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どうして生じた?領解文問題 vol.7

松月博宣ノート

検証❻宗務の基本方針

前項で転載した基本方針策定の理念のもと第321回定期宗会で議決されたのが今年度の「宗務の基本方針」です。以下それも記載しておきます。

新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)に学び、行動する
「伝わる伝道」の実践
●真実信心をいただくとともに、広く阿弥陀如来の智慧と慈悲の心が正しく、わかりやすく、ありがたく、伝わるよう行動する。
●お念仏を相続し、自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に努める。
●宗門内外の課題に対応し、伝道活動をささえる持続可能な組織化を推し進める。
特に注力するものは以下の7項目とする。
1、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)の学びと実践
2、親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要の円成と点検
3、「伝わる伝道」の研究と実践
4、社会の課題への対応
5、寺院活動の支援と人の育成
6、持続可能な宗務組織の構築
7、本山・築地本願寺との宗務連携

と、なっています。ざっと読んだら本願寺派として当然の事項が並んでいるように思えます。が、これの具体策こそが総局の目指す所なのです。その具体策は宗会ではなく常務委員会で議決されているのです。

その具体策をいちいち揚げればキリが無いので、今回の「新しい「領解文」関連」の箇所だけここに転載しておきます。
基本方針の(1)の具体策では

①全教区・沖縄特区で学習会を開催する。また解説本の普及、及び現場で活用できるよう作成された解説資料等を宗派公式WEBサイトに掲載し、学びの提供を行う。

②次回の宗勢基本調査(2026年を予定)において、寺院行事での唱和100%をめざし、さらなる周知に努める。
新たな普及策についても継続して検討・実施する。

基本方針(2)の具体策では

②新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についてのご消息を受け、慶讃法要において、僧侶、寺族、門信徒等とともに、新しい「領解文」を拝読、唱和する。また教区・組・直轄寺院・直属寺院における法要行事や一般寺院における法要に際しての拝読、唱和を通して、普及に努める。

③「宗祖のご誕生」や「立教開宗の意義」とともに、新しい「領解文」、ご親教『念仏者の生き方』について、「伝わる伝道」に視点を置いた記念布教・白洲布教等を実施する。

ざっと読まれて総局(総長)が何をもって宗務運営をしようとしているのかお分かりになられると思います。

ご親教ご消息を盾に取り(ご門主が言われているからと)、それをもって拝読、唱和する事をもって、「阿弥陀さまのお救い」(ここでは敢えて)を伝えていこうとしているのです。果たしてご親教ご消息の中に「阿弥陀さまのお救い」がお示しになられているのか?疑問なのですが、それはここでは言及せず教化基本方針自体に焦点を当てていきます。

検証❼宗教的人格権

昨年度と今年度の「宗務の基本方針」の概要を見てきました。それはどちらもご門主の「ご親教」と「ご消息」が策定の基本理念として掲げられていました。この事は今に始まったことではなく前ご門主が法統継承された時「教書」を出されました。これは当時、ご親教なのか、ご消息なのか判断がつけ難いと話題になったものです。結果、ご消息に準ずる扱いとされたと朧げながら記憶しています。

どちらにせよ光真前ご門主がご就任にあたって、門主として宗務を統理することの方向と、その決意を述べられたものであることに変わりはありません。この教書が宗門の「基幹運動」の基本理念とすることが始まりました。
ですからその当時から「『教書』のお心を体し」という文言があちらこちらで見ることになった記憶があります。今も同じで、ご親教「念仏者の生き方」が拠り所となり「実践運動」が、そのご親教の内容と親和性があるからでしょう展開されている事はご承知の通りです。

この度も具体策に「新しい領解文」関連とともに「社会貢献」することをもって、自他ともに心豊かな人生が生きていけるよう貢献する。子どもの貧困に向けて・子どもたちを育むために推進しようと展開されています。(と言ってもこれが全宗門的ムーブメントとなっているかといえば、協力寺院・団体は2割にも満たない現況ではあります)

宗門が行う社会貢献を否定するものではありませんが、「子どもたちを育むために」なら、一人でも多くの子どもたちに阿弥陀さまの救いを伝える事こそが宗教団体としての真の社会貢献であろうし、子どもを育むことになるだろうに。とは強く思っています。これは別項を立ててじっくりと考えてみたいと思っています。

さて新しい「領解文」関連に戻ります。
拝読、唱和が全ての寺院でなされることを目指し、また慶讃法要の記念布教や白洲布教でも新しい「領解文」に沿った法話が求められています。また布教使にも新しい「領解文」の学びを深め、拝読、唱和を勧めるよう努めるという重点目標が、「宗務の基本方針」にあるからという根拠だけで行われようとしています。

「宗教的人格権」という言葉を知ったのは靖国合祀訴訟が起こった時の原告側陳述書であったか、うろ覚えですが記憶にあります。真宗念仏者である妻が戦争で犠牲になった夫を靖国神社に合祀されることに対して、「私の心の内を乱さないで下さい、国は心の中まで踏み込まないで!」と訴えた時にこの言葉があったとの記憶です。

いま我が宗門でも同じようなことが起こっていると考えるのは間違っているでしょうか?

検証❽領解文とは

この項で新しい「領解文」の教義的なことは論じません。
ただ「石上智康氏が上梓された数々のご著書内に同じ文言が多く使われ、その趣旨内容と同じ方向性を持ったものである」からか分かりませんが、私が学びお聴聞してきた浄土真宗とは異質なものとは感じています。

しかし石上智康氏の数々のご発言やご著書には初期仏教への傾倒が想起されることは申しておきます。それは氏の早稲田大学で学ばれた後、東京大学大学院で印度哲学を学ばれた経歴がそうさせているのかもしれません。それにしても凄い経歴です。

少し「ご消息」の文言にあたりながら、先ずは「唱和推進」という事について考えてみたいと思います。「ご消息」の終わりの文節は

この新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)を僧俗を問わず多くの方々に、さまざまな機会で拝読、唱和いただき、み教えの肝要が広く、また次の世代に確実に伝わることを切に願っております。

ここの部分をもって総長は「唱和推進する事は、ご門主が言われていること」としているのです。そもそも「領解」は唱和するものなのか?という事から。「新しい領解文」と“領解文”という表記がなければここまで問題にはならなかったと思うのですが、「領解文」とされていますから、それで論を進める事になります。

先にも書いたように「領解文」は、如来より賜り申した安心(ご信心)を善知識に聞いてもらい、間違いを正してもらうためのものを、各人まちまちに口にしていたため混乱がおこったたので、同じ文言で言えるようにしたものが『領解文』であったと言われています。

つまり『領解文』とは「私はこのようにお聞かせに預かっていますが、これに間違いありませんか?」と御真影さまの前で表出するものなのです。これを「改悔」といいます。その表出したご信心の可否を、親鸞聖人の役割をそれぞれの時代に担っておられるご門主が「批判」されるのです。これを「改悔批判」というのです。

それはいつ為されるかといいますと「御正忌報恩講」中に御影堂内のご開山聖人の前でするもなのです。その時ご門主から改悔批判の「お役」を勧学さまに「与奪」される事になっています。与奪とは「与えて、奪う」つまり改悔批判している勧学さまは「その時に限ってご門主の地位を与えらている」のです。そして終わると奪われるのです。

ですから基本的に『領解文』と『改悔批判』は切り離すことの出来ないものなのです。だから新しい「領解文」が問題になっているのです。

検証❾唱和について

ここでは先ず「唱和」と言うことと「出言」と言う事について少し考えてみようと思います。同じように捉える向きが多いのですが大きな違いがあることを指摘しておきたいと思います。

先ずは「唱和」について。
「唱和」とは皆が声を揃えて同じ文言を口にすることを言うのです。企業などでは社是や先代の定めた家訓などを社員集まって朝礼などで声高らかに唱和することがあります。そこには「企業理念を口にさせることで社員の心に、それの刷り込みを図り企業の営業業績向上を狙う意図」があるようです。営業成績達成のために各人には「思考停止」をさせる手法と思われます。いろんなスローガンを「唱和」することは営利企業としてなさっていることをいちいち否定はしません。

しかし全社員が嬉々諾々としてそれを受け入れているか?とは別問題でしょう。多様性の時代、そして「個を優先する」時代を生きている若い社員には甚だ評判はよろしくはないようです。(うちはブラック企業かいって)ましてや強制となると一人ひとりの内面まで干渉しかねない恐れがあるものだと思います。

現代でこれが受け入れられるか?ということが一つの問題点だと思います。
「唱和」は「昭和」世代の発想という意見もあります。新しい「領解文」を唱和させる事は上部組織によって思想を統一することにつながる恐れがあります。それが真宗義に合った物ならまだしもです。石上智康氏のご著書にも「口に出して読む」重要性が記されていることを見れば、この「唱和推進」は総長の教化方針の一丁目一番地なのでしょう。

321回定期宗会での「総長執務方針演説」を読んでみますと

勧学寮の同意がなければ、このご消息の発布はないのであります。勧学寮においてご消息の解説が作成され、ご消息の全文とともに、「本願寺新報」2月1日号に掲載いたしました。今後は、ご消息のお心を深く受けとめ、僧俗を問わず多くの方々にさまざまな機会に、新しい「領解文」領解文(浄土真宗のみ教え)を共々に拝読、唱和させていただくことを原則とし、その周知と普及に努めてまいりたいと存じます。

と、高らかに演説しておられます。
これを読みながら、あれほど鋭敏な感覚と頭脳をお持ちの総長が「唱和」する事の「古さ」と「危険性」について全く検証することをなされておらず、加えてその視点が皆無であることを誠に残念に思うのです。当然「唱和モノ3点セット」全てについてでもです。

検証➓唱和と出言

「唱和」ということの意味を書いてきましたが、付け加えるならば、「自分の内心と違うことを口にしなければならない」ことを他者から促されることは実に精神的苦痛を味わさせられる事だということです。

この度の慶讃法要でもその苦痛に耐えきれず席を離れる人、お称名で過ごす人、中には慣れ親しんできた『領解文』を口にする人など、おおよそ今まで見たことのない光景が繰り広げられています。その行為を誰も非難は出来ないと考えます。それは一人ひとりの内面の心の始末の付け方なのですから。

大切なご法要でこのような悲しい状況があるのは、これひとえに「唱和推進」にその原因があると言えると思います。私もお参りいたしましたが、先入観というか蟠(わだかま)りがあったことは否定しませんが、いつものご法要にお参りする高揚感?ウキウキ感は湧いてこないままでで、ただご開山に申し訳ないという思いしか出ませんでした。

もう一つ、京都国立博物館で開催されている「親鸞ー生涯と名宝展」を鑑賞いたしました。実によく資料整理されていて、国博の学芸員さんや監修された学者方のご尽力を思ったのですが、それ以上に「ここまでご開山はご苦労され浄土真宗を私に教えてくださったのに、なぜ簡単に塗り替えるような真似ができるんだ!」とのお思いが、今回の目玉であるご本典3部揃い踏みを拝見しながら思いました。

少し感情に走りすぎましたが、ことほど左様に「唱和」は他者から強いられて致すものゆえ反発も多く湧くということです。

次に「出言」ということについて。
私のお預かりしている寺ではご法話をお聴聞した後「ご一同に領解出言」と住職が発声します。するとご門徒方は口々に「もろもろの雑行雑修を〜」と出言されます。これは何を意味しているか?と考えると、おそらくご自覚はないでしょうが「わたしはこのようにお聞かせに預かりました」と、ご自分のお領解を表出されているのだと思います。一人ひとりが口々に表出しているのですが、「たまたま揃った」ように聞こえる、というものなのです。それが「出言の形」なのです。つまりは他者から強制されたものではなく一人ひとりの自発的な行為なのです。ここに「唱和」とは決定的に違う意味があるのです。

つづく

松月 博宣
浄土真宗本願寺派僧侶
龍谷大学文学部仏教学科卒業。本願寺派布教使。
福岡県海徳寺前住職。
https://www.kaitokuji.info/

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