見出し画像

長野教区学習会、質疑応答

2024年2月15日に開催された長野教区の学習会より、質疑応答の要約を記します。質問と回答に絞っているため、さまざまなご意見は割愛していますことをご了承ください。


ご門主の真意なのか

Q 解説文や学習会があるという事は、ご門主の示された領解文が、わかりにくくご法義の肝要が正しく伝わらないと総局が認識しているのではないか。その上で、満井所長はご門主から「新しい領解文」にこめられた真意を聞かれたのか。そうでないとすると、この領解文の文章からご門主の仰らんことを推測して解説をされているのか。今日の解説がご門主の意志とはたして合致しているのか疑問。そこのおさえがなければ学習会は無意味。誤解を招かないようにするのであればご門主ご本人の口から真意をお聞かせいただくしかない。

A  ご門主に直接真意を伺う機会は私の側にはない。勧学寮が解説文をお書き下さっている、そこにご門主とのやりとりがあったかはわかない。われわれ総局側としてできる事は、勧学寮が解説をして下さった内容を、わかりにくいから企画されたのでは決してないと思う。ご消息として発布された内容を、いかに普及すべきかという事においてなされた学習会である。ご門主のお心が正しく受け止めとめられているかどうか、というのは私に保証はないので、この学習会は無意味と仰るならそうかもしれない。しかし、私はそうは思わない。ご門主に一番近く相談相手であるべき勧学寮が、その意図を推察してご説明くださり、それを勧学寮の説明文だけではわかりにくいかもしれないので、総局の説明会としてパワーポイントを作成してできるだけ平易な形を目標とした。結論的に言うと、私はご門主さまからそのお心を逐一お聞きした事はない。ただし、ご正忌報恩講のご法話のように、おそらくはご門主さまご自身も「執われの心を離れます」という表現を、ご自身なりにご説明しようとお考えになったかもしれないと私は思っている。(満井所長)

誤解を受ける可能性が高い文章

Q 「新しい領解文」は、誤解をうける可能性がある部分がたくさんあると、多くの和上さま方、総局や宗会議員の方々も承知、共有されているはずだが、その誤解を受けるかもしれないという文章を普及推進していくという事に疑念がある。長野別院では、唱和にあたって解説が読まれるという事はないし、掲示物にもない。一般社会では、誤解を受ける可能性があるものは、すぐにひっこめる。どんなに美味しい物でも、食中毒を起こす可能性があれば回収される。どんなに面白くても、子どもが怪我をする可能性があるおもちゃは販売停止になる。だが、今回はできないと聞いている。手続き上の瑕疵がないと聞いているが、ではなぜこのような騒動になっているのか。法規や体制、ご門主の権限など、そういう所まで何か問題があるのではないかと、広がっていく事は仕方ない。本当にこのご文を普及していっていいのか。

A 危険性があるものをそのままに提示して拡散するという事は、ご心配いたのとおり確かにそうだと思うし、そうあってはならない。できるだけ誤解のない形をご理解いただきたいという説明の元に来させていただいた。ただし説明がなければ正しく伝わらないという実状であるとすれば、どのようなあり方が可能なのか、という事は全教区説明会を終えたのちに、総局判断としてご検討下さるのだと思う。(満井所長)

A  誤解を与えるかもしれないものを野放ししておく事の危険性を仰って下さった。満井所長の仰る通り、この領解文そのものが誤解を受けるものなのかどうかという所に立って、学習会を開いているのではなくて。この領解文そのものを受け止めていただきいという思いで学習会を開かせていただいているので、そもそもスタート地点で誤解を受けるものとは認識していない。ご心配のとおり、各教区で様々な異論や混乱がある事を知らされた。すべての教区での学習会を終えてから、また何か提示する。(三好総務)

Q やはり今日の学習会で満井所長は何回も「そういうわけではありません」と仰った。そこの部分はやはり問題と感じる。『教行信証』は何回も書き直され、領解文も色んなご文から作られたと聞いた。親鸞聖人のお心を大切にするならば、たくさんの中から選んで作っていくようになれば、お心を大事にしている姿にもなっていくように感じる。

A  お聞き取りさせていただいた。(満井所長)

なぜ徳永前寮頭は辞任されたのか

Q 文言については親鸞聖人の聖典の方から引っ張ってくればどんな説明でもできると思う。それよりも引っかかるのは、勧学の先生方が認めて進めていると聞いているが、ではなぜ徳永寮頭は辞職され、勧学・司教有志の会のトップに深川勧学が出て反対されているのか。そのあたりに何かもやもやがあって、納得できない。

A  同じ勧学でありながら分裂したような様相を呈している事は私も残念。どこがそういう形になっていったのかという事も、これから勧学会や司教会や寮員会議があると思うので、少しづつすり合わせをできたらと思う。私も明確に事情を知らないので、推測で話す事は控えさせていただく。(満井所長)

内容と唱和に違和感

Q 少し納得できた気もするが、やはり言葉に問題がある。「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ そのまま救う」の部分。現代の悩み相談の回答に「あなたそのままで良いですよ」というものがある。これで解決になっているのか。

A「そのまま」の表現について。開き直って何もしないという危険性は、今までも真宗教団として引きずってきた。「他力だから何もしなくていいんだ」みたいな、そういう誤解は真宗教義の中心的な所から、正確に理解されていない部分があると思う。ただし如来さまの仏意はやはり「そのまま」としか申しようがない。「あれしてきなさい、これしてきなさい」という教えであれば、条件付きになるし、わかりやすいけどついていけない人が必ず出てくる。仏意からすれば「そのまま」と表現するべきではないかと思う。(満井所長)

Q 以前の領解文も押し付けを感じた。得度で毎朝唱えさせられた。何の意味かもわからないのに。

A  押しつけがましい。「新しい領解文」の扱いについては、今後検討すると思う。飛躍するかもしれないが、お釈迦さまのご説法の在り方は、まずお弟子さんに短い偈文を覚えさせた。繰り返し繰り返し思いを深めていったという事実があるように伝えられている。この度の領解文的なものとしては、自分自身で自らの口で語り、自らの耳を通して再確認し、そしてあるいはみんなで唱和したとすれば、聞いた人が「浄土真宗の教えはこういうものなのか」という事が自ずと伝わっていくような伝道にする側面もある。なので単なる押し付けではないと思う。そう感じるのであれば行政として反省すべきかもしれない。(満井所長)

Q 本当に必要なのかどうかから議論してほしかった。

A  領解は必要なのかという質問。自ら口にして聞いてまわりに伝わっていく事を企画したものだと考える。(満井所長)

Q  約仏という視点。ご法話を聞いていてもあまり出て来ない。凡夫の視点の方から阿弥願陀さまの願いを説いているご法話の方が圧倒的に多いと感じる。

A  約仏は聞きなれない言葉として違和感を持たれたかもしれない。従来の領解文は徹頭徹尾、約生。われわれ衆生側のありようを自己内生し、自力心への決別という表現が端的に語られている、その意味の大きさを私も否定しない。あえて約仏という言葉を用いたのは、領解文は大谷派さんは改悔文と言っている。改悔文というのであれば改悔の姿勢が当然必要、不可欠。自らの信仰表明としての領解であれば、仏徳讃嘆というのもありではないだろうか。この度皆さまご唱和下さったように、合掌して如来さまの方に向かって仏徳讃嘆として他力回向の根源、私にお届け下さったご和讃でいえば「如来の作願をたづぬれば苦悩の有情をすてずして」苦悩に沈む私たちをご覧になったからこそのご本願とあって、それを「回向を首としたまひて」その回向を首となさったありようを生死即涅槃という約仏の説明によって味わう事が、ある意味踏み込んで下さったような気が私はしている。(満井所長)

Q 唱和文など読み物を連発しすぎ。「浄土真宗の生活信条」でたくさん。信心をいただいていないのに唱和させられるものもある。意味もわからないのに、読んでいるうちに意味が分かってくると説明されるものもある。

A  ご消息やご親教がどれぐらいの間隔で出ているかは部長から説明してもらう。「新しい領解文」で言うと、当初は現代版領解文を制定するんだと2005年の長期計画で宗派としてうたわれた。結論として、ご門主からご消息、「新しい領解文」という形で発布されたので、足掛け18年をかけて現代版領解文には取り組んできた。ご門主は、「時代の推移とともに、『領解文』の理解における平易さという面が、徐々に希薄になってきたことも否めません。したがって、これから先、この『領解文』の精神を受け継ぎつつ、念仏者として領解すべきことを正しく、わかりやすい言葉で表現し、またこれを拝読、唱和することでご法義の肝要が正確に伝わるような、いわゆる現代版の『領解文』というべきものが必要になってきます。」と仰る事を共通理解としたい。(三好総務)

A ご門主がこのようなお考えを示されるのは、ご消息とご親教の二つがある。生活信条は前々門さまがご消息をもって示されている。前々門さまは同様に教章というものを出されて、宗範という所があって加持祈祷を行わずだったと思うが、それが前門さまにおいて、教章(私の歩む道)とご親教で出された。この度のご門主さまにおかれましては、このように何か覚えなければならないものについては、流れから言うと、前々門さまの生活信条以来になろうかと思う。これはどのようなタイミングで出されるかという事は、推し量る事しかできない。この度の「新しい領解文」のご消息については、ご消息をもって制定いただきたいとお願いをして出たものである。(中井部長)

内容を知ったのはいつなのか

Q 「浄土真宗のみ教え」が出た時点で、これが「新しい領解文」につながるという事は、議論があったのか。また、「新しい領解文」に「浄土真宗のみ教え」がほぼ使われるというのはどの時点で決まったのか。採用する事について、短期間で決めてよかったのかと疑念もある。

A  時系列でいうと、2023年の1月16日のご満座に発布された。さかのぼる事2ヶ月ちょっと前、2022年11月8日頃、現代版領解文制定方法検討委員会から一つの提案がなされた。「他者に浄土真宗の肝要安心が伝わるものを制定するのであれば、法灯を伝承されたご門主に制定いただくよりほかない」というもの。このような流れの中でこの発布までいたっているので、少なくともそれだけの時間はあったということ。(三好総務)

A   最初にご親教が出たのが令和3年の4月にご親教として「浄土真宗のみ教え」がお示しになられた。このご親教についても当時の宗会において内容に質問があったが、総局としての説明は「内容に関知することはない」というもの。2022年の11月、そしてその後、総局から答申を受けて、ご門主さまに現代版領解文のご消息のご制定をお願いした結果として、この度、師徳の段を加えられてお示しいただいたと承っている。(中井部長)

Q それでは2022年に11月に、周りの方は初めて「新しい領解文」の中に「浄土真宗のみ教え」のご文が入ってくるのを承知したという状況でよろしいか。

A  11月8日に現代版領解文制定方法の検討委員会から答申が出た。これはご門主にご消息をもって制定いただくという事の答申。「浄土真宗のみ教え」に師徳の段を加えて「新しい領解文」になるという事は、この時点では認識はない。最終的にご門主が示された文章をもって初めて知る事になる。(中井部長)

納得できない学習会

Q 学習会資料の最後に結論とある。これを読んでも、わかりやすい領解文というものが、実にわかりにくいものとなっていると感じる。疑問を持って、どうなっていくのかと関心を持つ方もいる。私は結論を出すことはできない。今後の学習会も有意義なものとなっていくように変えていただきたい。

A  この資料は研究所作成のものなので、変更は可能。ただ内容は、勧学寮の解説の領域をこえた修正はできかねるという事はご理解いただきたい。(満井所長)

歴代宗主のお導きを検証

Q「法灯を伝承された歴代宗主の尊いお導きによるものです」という部分。歴代宗主の尊いお導きはきちんと検証されたのか。色んなご門主がおられた事を考えると、適切なのか。ご門主を美化する危険性もあるのではないか。

A  私もそういう事を思わない事はない所はある。ただし先ほど講義の中で、満井所長からあった通り、これは一つの800年の歴史の総体として歴代宗主という事は仰って下さっているのだという受け止め。そこに立つと確かに、歴代宗主お一人お一人を見ていくと、それぞれ色んなお方がいらっしゃる。時には戦争を進めた方もいらっしゃったし、差別をそのまま蓋をするような形をとってこられた方もおられた。それは歴史がきちんと証明しているので一個一個にはふれないが。ただこれは歴史の総体としてみれば、ご門主を崇め奉るという意味ではないという風に受け止める事ができると思う。そうなると、受け止めたがゆえに我々の教団が教団としてなしてきた負の歴史もそこから見ていく事ができるのではないかと。逆にそこに蓋をする事によって同時に歴史に蓋をする事になりかねないので、私はこの度の学習会に参加させていただいて、所長から歴史の総体として表現して下さっているんだと聞いた時に、そういう風に受け止めていきたいなと思っている。ご懸念はよくお察し申し上げる。(三好総務)

Q 懸念がある。800年法灯を伝承されたというのは、本当は尊いお導きというよりは、「よく頑張ったね」とご門徒含めてみんなで讃え合うという事があると思う。そうであればご門徒が本山でご門主を見る時に、「この人は本当に尊い人だ」と思われてしまうような言葉は慎んだ方がいいのではないかという懸念がある。

A  800年の歴史の総体の中には、ご教化を賜った先人方の尊い歴史があるという所は、仰った所を含めている。ただその心をこれで十分に伝わるのかという事は持ち帰らせていただきたい。(満井所長) 

徳永前寮頭は意見を言えなかったのか。

Q 時系列について。ご門主の書かれたものなので直前までその中身はわからなかったという話があったが。阿弥陀堂の修復の際のご消息の中身と、ご親教が出されて、寮頭の立場でこのご親教、「浄土真宗のみ教え」をいただくという冊子が出ているが、ここに寄稿されている。という事は、「新しい領解文」の文を見た時に、寮頭はそれに対して意見が言えないと思う。そういう事は考えられるか。

A  ご親教が出た時に異論がないのであれば、その次の11月に出た阿弥陀堂本堂内陣修復においても、その肝要を「浄土真宗のみ教え」として述べられた。このご消息においてもその年の4月に出されたご親教を認めておられる。という事であれば、今仰った事には私は共感する。(中井部長)

Q 師徳の所。御同朋という我々の立場の理解をどのように説明したらよいのか。

A  師徳と御同朋の関係について。800年の歴史の総体から言えば、それはまったく同格だと考える。御同朋も御という敬語。今の私がお念仏の教えに出あうことが出来たのは、尊い先人方のおかげ全部含めてという意味であるので、私はそこに優劣などは感じていない。(満井所長)

視覚障害の方は愚身を「み」と読めない

Q 愚身を「み」と呼ぶ事について。視覚障害の方に配慮はあるのか。「み」と訳すか「ぐしん」と訳すか。機の深信に関わる問題だと思う。

A  点字にしようという考えはなくはない。ご指摘いただいて有難く思う。(満井所長)

Q「ありがとう」といただいた先人方がおられるのかどうか。ご恩報謝の謝を訳しているのかと受け止めるが、多くの方は「かたじけない」という慚愧の心として受け止めて来られたのではないか。

A  慚愧は確かにそう。慚愧と感謝は不二一体のもの。「ありがとう」の感謝の裏には必ず慚愧がある。「ありがとう」はおそらく謝徳を語っていると私は考えている。(満井所長)

Q「本来一つ」について。すべての仏さまの仏智見ではないか。阿弥陀如来の救いにすぐにつながっていかない「ゆえ」の言葉が引っかかる。

A  生死即涅槃はあらゆる諸仏方にある程度共通する。ただし凡夫をそのまま救われていくあり方を仕上げて下さったのは阿弥陀さまであるから、その阿弥陀さまが出てくるような論理がほしいという、なるほどと思うが。こういう韻文的な表現は説明調になるとくどい、わからないと言われると思う。私が思うのは生死即涅槃は『論註』でいうと一番最後の「利行満足章」に出てくる言葉で、「利行満足章」の無碍を解釈するところで出てくる。つまりここの無碍は、一番冒頭の讃嘆門「尽十方無碍光如来」の阿弥陀様さまのお徳の無碍を「生死即涅槃」として説明されているのが、曇鸞大師の一貫した論理だという事において、「本来一つ」の出拠を「煩悩菩提体無二」で語る人もおられるが、私があえて「生死即涅槃」という事で説明しようとしているのは、一つは証知というおさえがある事。そして正信偈でずっと親しまれているという事。「生死即涅槃」は曇鸞大師のお言葉にもとずいて、しかも出拠も「利行満足章」にある。という事をもって、私は「生死即涅槃」でさせていただいている。いずれにしても説明の足らざるところはいくらも出てくるのであって、その限界性は承っている。(満井所長)

意見

・急いでは事を仕損じる。

・これをご縁に様々な事を学べた事は教団として素晴らしい。同じ勧学寮の中で意見がわかれたのは、よく練られたものか疑問。後の方向として、ぜひ柔軟に一つの事に固執せずに、色々な意見を取り入れて、もっともっと練ってご門主から発布していただく。そういう方向をこれからしていっていただきたい。

・「新しい領解文」を唱える事に問題意識を持った方が、得度を受ける事を止めたという事があったと聞いた。「仏さまの前で嘘をつきたくない」という気持ちだったようだ。得度式の内容を変更できるのであれば、ご検討いただきたい。

・ご門主の公務が激務であると理解している。権限が多く、公務も多い。ご負担を減らすという思いから、制度の見直しもあると思う。

・全国に混乱を起こしている現状を、ご門主はどう感じておられるのか。出すだけ出して、一言も語ってくれない。私たちの宗門はこんな宗門なのかと感じる。

・ご門主を神格化していく戦前のような心配もある。世界は民主化に向かっている。自分に正直でありたい。民主的に宗務を進めていただきたい。


いただいた浄財は、「新しい領解文を考える会」の運営費に活用させていただきます。