企業・団体献金廃止しても意味ない
正確には、企業・団体献金を個人献金に移行するのが、石破政権の狙い。これまで献金を行ってきた企業や団体を廃止して、透明性を確保しようと言うのが狙いだ。ただし政治団体から資金管理団体への献金や寄付の道は残すだろうと言うのが、もっぱらの見方だ。
特に改正政治資金規正法の再改正を訴える立憲民主党に対しては、小沢一郎議員は、こう喝破する。
「企業が悪だという前提に立っている」
「自由なところは自由にし、全部公表すればよい。いいか悪いかは国民が審判する」
いかにも田中角栄以来の金権政治の申し子のような言い分だが、実は、日本特有の地方自治法や地方公共団体、地方議会の在り方から言って、間違っているとも言い切れない。複雑な仕組みと枠組みで作られている日本の政治のあり方から言えば、中央官庁の影響をモロに受ける地方行政において、地方分権、地方創生の為の地方議会の有り様があまりに国政政党の影響を受けすぎている現状は確かにある。その意味で、議員個人が地元企業との関係性の中で、地方行政の円滑化を促進する必要があるのも事実だ。
先日、新党結成を目指すと表明した石丸伸二氏は、地方議会や地方議員が国政政党の影響を受けない形で政治活動を行っていく必要性を語り、地方分権、地方創生を具体化する道として新たに地域政党を立ち上げることが重要だと語ったが、その意図は、正しく上記のような今の地方行政のあり方に一石を投じる考え方だ。
私は依然として石丸伸二氏には懐疑的で、言ってることは遠回しに小沢一郎氏と変わらないと考えている。確かに、地方分権、地方創生による大都市一極集中の現在を解決しなければ、少子高齢化、地方の衰退を止める手段は無いかもしれない。
一方、地方行政のあり方を根本的に見直すのが、果たして、石丸氏の手法かと問われれば、そうとも言い切れないのではないか?と思えてならない。石丸氏の手法は、小手先感が拭えないのだ。そこは、税制改正の問題に切り込む玉木国民民主党代表の主張とは、出発点が違いすぎると思う。
以上のように、小沢一郎氏の考え方の基本はあくまで地方行政、地方分権のあり方とセットで考える必要性があるし、小沢氏にしても石丸氏にしてもその主張の根幹部分は、税制改正や地方自治法の改正にまで踏み込む内容だ。言ってることは分かるが、その先は非常に遠い道のりとも言える。
また、巷間指摘されているように、立憲民主党案の内容についても、非常に曖昧な点を残しつつの議論になってしまっている。企業・団体の献金禁止であるに関わらず、政治団体間の献金に規制を設けないとしている。これこそダブスタではないか?正論を吐きながら、実は逃げ道を作るのは政治家の常套手段だが、それを自民党批判しながら臆面もなく自分たちの法案に書き、「私たちは対案を出しています」と言っても、それは通らない。このあたりも、立憲民主党の本質というか、支持率が上がらない点の一つだと思う。
このような態度は、支持者を冒涜し裏切るもので、政治家が一番、やってはいけないことだ。初志貫徹できない政党は、いずれ消えてなくなる。野田佳彦の目的は政権交代だが、政権交代の先にあるのが支持者、有権者への裏切りなら、政党の存在理由そのものが問われることになるだろう。
なお、現行法上の政治献金のあり方については、こちらのサイトが分かりやすい。
立憲民主党に限らず、政治資金規正法に逃げ道を作りたいのは自民党も同じだ。元々、企業献金によって大きくなってきたのが自民党でもあるからだ。だから、どこかで法律の抜け穴を作っておき、従来の献金額を維持したいと考えるのは当然と言えば当然だ。
その原因の一つが、日本では個人献金が習慣となっていないからだ。企業・団体献金が個人献金に置き換わっても、それまでの額を維持することは困難だ。日本は個人資産が2,000兆円もあるとてつもない金持ち国家なのだが、その個人資産で政治活動を行うという考え方がない。世の中、何かにつけて世襲議員が批判されるが、世襲議員が「鞄(資金)、看板、地盤」を引き継ぐことでしか、政治活動への参画が厳しいからだ。
石丸伸二氏のように独自に情報発信チャンネルを持ち、一定数の支持者を確保して寄付金、献金を集める手法もあるが、それを全ての議員が出来るわけではない。ましてや、日本は国会議員が多い。これには理由があって、日本はほぼ全国的に市町村が分布していて、しか縦に長い国であるため、気候風土も違う。つまり、地方によってそれぞれ事情が異なるため、必然、市町村ごとに議員を出し、土地土地の事情を加味した政策を求める必要がある。そのため、不公平感をなくそうと思えば、より多くの議席を設けるしかない。その多くは地方の高齢者だったりする。それらの人々が、企業・団体に匹敵する寄附金や献金を届けられるのか?にも、大いに疑問の余地が残る。
つまり、立憲民主党が主張する形だけの政治改革は意味がない。意味がないどころか、個人に置き換えることによる弊害は、政治活動費の制限に繋がる。ましてや、旧来の地方行政の仕組みの中で、自由な競争原理が働くよりも先に、地方公共事業が成り立っている仕組み自体が崩壊してしまう可能性がある。
企業・団体献金を推奨しているのではない。極端な行政改革は、国民生活を置き去りにしている可能性が非常に高いのだ。
そして、これは地方公共事業に関わると分かるが、緊縮傾向にあった国家税制は、地方公共事業の予算削減の方向に向かった。儲からない公共事業から手を引く現実は確かにある。また、公共事業を受け入れてもいいような体力のある企業へと偏向している現実について、地方の中小零細をどう守っていくか?の議論も片手落ちだ。
企業・団体献金を悪者にする左翼系メディアと左翼系議員の世論誘導によって、実は弊害の部分の方が大きいという現実を、どう受け止めるのだろう?政治資金規制法改正の改正を主張する政党は、もっと、現実を見た政策を打ち出すべきで、その意味で、自民党案の方がより現実に即した妥協案としては議論の余地があると感じる。
オールドメディアでは企業・団体献金を否定する論調に偏っているように感じるが、それは実は非常に危険なことでもある。自民党の政治資金規正法上の不記載問題が注目されたことによって、バカ左翼の悲願であるところの自民党下野、政権交代に向けて少し動き出したことは彼らにとっては僥倖だったかもしれないが、実はその先の議論を蔑ろにしているから問題なのだ。また、たとえ企業・団体献金を否定し個人献金に頼ったとしても、企業・団体献金が形を変えてしまう可能性が極めて高い。それはグレーゾーンを作り出すだけの話であって、綺麗事を並べることで、汚いものを作り出す可能性が高い。
政治資金規正法の議論を進めるなら、行政改革全体も含めて議論すべきだ。
国民に対してのイメージ戦略より、現実に即した議論を進めるべきだ。