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「新しい領解文」制定経緯についての一つの論考

現代版「領解文」を制定しようと発議されたのは2005年不二川総長時代に大遠忌法要に向けて「宗門長期振興計画」が起案された事に始まります。その時点で「現代版領解文」の制定が推進事項の一つに揚げられたのですが、「領解文とは何か?」という本質的な議論が交わされた形跡が見当たりません。現代においては「領解文は言葉も内容」難しいものだから、新しいものが必要てはないか?という程の認識で事は進められていたものだから、いざ作成しようとしても「領解文とは何か?」が明確でないままに議論され完成にこぎつけることが出来なかったと見るのが妥当のように思えます。

もう一度言います「領解文とは何か?」という本質的な共通理解のないまま制定しようとしたところに、この度の混乱が生じた初原点があるのだと考えます。おそらく「現代版領解文制定方法検討委員会」でもその事は一部の勧学から指摘されたふしがあります。議論の中でも「領解文」というものへの理解が「推進する側」と「一部制定検討委員」との間に大きな乖離があったと思えます。だからこそ委員の中から「内容への議論が無いままでは、制定方法を検討する事は無理がある。内容さえ議論できないこの委員会は無意味で解散すべきだ」との意見も出たやに漏れ聞きます。

これは「宗門長期振興計画」を起案した方だけではなく、私どもも「領解文」というものの本質を見極める事なく形骸化した「出言」をしていた事も、それを後押しした形になっているのではないでしょうか?この度の混乱は制定した側(総局)に主因があるのは当然ですが、私たち自身の「領解」を再検証する営みを続けることが、この度の混乱が意味ある事になっていくように思っています。

「改悔批判」と「領解文」の関係について

ご本山御正忌報恩講中に「改悔批判」がなされています。これは一体どういうものなのか、「改悔批判」を数回「与奪」された経験のある和上のお言葉をそのままここに記しておきます。

伝説上の領解文作製経緯は、御正忌報恩講の法要が終了し、参拝者が退堂したが、一人残る者がおり、蓮如上人がその者に「どうして帰らないのか」と声をかけた。その者は「私はご安心をいただいているつもりでいるが、私のご安心が正しいかわからない、これを決判していただけないなら、ここを去ることはできない」と申した。蓮如上人は「それなら、そのご安心を私に話してみなさい」と言われ、その者が自分のご安心を話し、蓮如上人はそれは正しいご安心と決判された。その話を聞いた他のお同行は翌年以降の御正忌報恩講に際し、決判を願い出る者が現れ、蓮如上人は当初一人一人決判されたが、年数を経るにつれ、人数が多くなり、一人一人決判は不可能となり、領解の共通文章を定め出言する形式を採り「領解文」が誕生した。

ご門主が改悔批判のときに、「心口各異に非ずば、めでたし」、「心と口とが各々異なっていなければ、すなはち、あなたが思っていることそのまま口に出しているならば、あなたはうるわしき念仏者」であると決判(批判)される。そのご信心の批判を受けるための文章が「領解文」である。さらに一般の人が、各自で祖師聖人に向かって「私の信心はこうです」というものが「領解出言」として今に伝わる。この「安心の決判」はご門主の権限である。もしご門主が改悔批判できない時は、「改悔批判の与奪を命ず」という辞令をいただき、ご門主になりかわって批判させてきただく。

何故「改悔批判を与奪する」という辞令なのかと先輩の和上に訊ねると「御正忌報恩講の期間中のみ、ご門主の地位が与えられ、終わると奪われる」ためと教わった。よって、現代版の領解文は改悔批判で使用することが第一義でなければならず、改悔批判に適する適さないで、「領解文」という言葉を判断すべきではないかと考える。(つまり改悔批判に耐えられないものは領解文とは言えない)

これはある委員会で発言されたものと聞いています。

松月 博宣
浄土真宗本願寺派僧侶
龍谷大学文学部仏教学科卒業。本願寺派布教使。
福岡県海徳寺前住職。
https://www.kaitokuji.info/

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