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御正忌報恩講と改悔批判

領解文を知る上で欠かせない改悔批判(がいけひはん)に関して、昨年末の本願寺新報に浅田恵真勧学(現在の勧学寮頭)の解説が掲載されていましたので、ここに紹介します。

本願寺新報2022年12月20日

宗祖・親鸞聖人のご命日の法要である御正忌報恩講が、来年1月9日から16日まで本山・御影堂で営まれる。期間中の夕刻、初夜のおつとめで行われるのが、第8代蓮如上人の頃から続く「改悔批判(がいけひはん)」。その心を勧学の浅田恵真和上に執筆していただいた。

権限の「与奪」

浅田恵真勧学

 平成21(2009)年の御正忌報恩講において、ご門主より「改悔批判を与奪(よだつ)する」という辞令をいただきました。
 辞令としては不思議な内容です。「与えて奪う」というのです。「与えて奪う」というのです。先輩の勧学和上にお聞きしますと、御正忌報恩講の期間だけ、ご門主の権限(の一部)を与えられるのだといいます。そして、報恩講が終わればその権限を奪われる(お返しする)から「与奪」というのだそうです。要するにご門主のお手替わりの大役が「改悔批判」という行事です。
 ところが御正忌報恩講にお参りされるお同行の中には、この改悔批判の意味内容をご存じない方が多くおられるようです。直前の逮夜法要は満堂の参拝者で埋め尽くされますが、初夜(勤行)に行われる改悔批判の座は数えるほどの参拝者です。誠に寂しい限りですので、この場を借りて改悔批判の重要性を訴えたいと思います。報恩講において、法要とともに重要な場が改悔批判といっても過言ではありません。

安心の判定

 これは報恩講七昼夜の間、毎日初夜の勤行に続いて行われます(中日の13日のみは代わって『御伝記(御伝鈔)』の拝読があります)。
 大谷光明師(第23代勝如上人のご尊父)の書かれた『龍谷閑話』には、「古来口伝ともいうべき一つの伝統があり」として大判人(与奪者)に与えられる心得の条が記されています。この各条は今日もそのまま踏襲されています。その第一に、

報恩講参集の道俗に自督安心を御影前において出言(しゅつごん)せしむるは、その正否を批判するが為なり。故に改悔批判と称す。法主の特権なり。

龍谷閑話

とあります。ご門主の特権として改悔批判を行うのです。その内容はお参りされた皆さんのご安心が、正しいか誤っているかを判定するものです。真宗門徒にとっての肝心要の安心の判定を行う場がこの席なのです。これはご門主でなければ判定することができませんので、与奪を受けた勧学が行うのが昨今の習わしとなっています。
 この改悔批判の源流をたどれば蓮如上人の時代にまでさかのぼります。それを示す「御文章」があります。

所詮今月報恩講七昼夜のうちにおいて、各々に改悔の心をおこして、わが身のあやまれるところの心中を心底にのこさずして、当寺の御影前において、回心懺悔して、諸人の耳にこれをきかしむるやうに毎日毎夜にかたるべし。

註釈版聖典170ページ

 「改悔」という言葉はあまり耳にしませんが、蓮如上人は「回心」と呼んだり、「懺悔」といったりしておられます。「わが身の誤れる心中」を回心したり、懺悔するのです。「誤れる心中」とはあ自力の心であったり、異安心であったり、他力安心に反する心をいいます。それに気づかせていただくのが七日間の御正忌報恩講中なのです。ですから御文章の他の箇所には、

この七箇日報恩講中においては、一人ものこらず信心未定のともがらは、心中をはばからず改悔懺悔の心をおこして、真実信心を獲得すべきものなり。

註釈版聖典178ページ

とあって、ご信心をいただくことが最重要課題と力説され、早く本願の正意に帰入すべしと教えておられます。

はやく御影前にひざまづいて回心懺悔のこころをおこして、本願の正意に帰入して、一念発起の真実信心をまうくべきものなり。

註釈版聖典172ページ

このように正しいご信心をいただくことこそが、御正忌報恩講の真髄といってよいでしょう。ですから、法要とともに重要だといっても過言ではありませんと述べた次第です。

領解文の唱和

 ところで光明師の『龍谷閑話』に「自督安心を御影前において出言せしむるは」とありました。この語からすれば報恩講に参詣されたお同行が、自らいただいたご安心を親鸞聖人の御真影に叶露(出言)するところからこの改悔批判が始まることになります。
 伝えられるところによりますと、蓮如上人の当時、お同行のお心を一人一人聞いてそれを上人が判定されたといいます。しかし人数が増えてくれば、それもままなりません。そして各人がそれぞれ一斉に御真影に向かって自分の領解をバラバラに語り出したのです。そうすれば堂内はやかましいだけで誰が何を言っているのか全くわからなくなったといいます。そこで各人の領解の内容を統一して同じ言葉を唱和しようということで、のちに「領解文」が制定されたのです。
 伝承ではこの領解文を蓮如上人が策定されたとするのですが、禿氏祐祥先生の「領解文成立考」(『蓮如上人研究』所収)ではその説を否定されています。ですから今日行われている改悔批判として儀礼化されたのは、少し時代が下るかもしれません。
 それはさておき、改悔批判の折に与奪者が「領解出言」とお同行に呼びかける場面があります。すると一斉に参列者が低頭して「領解文」を唱和します。それを承けて与奪者が「心口各異でないならば麗しきお念仏者です」と判定するのです。これが改悔批判なのです。この領解文を東本願寺の真宗大谷派では「改悔文」と呼びな慣わす意味がわかるかと思います。
 問題はこの「心口各異」という言葉です。いま出言した「領解文の内容」と「出言者の心」とが「各々異なっていないならば」、すなわち「一致しているならば」という意味ですので、少しでも異なる心を懐いているならば、あなたをお念仏者とは呼べませんと判定される次第です。
 心口各異からもわかるように、まずは領解文の意味内容をしっかりと知っていただく必要があります。改悔批判の後半は、この内容の意味を安心(あんじん)・報謝(ほうしゃ)・師徳(しとく)・法度(はっと)の4項目に分けて懇切丁寧に解説してくださいます。これこそが現代版領解文とも呼べる解説です。ご門主のお言葉としてしっかりと聞いていただきたいと思います。
 他力の「ご安心をいただく」とはよく聞く言葉ですが、それを実際にご門主に判断していただく儀式が改悔批判です。ぜひ、来春には皆さんそろって御正忌報恩講の改悔批判の座に列席し、ご安心の判定を受けてください。


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