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どうして生じた?領解文問題 vol.8

松月博宣ノート

検証⓫大きな錯誤

「唱和」と「出言」、言葉の違いだけだろうという意見もあるかもしれません。ここは宗教的行為で言っているのです。「唱和」は他者からの強制を伴うもの。「出言」は自発的表出。この違いは大きいと考えています。

「ご消息」にも「宗務の基本方針」にも唱和することの意味が検討がなされている形跡は見当たりません。実に安易に用いておられるように感じられるのです。それは「領解文」の重みを検討しなかったことに原因があるように思われます。ご消息に

浄土真宗では蓮如上人の時代から、自身のご法義の受けとめを表出するために『領解文』が用いられてきました。そこには「信心正因・称名報恩」などご法義の肝要が、当時の一般の人々にも理解できるよう簡潔に、また平易な言葉で記されており、領解出言の果たす役割は、今日でも決して小さくありません。
 しかしながら、時代の推移とともに、『領解文』の理解における平易さという面が、徐々に希薄になってきたことも否めません。したがって、これから先、この『領解文』の精神を受け継ぎつつ、念仏者として領解すべきことを正しく、わかりやすい言葉で表現し、またこれを拝読、唱和することでご法義の肝要が正確に伝わるような、いわゆる現代版の「領解文」というべきものが必要になってきます。

ここに領解文が現代において『理解における平易さという面が希薄に』とされているから『念仏者として領解すべきことを正しく、わかりやすい言葉で表現し、またこれを拝読、唱和することでご法義の肝要が正確に伝わるような、いわゆる現代版の「領解文」というべきものが必要』とされています。

ここに大きな錯誤が見えるのです。「法義の肝要が正確に伝わるような」とされていますが、申し訳ない事ですがこれでは「領解文」にはなりません。「領解文の本質」について議論もないまま「現代版領解文」制定がなされてしまった事に、この度の原因があることをいつかの回で書きましたが、それがここに出てしまっているのです。領解文は法義の肝要を表すものではなく「法義をこのようにお聞かせに預かりました」と自らの安心(信心)を口に表出するものであるはずです。

「現代版領解文」を制定しようという発想は、おそらく『領解文』で使われる言葉は現代の人には理解出来ないから、現代人にもわかる言葉に作り直したらいいだろう。大方この指摘のごとくであったろうと推測します。だからでしょう「拝読 浄土真宗のみ教え」に「現代版領解文」として「救いのよろこび」が当時の叡智を結集して制作され掲載されていたのです。それが現総長になって突然「出拠が明らかでない」という一言で削除され「私たちのちかい」が掲載し始められたことはご存知の通りです。

検証⓬慣例になっていた反省

新しい「領解文」の内容もさることながら、「制定方法検討委員会」がその答申でわざわざ「領解文という文言は混乱を招くから使用しないように」としているにも関わらず、答申書を無視して「領解文」としたが故に委員会の指摘していたような混乱が起きたと言っても過言ではありません。

なぜ使用したのか?
おそらく2021年4月のご親教「浄土真宗のみ教え」で語られたものを、かつての宗門長期振興計画や進行中の宗門総合振興計画ではなかなか実行出来なかったことを大義名分にして「現代版領解文の制定」として使おうという意図があったとみます。

つまりは浄土真宗の教えを、ご親教「浄土真宗のみ教え」に語られる内容に塗り替えてしまおうという思惑があったのです。その思惑は石上智康氏が持っていたと言わざるを得ません。なぜなら既に多くの方が指摘されているように氏のご著書に書かれている内容と酷似しているからです。おまけに門主の宗務行為はすべて『総局の申達』によってなされるのですから、ご門主が総長の推進することへの関与は、石上氏とご門主の関係性からしても難しかっただろうことは想像に難くありません。

話題が少し外れてしまいましたが、要は「出言」とは私の領解をご開山の前に聞いてもらい、その是非を批判してもらうことですので、私たちにとってとても重要なことなのです。しかしながら、このことは「知ってはいるが意識されてない」ことに問題があると思うのです。

ご法話が終わり「領解出言」と声がかかると慣例的に「もろもろの」としていたのではないか?否、そうしていた私がおります。この度の混乱があって改めて「私の領解を今ご開山に聞いてもらっているんだ」と思えるようになったのは確かですから、この度のことは有難いご縁になりました。
 
いま本願寺派には「唱和モノ3点セット」と名付けた(私が勝手に)ものがあります。

ⅰ 私たちのちかい
ⅱ 浄土真宗のみ教え
ⅲ 新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)

ⅱとⅲは同じ内容ですので、ⅱはやがて消えていくものでしょうが、ご親教「念仏者の生き方」は現ご門主時代は確実に残ります。何しろご自身の伝灯奉告法要初日に親しく教えて(親教)くださったものなのですから。

これらに通底して示されているのは真宗門徒の「生き方」であり、生きる上での「生活の目足」です。これを表記上のことに限れば否定は致しません。お慈悲に恵まれた念仏申す者の上に自ずから現れる生き方も、生活に醸し出されてくるものもあると思うからです。

真宗の倫理観については長く語られています。しかし決定的な論理立ては出来ていないと思うのです。それは他力の救いにおける「生き方」「生活倫理」を規定することが難しいという事でもあると思うのです。
『領解文』法度段の

定めおかせられる御掟、一期をかぎり守り申すべく候

この「御掟」の解釈が種々ありますが、これは時代時代、各人各人においての努力目標であるものですから長く「それらは各人それぞれのものであって、規定されるものでは無い」と玉虫色にされて来たのではないでしょうか?その点も他力の救いと同じように真宗の分かり難い面があるのだと考えています。

そこら辺りへの心配があっての「お示し」とは思えるのです。つまり真宗法義は「伝え」難いものであり、ましてや「伝わる」ことは甚だ難しいものなのです。それは「他力不思議」だからです。

検証⓭私たちのちかい

興味深い記事がありますので紹介いたします。これは富山県の善巧寺ご住職、雪山俊隆さんのWEBページに掲載されたもので、少し長いですが掲載のご承諾をくださいましたので転載します。

浄土真宗本願寺派では、2018年11月23日、本願寺の秋の法要でのご門主ご親教において「私たちのちかい」というタイトルの言葉が示され、以来、本願寺関連施設や宗門学校などで唱和されています。全国の各教区や各組、各寺院でも唱和が推奨されました。その言葉や唱和推奨というアクションに関して、一部の若手僧侶の間では疑問の声があがり、私もその想いを2年前にFacebookにて記しました。改めてここに再掲します。
【投稿日: 2021年10月1日 】

一、 仏の子は、すなおにみ教えをききます。
一、 仏の子は、かならず約束をまもります。
一、 仏の子は、いつも本当のことをいいます。
一、 仏の子は、にこにこ仕事をいたします。
一、 仏の子は、やさしい心を忘れません。

この言葉は、お寺の子供会「日曜学校」で推奨されている「ちかいのことば」で、善巧寺では年に数回の子供会で唱和していた。高学年になるとこれを読むのがとても嫌だった記憶がある。いつからか、「ひとつ、仏の子は、いつも本当のことを言いません!」と言い換えて友だちと顔を合わせて笑っていた。みんなで真面目に唱和することへの反抗心か、そう出来ない自分を突き付けられることへの反発だったのか。

先日、本願寺より新しい言葉「私たちのちかい」が発表された。冒頭に添えられた言葉には、「大智大悲からなる阿弥陀如来のお心をいただいた私たちが…」とあるので、阿弥陀如来のお心をいただいている人限定のお言葉と受け取れるが、文末には、「中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や浄土真宗のみ教えにあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会で唱和していただきたい」とあるので、ピンポイントに絞って作成した言葉を、多くの人に触れてもらいたいという願いがあるようだ。これをもって、浄土真宗とはこういう指針を持った教えですよということを伝えたいのかもしれない。ここにその言葉を紹介する。

「私たちのちかい」
一、自分の殻に閉じこもることなく、穏やかな顔と優しい言葉を大切ににます、微笑み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず、しなやかな心と振る舞いを心がけます、心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく、人と喜びや悲しみを分かち合います、慈悲に満ち満ちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき、日々に精一杯つとめます、人びとの救いに尽くす仏さまのように

中学生から大学生までに触れて欲しいというだけに、子供バージョンよりもかなり難易度があがっている印象だ。冒頭の「自分の殻に閉じこもることなく」という言葉で、自分の殻に閉じこもる私を突き付けられ、続けて、すぐに眉間にしわが入り、人をののしる私の姿があらわになる。一つ目の誓いからかなりハードルが高く、子供バージョンよりも、より具体的にそう出来ない自分を意図的に知らせている印象を受けた。子供の頃を思い出し、さっそく、言い換えの遊びをやってみた。

「本当のわたし」
一、 自分の殻に閉じこもり、眉間にしわを寄せて、人をののしり、そんなどうにもならない私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 むさぼり、いかり、おろかさに流され、しなやかな心と振る舞いを持てない私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 自分だけを大事にしてしまい、人と喜びや悲しみを分かち合えない私を、慈悲に満ちた仏さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 生かされているとは思えず、日々に苦しむ私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。

不思議なことに、反対に読んでみると阿弥陀如来の大きな慈悲の心が浮き彫りになり、浄土真宗の特長のひとつを端的にあらわしているように感じた。なるほど、これはもしかすると、こう読むべきものとして作成されたのかもしれないと思うほど。ただ、原文は、子供バーションとは比較出来ないほどに自分を突き付けられて「ダメな自分」という見方を与えてしまう可能性がある。元気な人向けの言葉で、苦しむ私を置き去りにされた気分になる。しかも、「大智大悲からなる阿弥陀如来のお心をいただいた私たち」が主語になるので、様々な人が集まる場で唱和するには無理があると言わざる得ない。

奇しくも、本願寺では「若者の生きづらさ」に焦点をあてた研修会を開いたり、「寄り添う」という言葉を多用して、困っている人たちへ手を差し伸べていくことを推奨している。今まさに闇の真っただ中にいて、自分の殻に閉じこもらざる得ない人たちへは、この言葉はとても厳しい。やもすると、上司から部下への強すぎる指導のように受け取ってしまうかもしれない。あるいは、数多くある「ちかいのことば」と同様に、風景が流れていくのように言葉も流れていくのだろうか。

学校にも、会社にも、市町村にも、世の中には形骸化された理想や指針があふれている。おそらく、多数がひとつの方向を向いていた時代には有効なものだったのかもしれないが、声をあげられず置き去りになった人たちへ少しでも目を向けようとしているのが「いま」だと思う。本願寺も同様に、把握出来ないほどの「ちかいのことば」があるが、多様化という言葉が定着して、苦しんでいる人たちへの眼差しが重要視されつつある現代で、これらの言葉は「生きた言葉」になり得るのだろうか。時代に合わせる意図があるのならば、今だからこそ、「道徳」の先にある「どうにもならない私」に向けた救いの言葉を届けてほしいと切に願う。

Zengyou.Net

検証⓮一貫した権威付け

先の雪山氏の投稿に『私たちのちかい』に

今まさに闇の真っただ中にいて、自分の殻に閉じこもらざるを得ない人たちへは、この言葉はとても厳しい。やもすると、上司から部下への強すぎる指導のように受け取ってしまうかもしれない。元気な人向けの言葉で、苦しむ私を置き去りにされた気分になる。

ということが記されていましたが、ご親教でこれが示された時、同じことを思いました。ちょうど本願寺派「子ども・若者ご縁づくり推進室」が総局部門に設置され2、3年経過し「生きづらさを抱え生きなくてはならない私が居るが、周りの子どもや若者たちにも同じような思いを抱えながら生きている人たちが居る」。そのような人々と共に救われていく道を聞いていきたい。そこに生きづらさを抱えたまま生きていくことの出来る道がある事を感じてもらいたいと、思春期支援という名のもと取り組みを始めた真っ最中の出来事でした。

また伝灯奉告法要にあたり、子どもには夏休み(本願寺DEYs)、若者には秋(スクールナーランダ特別編)と協賛行事を「子ども・若者ご縁づくり推進室」として計画しているから「ご縁づくりを推進するにあたり、ご門主に若者たちへのメッセージを出してもらいたい」と推進室発足当初からの部長を通じて要望を出していたのですが、総長からは「いまご門主がお考えになられている。その内にお出しになられるから」と返事をもらい、その日が来るのを期待して待っていた矢先の出来事であったことを思い出しています。

個を大事にする傾向のある現代で半強制的に「唱和」推奨。時代錯誤が過ぎているのではないか。ましてや生きづらさの只中にいる者にとって、内容といい、皆んなで声を揃えて唱和することといい、十方衆生を救いの目当てとするご本願の心に真逆な方向ではないか

と落胆もし、苦情もたくさん寄せられることになったのです。その頃からです、本願寺派総局の教化路線に疑問を持ち始めたのは。今にして思えば、あの時の総長の返事の裏には“いま私が書いて検討しているから待ちなさい“があったであろう事もあながち間違った想像ではないと思うのです。

その時も今と同じ手法「権威付け」が行われたのです。その時は釈撤宗氏がその任に当たらされ『「私たちのちかい」の味わい』という冊子を発刊しています。その中で釈氏は

「私たちのちかいは中学生にもわかる指針をというコンセプトの生活指針」とされ「お浄土に生まれる、往生させていただく生き方を、今、ここで実践するのです。(中略)自分の都合や欲を捨てることができない自分、人を傷つけて生かざるを得ない自分、ウソをつかずに生きていけない自分、そんな自覚に基づいて成り立っている仏道です。ですから、お念仏の教えに導かれ、世俗の中を生きる仏道なのです」と私たちのちかいが語ろうとしている心を、自分なりのペースで取り組んで、精一杯生きていきましょう。

と結ばれています。
これの執筆者候補に悉く拒まれ仕方なくと言ってはなんですが、書かれたのが釈氏でした。どうでしょうか、これでは「ちかい」讃仰にはなっていません。しかし「釈撤宗」という名前に権威付けを求めたのが総長の手法で一貫している所です。以後、梯實圓和上、大峯顯先生など名前を借りられてしまわれた方は多く続くことになるのです。

検証⓯石上智康氏の伝道姿勢

これは第321回「総長執務方針演説」に石上智康氏が抱く伝道姿勢のベースとも言える思考法がよく表れています。石上氏はそれを披瀝する時、必ず「権威ある」と思われる人の言葉の引用から始まっています。今回は先ずは「大手広告代理店の第一線で活躍されている寺族の方から、憂宗の思いからするご提言をいただきました。」とアドバイスがあったとの紹介から始まります。つまり一般僧侶の意見では無く「広告代理店の第一線」から見た視点を第一に取り上げるのです。

これを否定するものではありません。確かに一般社会からの視点は疎かに出来ないものがあります。それを視野に入れておかないと社会との乖離がますます大きくなってしまいますから。しかしこの方の提言が宗務の基本方針にそのまま反映されているとなると話は違ってきます。どうもご自分の教化方針に合っているものを我田引水・正当化するための紹介であるように思えます。その提言内容を記しておきます。

この30年で世界も日本も大きく変わった。デジタル化が進み、情報量が10年前に比べ530倍になったと言われる中で、新しいものが生まれると同時に、なくなったものも沢山あります。

という警告で始まっています。

現在、我々が直面している課題の一つとして「普段の生活で受動的に浄土真宗の情報に触れる機会は圧倒的に減少している。浄土真宗は多くの人にとって“未知“のものになりつつあると考えられます」。

と、ここまでは広告代理店に勤務しなくても私たちが課題としているものです。しかし、その方の次の提案が驚きなのです。

浄土真宗を生活者にとって“わかりやすい“ものにし、“浄土真宗を開く“ということが、いま最も大きな課題ではないか

どうですか?これを要約すると「生活者にとって分かりやすいものにした、“新たな浄土真宗を開く“ことが課題である」ということを石上氏に提言しているのです。

続けて「あるべき姿と課題を深く議論し、誰に、何を、どうやって伝えていくのかを検討すべきだ」との声を紹介し、次にこれを受けて石上氏の持論が展開されていきます。

具体的には、誰に聞いて欲しいのかを明確にする。目標を明確にすることによって話し方や作り方も変わるはずである。何を作っても届かないと意味がない。やって終わりが一番悪いのです。評価をいただき、何を改善すべきかを明確にしないと、次も同じことを繰り返すだけです。

と演説を続け、あの第一線で活躍される方の「門徒の方々にアンケートをとりましょう」「動画をちゃんと見て評価をしてもらいましょう。これも次につなげるアクションです」と提言の結びを紹介して、その文節は終わっています。どうでしょうか?この方のご提言が、いま全て宗派では実行されているのです。

検証⓰石上総長の心中

第321回「総長執務方針演説」に沿って石上智康氏の伝道姿勢のベースは何処にあるのか?と⓯を書いている最中に「宗報」4月号が届きました。おそらく皆さんのお寺にも届いていると思います。石上氏の宗務の方針演説は49頁から62頁にかけて掲載されていますので読んでみてください。特に例の大手広告代理店の方の提言のくだりと56頁からの領解文制定に至る経緯の箇所。印象操作はよくありませんのでご自身で読まれて判断してみてください。おそらく先に記したことの意味がわかって貰えると思います。

この方(広告代理店の社員)がほんとうに昨年末に提言されたのか?或いは本当に提言があったのか等については検証出来ませんから言及しません。が「石上氏の行おうとしていることの概要」はこの提言の内容で大方みて取れることができます。

先ず「大衆に伝わるよう、新しい浄土真宗を開くべし」は、ご親教「念仏者の生き方」と「私たちのちかい」と「浄土真宗のみ教え」の3部作を依り処とし、この度のご消息「新しい「領解文」」で一応の完成をしたとお考えになっていると思われます。ですから「制定経緯に疑義」を指摘しても「法義の逸脱」を沙汰しても反応がないのは当然のことと見受けます。

「そんなことわかってる、わかってやってるんだから。あんた達が今、執われいるような旧来の布教法では対応出来ない時代なんだよ!あんた達目を覚ましなさいよ!私には壮大なビジョンがあるのだから」と、ひっとすると心の中には思ってらっしゃるのではと。(おそらく間違いなく)

つまり立教開宗800年に合わせて「新たな浄土真宗が開かれた年」とするための数々の布石を打って来られたようです。ですから、先のご消息発布を今年の御正忌報恩講ご満座に合わせる必要があったとみます。

その後、各方面から議論が算出しても微動だにしない訳は「せっかく苦労して念願の「新しい浄土真宗」を開宗したのに、それを崩されたくない」「これからは、この教え方でしか浄土真宗の未来はない」「これで浄土真宗の未来は前途洋々である」の確信があるからだと思うのです。ここに「真宗の肝要を正しく、わかりやすく、ありがたく、伝わるような伝道」という石上氏の口癖の真意があるとみます。

私は個人的には思うのです、石上氏は、
「ご法座でお聴聞されたり、ご門徒の中に入り込み、心を割って話を聞かれたことがあるのだろうか?」
「ご自身、名号のおいわれを真に信知されてるのだろうか?」
「周りの人たちを心から信頼しておられるのだろうか?」
「あまりに頭脳明晰すぎて、お経さまの内容を荒唐無稽に感じられているのでは無いだろうか?」
「お浄土に往生するなんて、現代人はわかりっこない」
「浄土真宗(他力)の教えでは人間は育たない、心も行動にも変化はもたらさない、それでは現代に通用しない。ご門徒に生活規範をしっかりと身に付けさせるようにしなければと思い込んでいるのではないか?」
「愚者になりて往生す、が腹に落ちていないのではないのか?」
「日本の人口が大半を占める首都圏こそ大事だ、地方に住む人は、もう対象にしなくてもいいのだと思ってるのではないか?」
などなど考えてしまうのです。

これは私の勝手な想像ですから、機会があったら直接お聞きしたいことばかりです。この項は甚だ叙述的なものに走りすぎました。「仏意はかりがたし、然りといえども」の心境からです。

検証⓱庇を貸して母屋を取られる

石上智康総長は「本願寺派と本山本願寺の未来への安定化」と、それには「浄土真宗の伝え方の現代化」を図ることが最重要課題として宗務を司っていたと考えています。

現在の本願寺派(一般寺院含む)を取り巻く状況と、教えが人々の日々の生活に浸透しない危機感を、総長というお役目なればこそ人一倍感じられていることは十分理解できますし共感出来ます。一連の宗務方針にはその事が色濃く表れていると思うのです。

だけど、「目的には共感できるが、その手段には疑問がある」。その手段が「門主制」を悪用したと多くの方が思ってるというのが今の混乱状態であると思うのです。何しろ「ご門主がおっしゃってるのだから」という物を言わせない形に持っていってしまっていますから。
(ここで門主制については論議しません。それは別立てで)

で、総長の「浄土真宗の伝え方の現代化」、つまり「伝道論」に混乱を生んだ根本原因があると論を進めた方が理路は明確になると考えます。

「庇を貸して母屋を取られる」
という諺がありますが、私たちが常に注意しておかなければならないのは、ご縁のない、或いは薄い方々に浄土真宗の教えに会ってもらう為には、入門的なものが必要と考えます。確かに取っ付きやすい事から触れてもらうというのは有効な方法と思います。つまりは「ご縁をつくる」という活動です。
いま多くの寺院や団体で各種イベントや寺ヨガなど企画され特に若い僧侶方の活躍が見られることは嬉しいものです。

私のお寺でも寺イベントの走りみたいな事を30年前から約10年間続けた事があります。沢山の方の参加を得て賑やかなことでしたし楽しかったものです。ですがイベントの本当の狙いを多くの来場者に楽しんでもらうことには置いておりませんでした。

スタッフとして参画する若手のご門徒とのご縁を深め、やがて法座でお聴聞してもらいたい。というところに目的を置いていました。これは中々難しいものです。しかし僅かながらもお参りくださるようになり、現在のお寺の役員さんの半数以上はその時のスタッフ経験者である事を見ても無駄ではなかったと考えています。

教化活動は手間暇かかります。即効性のあるものは多分無いでしょう。しかし、もしその活動をする時、「この教えでは難しいから伝わらない。少し道徳的なことや人間修養が出来ることを示した方が理解してもらい易い」と考えて、教えとは相反する事を伝えたなら、それを聞いた方は「浄土真宗とはこういう教えなんだ」とプリンティングされてしまい、真実の「他力のお救い」は届き難くなってしまうのは自明のことです。

今、石上智康総長が考えておられる事を分かりやすく言えば、そう言う事なのです。つまり「庇を貸して」→教えを変えて「母屋を取られる」→真実の教えが誤解される。恐れがあるということだと考えます。

つづく

松月 博宣
浄土真宗本願寺派僧侶
龍谷大学文学部仏教学科卒業。本願寺派布教使。
福岡県海徳寺前住職。
https://www.kaitokuji.info/

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