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どうして生じた?領解文問題 vol.1

松月博宣ノート

①宗門法規

この度のご消息発布に疑義があるという意見が多数あります。それはどこがどうして疑義を生んだのか?ということを整理しておく必要があります。それにはまず、私たちの浄土真宗本願寺派は何によって運営されているのか?から知っておく必要があると思うのです。

それは「宗門法規」に全ての根拠を置いて運営されています。これに沿わないものは認められない形になっています。根本は「宗制」です。これは国で言えば「憲法」のようなものです。そこには本尊・聖教・教義・歴史・宗範などが定められていて、これは宗派の運営に法義と逸脱することを阻止するためのものと言っていいでしょう。それと「宗法」は宗制に則り組織を構成する全ての分野の決まり事のことです。そこには本山・門主・寺院・僧侶寺族門徒及び信徒・事業・宗務(総局・宗会・勧学寮・監正局など)・財務・宗門投票・賞罰など各部門の職務内容が詳しく規定されているものです。

②宗制・教義

次に私たちの浄土真宗本願寺派が全ての拠り所とする「宗制」で「教義」はどのように定められているのかを確認しておきたいと思います。この宗制制定にあたっては当時教学研究所所長であられた梯實円和上が相当練り上げられたものと聞き及んでいます。

第3章 教義
浄土真宗の教義の大綱は『顕浄土真実教行証文類』に顕示された本願力による往相・還相の二種の回向と、その往相の因果である教・行・信・証の四法である。
教とは『仏説無量寿経』、行とは南無阿弥陀仏、信とは無疑の信心、証とは滅度である。真実の教である『仏説無量寿経』に説き示された南無阿弥陀仏の名号を疑いなく聞く信心によって、現生には正定聚に住し、当来には阿弥陀如来のさとりそのものの世界である浄土に往生して滅度の仏果を証する。
信心は、阿弥陀如来の大智大悲の徳を具えた名号をいただくことであるから、往生の正因となる。信心決定の上は、報恩感謝の思いから、仏徳を讃嘆する称名念仏を相続する。これを信心正因、称名報恩というのである。
教・行・信・証の四法は、衆生が浄土に往生する相であるから、これを往相という。浄土に往生して仏果を得れば、おのずから大悲を起こし、生死の世界に還り来って自在に衆生を済度するのであり、これを還相という。往相も還相も、ともに本願力回向の利益である。これが自力心を否定した他力の救いであり、すべての衆生が、無上涅槃を証ることのできる誓願一仏乗の大道である。

③勧学寮の役割

さて、「宗制」に明示されている「教義」は私たちがこれまで学んできた浄土真宗の教えそのものです。これを基軸として全ての宗務はなされています。これはご門主とて例外ではありません。ご門主を宗法ではどのように規定されてるかを見てみましょう。宗法第3章第4条に

門主は、法灯を伝承して、この宗門を統一し、宗務を統理する

とされています。つまり親鸞聖人からの教え(法義)を伝承するものであり、法義によって宗門を一つにまとめ治める存在であると言うことです。私はご門徒さんには「ご門主はそれぞれの時代に親鸞聖人の役割を担ってくださる方」と伝えることがあります。「だからお敬い申し上げるのだ」と。なぜそれが言えるかと申せばご門主には(宗意安心の裁断)という門主権があるからです。同じく第3章第8条に

門主は、宗意安心の成否を裁断する

と規定され、それをする時は   

門主は、前項に規定する裁断を行う場合には、勧学寮に諮問する

とされています。ここで今回話題に出る「勧学寮」の役割が示されています。これを読むと「ご門主の宗意安心を守る役が勧学寮にある」ことが理解できますね。いわば勧学寮はご門主のご信心を守る立場にあるということです。ひいて言うならば「ご門主を守るということは、浄土真宗のご信心を守ること」と同じ事になるのです。

今回の混乱の第一の原因に「勧学寮の判断ミス」があると考えられます。どのような判断ミスかと言いますと、ご門主より「新しい「領解文」についての消息」の内容について諮問を受けた勧学寮は、先ずは驚いたはずです。なぜなら制定方法策定委員会の答申には「領解文」という言葉は混乱を招くから使用しないように、としていたにも関わらず「新しい領解文」とあったからです。そして、その内容はそれまでに「ご親教」にて示された「浄土真宗のみ教え」に師徳段4行を付け加えただけのものであったからです。内容的には勧学としてはとても承服出来るものではない、しかしこれを「不同意」としたなら、今までご門主がご親教で語られたことを否定する事になる。

「勧学寮はご法義を守る役割があるが一方でご門主を守る役割もある」と判断したところに大きなミスがあり今回の混乱を生み出した根源があると見ています。わかりやすく言えば
「今までのご親教を否定する形になってはご門主に恥をかかせることになる」
だから、とても宗義には合わなものではあるが、ご門主を守るためには、新しい「領解文」を無理くりでもいいから会通させる事ができるか?もし出来るならそれを「解説文」として出してご門徒方に読んでもらう事で誤解のないように出来るなら「同意しても」いいのではないか?と判断された所に大きなミスであると指摘しておきます。「ご門主を守るのは法義を守るという一点しかない」ということを忘れてしまったかのような判断が先ずは問われて然るべきでしょう。

④勧学寮の重大な判断ミス

勧学寮の重大な判断ミスについて、それは「ご法義を守るためにご門主を守る」ではなく「ご門主に恥をかかせない事がご門主を守ること」と考え違いしたところにあると指摘しました。

それは遡ること今から2年前の2021年4月15日立教開宗記念法要(春の法要)時になされたご門主法話(ご親教)「浄土真宗のみ教え」に起因します。その中で「次の世代の方々にご法義がわかりやすく伝わるよう、ここにその肝要を「浄土真宗のみ教え」として味わいたいと思います」とされ示されたのが、あの「浄土真宗のみ教え」でした。ここで、「これを共に唱和し、共につとめ、み教えが広く伝わるようお念仏申す人生を歩まさせていただきましょう」とご法話されております。これが(浄土真宗のみ教え)語られたのち直ちに総局はこれを唱和するよう各関係部門に指示を出し、内容が腑に落ちないままに現場では「唱和させられる」状況が起こりました。

これが出された当時、学識者からも私たち布教使からも内容が腑に落ちない。特に「私の煩悩と仏の悟りは、本来ひとつゆえ」の部分についてが問題視されていました。私も布教使の末尾にいる者としても「これはご開山が一番警戒されていた本覚法門そのものではないか?確かに悟りの側(仏)から見れば煩悩生活している者も悟りの世界を本来的に生きている、と見て下さってはいるが、私の側から言うことではない。これでは煩悩生活をしその中で苦悩そのものを生きている私を悟りに至らそうと五劫思惟くださり兆載永劫のご修行の果て南無阿弥陀仏となってくださった法蔵菩薩のご苦労を無視することになりはしないか?いわゆる「機の深信」が欠けてしまった表現ではないか?」という思いが、布教先で「浄土真宗のみ教え」の間違いを指摘するような法話をしていました。内心は「ご門主の語られたことを真っ向批判することに、ご門徒さんはどのように感じておられるか?おそらく不信感と違和感、嫌悪感を感じてらっしゃるのではないか?」と思いつつも、そう法話せずにはおれませんでした。おそらく他の布教使方も同じ思いでおられたことと思います。

しかし私自身「たかを括ってた」面があったことは反省しています。それは「ご親教」だったからです。ご親教とはご門主がなさる法話を指すもので、ある意味そんなに重きを置いていなかったのです。なぜならご親教は勧学寮の同意無しで行われるものとの思いがありましたので、「これはやがて消えてしまうもの」と考えていたからです。しかし総局は違ったようです。この勧学寮という法義の番人の目を盗むかの如く「浄土真宗のみ教え」の権威付けに躍起になっていました。その代表的なものが2021年10月1日発行の冊子です。そこには「ご親教『浄土真宗のみ教え』をいただく」のテーマのもと勧学寮寮頭・龍大学長・勧学・総合研究所所長と副所長(勧学)の5人に一文を寄稿させて頒布したのです。これは権威付けの行為に他なりませんでした。

⑤権威付け

先に権威付けのために「浄土真宗のみ教え」をいただく、と題した小冊子を頒布したと記しました。その内容について。当時勧学寮寮頭であった徳永一道和上は恐らく内容に承服出来なかったのでありましょう「その骨子は、浄土真宗の教えの根幹が南無阿弥陀仏の名号にあり、この名号が「生老病死」という四苦のただ中にある私どもの人生の最終的な拠りどころとなるということであった」とし、「ご門主がわれわれに伝えようとされた親鸞聖人の教えの根幹は、南無阿弥陀仏の六字の名号にあり、さらにはそのはたらきは聖人が明らかにされた法義のエッセンスである「自然法爾」の四文字につくされているということである」となんとも苦しいものです。

龍大学長の入澤崇氏は社会貢献的な面を評価「新型コロナウイルス感染の蔓延が止まらない状況下でのかのお示しは特別な意義を有します」と。しかし内容を評価する文面は見当たりません。勧学の深川宣暢和上は「この度のご親教をいただいて、その源を伺ってみましょう。親鸞聖人が開かれた「浄土真宗のみ教え(ご法義)」は、その主著『教行信証』(根本聖典=本典)に述べられています。」と、このご親教を全く無視して、教えはご開山の教行信証に拠ることを明確に表現し、お救いは如来さまのお仕事とされ「要するにお救いとは、まったくもって如来さまのお仕事であり、私たちの行いや思いが入り込む余地は一切ないのです」と私たちのすることはご報謝であることを「そのご恩を知りそれに報いるという念仏生活を送ることができる身を恵まれます。(知恩報徳の益)。その報恩とは私たちからする努力です」と私たちが生きるということはお救いくださる如来への報謝であり、それは一人一人の努力であることを記されていて内容への論究は見当たりません。

総合研究所副所長の満井勧学和上と所長の丘山願海氏は連名で「浄土真宗のみ教え」を味わうとご親教の言葉を文節ごとに区切り説明をされています。

「このたびの「浄土真宗のみ教え」は、自らがつねに口にかけながら味わうことを意識されてか、七五調に整えられています。そのことによって、リズミカルで聞きやすく耳に入ってきますが内容が凝縮されているため、逆に少し理解しにくい部分もあるかもしれません。短い文章の中に深い内容が込められていますので、ご門主のご配慮に感謝しつつ、ご親教のお心を味わってみたい」

と、ご門主がご親教でわざわざ「分かりやすく伝わるように」とお示しになられたものを「理解しにくい部分もあるから」と何とも苦しい味わいではあるな、と読ませてもらいました。これでは権威付け(=正統性を主張)は、はっきり言って失敗していると思われます。が、こういう冊子を出すことで権威あるものとの印象付けは出来たと総局総長はお考えになられたことは想像にかたくないと思います。

迷惑な仕事を押し付けられた各先生方がお気の毒としか私には思えませんし、特に「子ども・若者ご縁づくり推進室」に関わっていた関係で私とも親しくしてくださった丘山氏が昨年急逝されたことは「上職の命とはいえ、心外な仕事をさせられた心労が重なったのかな」と私的には感じたことでありました。

つづく

松月 博宣
浄土真宗本願寺派僧侶
龍谷大学文学部仏教学科卒業。本願寺派布教使。
福岡県海徳寺前住職。
https://www.kaitokuji.info/


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