとに心を開きたい。本心は明かさぬ、相手の懐にもとびこまぬ、それがスマートな関係だと、独りよがりをすることを、もうやめにしたいのだ。
傷つく勇気、それが要る。
それに加えて、たとえ皮膚が傷ついても内臓にまで喰い込ませないタフさ、それも。
さらに、「ニンゲンはほんとうは強くなどない。心の奥まで見通してみたら、みんな壊れやすい土の器なのだ」という人間観。
―それらがあれば、身を固くして世の荒波をこいでいくのだ、という孤独感や悲壮感はうすまるのではないか。己をガードし、「今日」をおろそかにし、「ほどかない」自分。そうではなく、この世の縛りから、己の臆病さから「ほどかれていい」自分だと思える、そんな優しさが、心の岩からしみ出てくるのではあるまいか。そしてそうなったとき、「ほどける」自分に変わっているのではあるまいか。
●読んでくださり、感謝します!
自分を縛るのは周りではない、自分自身だ、と気づけば、次の一歩が見えてきそうです。自由への一歩が。