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冊子は誰が書いたのか(宮崎教区学習会②)

領解出言(りょうげしゅつごん)

Q 昨年の6月、うちの坊守が得度習礼を受けた。行くにあたって領解文の問題が取りざたされていたので、僧侶養成部に「新しい領解文」の出言はあるのかと尋ねたら、「出言はありません。唱和です」という回答だった。ところが習礼に行ってみると「領解出言」と指導されたそうだ。それが今も続いている。教師教修も同じ。どうも内局の執行長の先導でされているのではないかとちらほら聞いている。領解文というのは、自分の信心の受け取りを口に出して領解する事。私は、「新しい領解文」は宗意安心に則していないと思っている。それを出言という形でこれから僧侶となる方々に強制するのはいかがなものかと思う。総局は内局と話し合いをしてただちに「新しい領解文」の出言を止めていただきたい。本願寺はそういう教団ではないと信じている。

A 得度式の件については、今までも様々な教区においてご質問とご懸念とそれから本願寺に対するご要望を伺っている。得度式における「領解出言」については内局で決めている事。今のご意見も本願寺の方にお伝えさせていただきたいと思っている。(中井部長)

Q 今年1月の御正忌報恩講について。満井和上は領解文は出言、「新しい領解文」は唱和という事で仰っていたが、「新しい領解文」が宗意安心に則しているのであれば、「出言」と言うべきではなかったのか。それを「唱和」とされた。どういう意図なのか。

A 改悔批判の進め方は、基本的には私の意見を申し述べて、それを内局と式務と勧学寮とで検討していただき、あの形になったもの。出言を従来の領解文にさせていただいたのは、改悔批判という改悔は悔いるべきものを改めるという事なので、我々にとって悔いるべきものは自力心という事になる。したがって従来の領解文が「自力の心をふりすてて」というこの一行が改悔文にふさわしいと考えて、最初に出言を従来の領解文とした。従来の領解文を安心、報謝、師徳、法度という内容で古来、そう説明してきたのが改悔批判の伝統。この従来の領解文を改悔として扱ってきた。この安心、報謝、師徳、法度というあり方について、従来の領解文を受けた後、新しいご発布いただいたご消息の内容も、安心、報謝、師徳、それで法度にあたるべきところが先ほどご説明が副所長から申したように、決意表明という形で示されたという私の理解から、最後は発布いただいたご消息のお言葉で、みなで唱和をするという形をご提案した次第。(満井勧学寮員)

機の深信がない

Q 私は浄土真宗のご法義を学び49年になる。父から二種深信だと聞いてきた。徳永前寮頭も浄土真宗の要は二種深信だと仰った。お恥ずかしやのこの身が弥陀の光明に照らされて、気づいてなかったお恥ずかしやに気づかされる(機の深信)。しかしながら、そのお恥ずかしやのこの身も阿弥陀さまは決してお見捨てにならず、救うぞ救うぞと照らし続けて下さっている。こんなに有難いみ教えはないと思う。私はこれが浄土真宗の要になると思っている。ところで、煩悩と仏のさとりが本来一つならば、お恥ずかしやと気づくことはないと思う。寺本先生のお話では、約仏の立場から言えば煩悩とさとりは一つだという。煩悩とさとりが一つなら二種深信という尊いみ教えは成立しないのではないか。本来一つであれば、弥陀の光明がこの私を照らして下さるわけはない。

A 慈悲心の起こりというのは、仏智見が真実の智慧をもって凡夫虚妄の実相をご覧になるところから慈悲に展開するという、『論註』の善巧摂化章の言葉を使いながらご説明させていただいた。つまり如来の慈悲心の起こりというのは、われわれ凡夫虚妄の実相に他ならないというわけなので、その慈悲心の起こりを我々が聞かせていただき領得させていただく中において、機の深信も必然的に気づかされるという事ではないかと思う。(満井勧学寮員)

冊子の問題点

Q そもそも、「私の煩悩と仏のさとりが本来一つ」、というこの言葉自体、仏教徒が口にする言葉ではないと思う。仏陀に帰依している仏教徒。こんな事を言う人は仏教徒ではない。梶山先生が「煩悩とさとりはともに空である」と仰っている。そこのところを取り上げておられるが「私の煩悩と仏のさとりが本来一つ」という事とは何の関係もない。むしろ否定的である。日本語としてまずわかる事を言うと、空というのは無自性だという事と考えたならば、二つのものをどちらも無自性空である。この無自性空であるものを、比較する事はできない。だから不二と仰る。不二という事は二つではないという事だが、そもそも無自性空であるならば、比較という事自体が成立しない。無自性同士を比較するという事自体が成立しない。だから不二であるという事は不一であるという事と実は同義。同じ事である。そこのところが、まず理解されていないと思う。この事は先生の本を読めばちゃんと書いてある。先生の話では、ともに空であるから本質的に不二と仰っているが、これはそのままともに空であるから本質的に不一という事と同じ。同じか違うかという事の比較はできない。だから梶山先生の本を引用される事は教え子として有難いと思うが、間違って引用されるならばそうは思わない。
説明になるが、『さとりと回向』の中で、無自性空という事、これに関連して回向という話が当然でてくる。この回向についてちゃんと書いてあるのは、常に善業、つまり善行功徳のこと、善業を解脱や寿命に変える。寿命というのはお釈迦さまがなさったように、寿命をのばすという話。悪業が何か別物に変わるという事はない。この悪業というのはいわゆる煩悩悪業の話。それが何か別の結果を生むという事はない。と書いてある。だから、悪業煩悩がさとりという結果を生む事はない。本来一つであるというのも別の文脈で言われていること。これをどうも満井和上は勘違いしているように思う。いま質問された方は、煩悩とさとりと言われたが、「新しい領解文」ではそこに「私の煩悩」「仏のさとり」と書いてある。「私の」という限りは、比較されるものは私じゃないものである。

 仏の世界の事を我々凡夫が言葉で表現するのは傲慢、という内容があったと思う。(満井勧学寮員)

 そうではなくて、「私の煩悩と阿弥陀さまのさとりが本来一つだ」などという事は、仏教徒が言う言葉ではないということ。

 一言一句にわたっての言葉遣いについて私は申し上げにくい。生死即涅槃という言葉であるならば、親鸞聖人は証知というあたりで語っておられる。それはあくまで、さとりを開いた、往相回向の到達点としての弥陀と同証のありようを示して下さっているという事において、語っておられると思う。ただし生死即涅槃という内容が、「私の煩悩と仏のさとりが本来一つ」という表現で全部言い尽くされているかどうかというのは、検討が必要かもしれない。(満井勧学寮員)

Q 証知生死即涅槃というのは、煩悩即菩提と関係するかもしれないが、生死に流転しているものこれが涅槃に安住する。この転迷開悟について述べている文。決して、私と私でないものについて言っているものではない。煩悩即菩提についてはもっと明らかである。それは満井さんが桂先生にお聞きになったはず。煩悩即菩提という言葉は『摂大乗論』と『大乗荘厳経論』この二か所にしか出て来ないと。満井さんはちゃんと文献をあたったのか。文献をあたればどちらも転迷開悟の話としか出て来ないはず。そのことを桂先生は満井さんに示唆しておられると思う。ですから、ここから先の説明はひどすぎる。
もう一点。「梶山氏のように空思想に基づいて煩悩即菩提と解釈することは」などと書いてあるが、桂先生はやんわりと釘を刺しておられる。『摂大乗論』にしても『大乗荘厳経論』にしても、唯識の代表的な書物。つまり中観には出て来ない。『さとりと廻向』のどこに書いてあるのか。

A たしかに桂先生が仰った言葉は、ある意味、釘をさしていると思う。つまり唯識に出てくるという事において、であってこれを引用していいのかどうかというサジェスチョンはあったと思う。そのあたりは検討不十分という事をご指摘いただいていると思う。これは宿題にさせていただく。(満井勧学寮員)

Q 「梶山氏のように空思想に基づいて煩悩即菩提と解釈することは」と書いてあるが、文脈的には桂先生が言った事になっている。本当に桂先生が言ったのか。

 私が居合わせたわけではなく、研究所研究員が桂先生との面談の中でご教示を受けた事、という風に承っている。(満井勧学寮員)

Q この冊子は、満井さんが研究所所長の時に作った冊子。研究員が承ったにしても、満井さんに責任がある。そして桂先生はこんな事を言うはずはない。桂先生と梶山先生は同門で、もっと言えば恩師にあたる人。その人が、梶山先生がろくでもない事を言うような事を、桂先生が言うはずはない。私は自分の先生をこんな風にあつかわれて許せない。これは嘘ですよね。

 今後の宿題と申し上げたのは、桂先生にご照会してご批判を賜ろうということ。(満井勧学寮員)

Q これを書いたのはあなたではないのか。

A 責任者は当然私。私が書いたのは序論。(満井勧学寮員)

Q 確認がとれていないものを全ヶ寺に送っている。どう責任をとるのか。

A それは考えなければいけない。(満井勧学寮員)

Q 何を考えているのか。なぜこんないい加減な事を行っているのか。

A 責任の所在と責任の取り方。(満井勧学寮員)

 先ほどから聞いていると、なぜこんないい加減なものを作っているのか、どこにも反省がない。私は善知識はどこにいったのかと感じる。ご門主だけが善知識になっているが、善知識というのは、色んな先人の姿があったと思う。どこに消えたのか。ご門主を個人崇拝する宗教ではない。

 歴代の宗主のご教化を受けた先人方という風に説明してきた。限られた字数になるので。(満井勧学寮員)

Q 満井先生の資料について。これは勧学寮の認証を受けたものなのか。

A勧学寮ではない。寮頭には相談した。(満井勧学寮員)

ではこれは個人的なレジュメということか。

研究所としての意見表明。寮頭には相談したということ。(満井勧学寮員)

Q 勧学寮はこれをご聖人さま一流の教えとして世に出して良いというお墨付きを与えたという事か。

A 組織上の事ですから、寮頭には了と承ったが、寮員会議を経たかどうかはわからない。(満井勧学寮員)

Q 浅田寮頭個人としては、そういう捉え方なのか。

A 私にはそういう言葉をいただいた。(満井勧学寮員)

Q その証拠はあるのか。

A 一対一の場面だから、危ないかもしれないが。そういう事なので、ご不信であれば寮頭にどなたかがお聞きいただくしかないと思う。(満井勧学寮員)


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