鹿児島教区学習会、質疑応答
2023年10月3日に開催された鹿児島教区の学習会より、質疑応答の一部を要約して記します。質問と回答に絞っているため、さまざまなご意見は割愛していますことをご了承ください。
責任の所在と今後の対応は
Q 護るべきご法義は何か。聖人一流か、新しい領解文か。
Q 発布のすべての責任は総局にあると認識しているのか。
Q 得度習礼にて新しい領解文が唱和されている事に困惑がある。
Q 新しい領解文の唱和推進の基本方針への抵抗がある事について。
推進者はご自坊で唱和されているのか
Q ご自坊で新しい領解文の推進唱和をされているのか。
原案の作者はどなたか
Q このご消息はご門主の書いたものか?石上前総長の著書の文と酷似している。
Q 勧学寮の合意の議事録を示されない根拠は?
執行長を通すべきでは
Q 内事部の長は執行長なので執行長を通すものではないか?
Q ご消息の発布に関しては、本願寺の執行長を通すのが普通の考え方ではないか。
説明がなければ読めない
Q ご門主は大事。ご門主に傷がつかないような組織を取っていただきたい。明治憲法、天皇は神聖にして犯すべからず。その天皇を利用して色々な問題が起こった。領解文を拝読して不思議に思ったのは、煩悩にまみれた私と仏のさとりがなんで本来一つなんだ疑問に思った。「本来」が引っかかる。梯實圓先生の「正信偈」を読んでいたら、阿弥陀様の功徳に救われてこの世を生きる私たちが南無阿弥陀仏と仏さまの言葉をいただきそのお徳を聞いて喜んでいるというのは、お浄土の菩薩たちが仏さまの説法を聞いて喜んでいるのと同じこと。場所は穢土と浄土の違いはあるが、お浄土の素晴らしい菩薩さまと、毎日煩悩を起こしながら生きている私たちとは月とすっぽんほどの違いがある。違いはあるけれど本質は一つというわけだ。なぜこんな事を親鸞聖人は仰ったのかというと、曇鸞大師が『論註』の中で、お浄土の阿弥陀さまの眷属は誰だということを仰ったところがある。その中で、阿弥陀さまの眷属は浄土の菩薩だけでは決してないと仰った。では誰かといえば、「遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟」。浄土の眷属は無量数知れず、そういう事をなんで問題にするのか。一切の衆生は阿弥陀如来の胎児、子どもであるという思想。だから、この領解文は早く言えば説明が足りない。「本来」に何か理由があるのだろうか、間違いじゃないとしても説明が足りない。
現代版領解文制定の背景
Q 三好総務のフェイスブックの中に「領解文は権威によって成立したものではなく、御同行によって完成されていったと受け止めたらいいのではないでしょうか。そこまでは言わないにしても浄土真宗の救いの喜びにはそのような精神が込められていると感じています。今回のご消息は勧学寮の・・・この背景には・・・進めたい人の政治的な誘導があったと思っています。」・・・そして最後の方では、「つまり消息の発布は勧学寮の同意です。制定方法は認めた、でも領解文とするべきではないという立場だった勧学寮がなぜこの内容で同意したのか。ひょっとして制定検討委員会での決議が、そのまま内容についても同意したのだと強引に持って行ったのかも。もしそうならば誰だと。・・・調査したいと思います。」という文章があったがどういう事か。
やらされているのか
Q 自分の意志で来ているの?やらされているのか?
鹿児島の隠れ念仏者は
Q 師徳のところ。善知識の部分がご門主となっている。鹿児島は隠れ念仏の歴史がある地。命を懸けてつないでくれた方がいた。これは次世代にも伝えていく。新しい領解文ではご門主だけに見えてしまう。文章に書いていなかったらわからない。なんで消されたのか。仏青の方に尋ねてみた。「こわい」という感想を聞いた。「我が身を崇めよ」と新興宗教のようだと。とてもご縁のなかった方へ伝える文章ではない。真逆に感じる。「執われの心をはなれます」の部分も問題がある。苦しんだり悲しんだり、生きづらさを抱える子ども青年もいる。前向きになれない人もいる。身を切られると感じる方もいる。
Q お聖教の出拠は。私の上でどう確認できるのでしょうか。それが領解になるのか。
Q 学習会でたくさん反対がある。総局はそれをPDCAサイクルでいかすのか。
意見
・新しい領解文となっている。私は重みを持って受け止めている。これは新しい領解文だから全く新しいものとして受け止めている。とはいえ精神は受け継ぐとされている。冒頭にも南無阿弥陀仏と書いてある。教義上のすべてが内包されている。新しい領解文を否定する事は阿弥陀様を否定するのではないだろうかとも思う。
・とてもわかりやすいと思わない。
・私はこれを領解文として一切認めない。
・公開討論会を開催していただきたい。
・この学習会が喜びに満ちたものであるのか。
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