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勧学・司教有志の会 声明(七の一)

浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会から「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」に対する声明の第7弾が発表されました。

ー総合研究所冊子の問題点ー

衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

『教行信証』「信文類」(『註釈版』二五一頁)

 このたび池田行信前総局名で、『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』という総合研究所の冊子(以下、冊子と呼ぶ)が、本願寺派全寺院へと送付された。その序論によれば、この冊子は、総局主催で行われた「新しい領解文」についての各教区の学習会において多くの僧侶・門信徒から投げかけられた疑問や困惑の声を承け、総合研究所所長(当時)満井秀城氏が自身の説明論理として作成したものであるという。しかし、冊子の内容を目にした各地の僧侶・門信徒からさらなる困惑の声が上がっている。本声明ではその問題点を指摘しつつ、あらためて浄土真宗の肝要を確認しておきたい。
 まず、浄土真宗における「領解」ということを考えるにあたり、最も大切なことは、冒頭に掲げた「信文類」の文に明示されているように、信心とは「仏願の生起本末」を聞いて疑いのない心であり、領解とはその信心のありようにほかならないということである。その「仏願の生起本末」とは、自らの力では迷いの世界を出離できない凡夫のすがたを法蔵菩薩がご覧になって、凡夫をさとりに至らせるために五劫のあいだ思惟して不可思議の本願を起こし(生起)、兆載永劫の行をもって「南無阿弥陀仏」という仏と成られたこと(本末)をいう。
 この「仏願の生起本末」が、「新しい領解文」のなかに明確に表現されていないことについては、すでに各地の学習会において指摘されてきたが、このたびの冊子では、「仏願の生起本末を聞く」という浄土真宗の肝要が、あたかも「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」という言葉で置き換えうるかのような論が展開されている。しかしながら、阿弥陀仏の本願は、けっして「私の煩悩と仏のさとりが本来一つゆえ」に起こされたのではない。煩悩具足の私のあり方を悲しみ憐れまれたからこそ起こされたのである。この「仏願の生起本末」をはなれて、浄土真宗の法義も、領解もないのであるから、今また冊子を受けとった多くの僧侶・門信徒はさらに混乱し、困惑しているのである。
 この冊子を開いてまず第一に驚かされるのは、本論「はじめに」のなかで述べられたこの冊子の制作意図である。すなわち凡夫を「そのまま救う」という阿弥陀仏の救済が成立しうる「思想的根拠について究明する」ことをもって「本稿の目的」とすると述べ、蓮如上人の『御文章』信心獲得章(『註釈版』一一九二頁)を挙げ、次のように述べている。

ここ(信心獲得章)には、阿弥陀如来の発願廻向の心、願力不思議をもって悪業煩悩を「消滅するいはれあるがゆゑに」「煩悩を断ぜずして涅槃をうといへる」と述べられているだけである。なぜ、願力不思議をもって「煩悩を断ぜすして涅槃をう」といえるのか、その理由の説明がなければ、知的理解を是とする教育になれ親しんでいる現代人には不親切であろう。肝腎なところがよくわからないのではないか。

冊子四頁

 ここに述べられている冊子の制作意図は、私たちの理解を超えた本願の不思議をそのまま「願力不思議」と仰信するという浄土真宗の根本的立場を否定するものというほかはない。蓮如上人が、煩悩具足のまま救われることを「願力不思議」と示されたのは、説明できるものを説明されなかったのではない。宗祖親鸞聖人が、阿弥陀仏の本願の救いを「仏智の不思議」と位置づけ、

仏智不思議と信ぜさせたまひ候ひなば、別にわづらはしく、とかくの御はからひあるべからず候ふ。

『御消息』、『註釈版』七八二頁

(仏の智慧は不可思議であると信じたなら、特にわずらわしくあれこれと思いはからってはなりません)

と誡めておられる通りである。
 そもそも仏の教えには、私たちの頭で理解できるもの(思議の法)もあれば、私たちの理解を超えたもの(不思議の法)も説かれているが、親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願の救いこそが、私たちの理解を超えた真の「不思議」であると仰ったのである。これはもともと浄土教に一貫する姿勢であり、たとえば『阿弥陀経』の六方段にも「不可思議の功徳」と繰り返されている。親鸞聖人が「不思議」と仰がれた本願の救いについて、それだけでは「不親切」「肝腎なところがよくわからない」として「思想的根拠を究明」するなど、それこそが親鸞聖人が誡められた「わずらわしきはからい」にほかならない。この冊子の制作意図は、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ者の姿勢として信じがたい。凡夫でありながら、仏智の不思議を説明できるかのように言明するなど、そもそも仏教徒として恥ずべき傲慢ぶりというほかはない。仏智の不思議を説明できるような智慧が私たち凡夫にあるのならば、弥陀の本願が起こされる必要はなかった。虚仮不実の凡夫のためにこそ、如来は本願を成就して「そのまま救う」と喚んでくださっているのである。本願の名号が今現に成就しているという、その一事こそが浄土真宗の「肝腎」なのであり、そのほかに救済の根拠などないのである。
 以上のように、この冊子はその制作意図からして浄土真宗の根幹から逸脱している。したがって、序論と本論に示されている文章も、全体にわたって、宗義として、そして仏教としても問題があり、私たちが「後生の一大事」として大切に承け継いできた浄土真宗の肝要を毀損するものでしかない。そこで、このたびの声明(七)では、以下の三点より、冊子の問題を指摘しつつ、浄土真宗というご法義の肝要を、あらためて確認しておきたい。   

(続く)

問題一 序論①において、あえて宗学で用いる「約仏」「約生」という専門用語を使って解説しているが、明らかに言葉の誤用であり、読者をさらに混乱させている点
問題二 序論②において、「本来一つゆえ」から続く一節について解説しているが、その内容は日本語の文章理解として無理があり、かつ宗義としても成り立たない点
問題三 本論において、多くの先学の文章を掲げているが、いずれも前後の文脈を無視したきわめて恣意的な引用となっており、読者に誤解を与えている点

二〇二四年 四月 二十一日
浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会

代表 深川 宣暢(勧学)
森田 眞円(勧学)
普賢 保之(勧学)
宇野 惠教(勧学)
内藤 昭文(司教)
安藤 光慈(司教)
楠  淳證(司教)
佐々木義英(司教)
東光 爾英(司教)
殿内  恒(司教)
武田  晋(司教)
藤丸  要(司教)
能仁 正顕(司教)
松尾 宣昭(司教)
福井 智行(司教)
井上 善幸(司教)
藤田 祥道(司教)
武田 一真(司教)
井上 見淳(司教)
他数名

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