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冊子の言及(宮崎教区学習会③)

※冊子とは、満井勧学が中心となり総合研究所から発行した『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』のことです。

Q 私は桂紹隆先生に中論を習っていた。冊子では不思議という言葉を説明したい為に、空の思想を使ったのかなと思った。「義なきを義とす」という言葉があるように、「不可思議」だったら「不可思議」のままで良いと思う。それをわざわざ空の思想を使って、何を急に説明しようと思っているのかと思っていた。それと、桂先生を出されて中論の話が急に出てきたのでびっくりした。はたして一般の方がわかるのかと。満井和上は、「空」もしくは「中観」について、全くわかっていらっしゃらないのではないかと思う。「空」で考えるならば、「無」との関連性を考えなければいけない。すごく昔からこの論争が起こっているのに、違いについて話ができていない。桂先生の引用も間違えていて失礼。研究論文、原典などをあたったのか、違いを理解しているのか、なぜ全ヶ寺に出されたのか。

A 教え子の方がおられる事は想定していた。人づてだが、先生は「名前を出してもらってけっこうだ」と仰った。だからと言って、無責任なつもりはない。使い方について、不十分だったという事については、検討をさせていただいて、桂先生にはご相談の上、非礼をお詫びする事になろうかと思う。(満井勧学寮員)

Q ぜひとも桂先生にはお詫びしていただきたい。そもそもこの書き方。実は桂先生に確認をとったが、冊子11頁、⑤の下の方は「全く関係ない」という話だった。新しい領解文に関して云々、という所を先生は知らない。それなのに、一番最後のところのに註23には、桂先生に「敬意を表し深く感謝を申し上げる」みたいなことが書いてある。ここに註をつけたら、内容は桂先生が言った事になる。全国で誤解する人がいると思う。どう責任をとるつもりなのか。

A 責任の取り方は考えなければならない。まずその前段階として桂先生にお詫びをするという事になる。(満井勧学寮員)

Q この勉強会にあたりほとんどの教区を回って来たと思う。その上で序論には「議論の余地はまったくない」「多くの誤解が起こっている」と書いてある。このまま学習会が終わっても、また「みなが誤解しているようだ」と総括してくのか。今までも、「私はちゃんと説明したけどもみんなが誤解している」という。何か誤りがあるならば、この場で明確にするべきではないか。

A 私の書いた序論について、誤りがあるとは思わない。年を明けてからこの冊子をお配りし、色んな教区の反応は我々が全部持ち帰っている。このあり方をどう検討するかは、別に責任を逃れるわけではないが、もう私は研究所ではないので・・・(満井勧学寮員)

Q あり方ではなくて、これまで教区をまわってきて、序論に「多くの誤解が起こっている」と書いてある。いままでの勉強会は何だったのか。今日はその誤解の話があると思っていた。

A 誤解というのは、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」という事を理由に、信心さえもいらないという誤解になってはいけない意味での説明文。(満井勧学寮員)

Q それは誰も誤解していないのではないか。

A ないとは言えないと思う。「無帰命安心」や「信心不要論」という声を聞くのも確か。それを誤解と申し上げて、こういう誤解があってもいけないので、その一つの手立てが冊子というのが私の立場。(満井勧学寮員)

Q それでは、今まで行われてきた説明にはまったく間違いがない、という事でよろしいか。

A 「議論の余地がない」と書いたのは、お聖教に根拠がないというのではなく、正信偈にあるわけだから、我々は正信偈のお言葉を丁寧に味わっていく必要があるという意味においては、私の論旨は変わっていない。ただし「生死即涅槃」にしても「煩悩即菩提」にしても様々な問題があり、簡単に「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」と言い換えて良いのかという事は、持ち帰るべきであると思う。(満井勧学寮員)

Q 村上速水和上の所で、正しておきたい事がある。真宗の他力廻向に関して村上速水氏は「極めて明確に述べられている」(冊子8頁)とあるが、これは間違いないか。

 研究員がそのように仕上げて、私もその旨を許可したという事。(満井勧学寮員)

Q ここに、村上速水和上の文を引用されて、他力廻向に関してあなたが言っている事自体が間違い。基本的にここは、「皆有仏性義」について、「仏性義」について書いてある。この「悉有仏性義」でも「皆有仏性義」でもいいが、本来、真宗における「仏性義」と通常における「仏性義」は違うので、だから村上速水和上もちゃんと「真宗における」という但し書きをされている。ここで述べられているということは、もとより出離の縁なき者が浄土に往生して仏とならせていただく。もしも、私と仏とさとりが、私が煩悩を丸抱えしている状態であるという事と、この私が仏にならせていただくというのは、乖離して全く別のことであれば、衆生には成仏の可能性はないじゃないかといって、これについて真宗では昔から議論が行われている。これについて村上和上が「皆有仏性義」が「生仏一如」あるいは「生仏異質」、このことについて論じておられるだけであって、これは「仏性義」の話をしている。他力廻向とは関係がない。これをこのように、「他力廻向に関して・・・明確に述べられている。」と引用するのは、文献をまともに読めないということ。満井さんは、いろんな文献上に云々と言われるが、全く信用できない。

A 廻向法の出どころとして引用すべきだったかどうかというのは、たしかにご指摘あると思う。ただ「遍満仏性」というあり方を「無自性仏性」という事でもある、我々の側に本来あるはずのない仏性を語ることが出来るという事を、先哲方はご苦労下さっている。(満井勧学寮員)

 それはそうであるが、だからそれは他力廻向の引用として不適切ではないか?

 なるほどと思う。(満井勧学寮員)

 そういうような文献の扱い方をしてらっしゃるわけだ。はっきり言って、もう情けないというか何というか。
今回、荻野総局がこの満井さんの冊子が出る事を止めようとしたという話を聞いて、荻野総局はなかなか頑張っておられるなと思った。だが止める事はできなかった。前の池田総局の時に全国に送付する運びになっていて止めることができなかったと。止める事ができないんだったら、これは回収していただきたい。あまりにもみんなが傷ついて、あまりにもみんなが憤っている。そして最終的にこの冊子によって、「浄土真宗というのが外道であるとはっきりした」と言われている事をご存か?

 申し訳ないが、私の耳には届いていない。(満井勧学寮員)

 「これで本願寺派は仏教ではないという事がはっきりした」「邪教である」と言われている。仏教でないばかりか害を与えるとまで言われている。私は本願寺が大切。ご本山もご門主さまも。こんな冊子を出して、一番最後に傷ついていくのは本願寺。私は僧侶をやってお寺をやっているというのは、ご法義に誇りがあって、そしてご門主さまは大切にしなくてはいけないという思い、ご本山によって育てられたという思いがある。それがこんな風に、下に下に落ちていくというのは耐える事ができない。

 無回答

 最新の『季刊せいてん』の最後のページに中央仏教学院の学院長が、お言葉を述べられている。「浄土真宗の宝は人財ですよね。ぞっとするのが、このままいって2,30年先、布教使がいなくなったら困るなという事ですね。それが一番の心配です。だから人財育成にお金を使ってほしいと思いますよ。」と、そういう風に書かれているが、三好総務にお願いする。こういう冊子を出したり、聞法会館に大きい「新しい領解文」の掲示物を作ったり、そんな事をするより、学院長は人材育成に使ってくれと。これを私はお伝えしたい。

 無回答

Q 冊子のP4に「以下、基礎となる文献となる先学諸氏の論攷に基づき、弥陀の本願が迷える凡夫をそのまま救う慈悲として成立しうる仏教の歴史における思想的根拠について究明することを本稿の目的とする」と書いてある。これを私が読むと、いわゆる阿弥陀様の「不可思議」を、「思議」の領域におとしめるかのような文章と思う。下に『ご文章』の信心獲得章の引用がある。そして引用が終わり「ここには、阿弥陀如来の発願回向の心、願力不思議をもって悪業煩悩を消滅するいはれあるがゆゑに煩悩を断ぜずして涅槃をうと述べられているだけである。なぜ願力不思議をもって煩悩を断ぜずして涅槃をうといえるのか。その理由がなければ知的理解を是とする教育になれ親しんでいる現代人には不親切であろう。肝腎なところがよくわからないのではないか」と書かれている。これは、仏智の不可思議を不可思議として受け止めるのが真宗のご法義ではないかと思うところだが、本願の不思議を仰がせていただく浄土真宗の根幹から逸脱している文章だと思う。ここについていかが思われるか。

 不可思議の領域を思議に貶めているのではないかというご意見かと思う。本来仏智の不思議、本願力の不可思議というのを伝えていくべき我々の場において、対象となるというか、教えを伝えていくべき相手の感性というか、そういうものは、例えば不可思議という言葉を聞くと、結局そこに逃げられているのかと思われる感性もある。もちろん仏智不思議、願力不可思議をいかにして伝えていくかという時に、最初から入り口を閉ざされたら伝わらないという事が起こる。それの為に、現代的な知性というものを持っておられる方に、ある程度の入り口を与え、そこから仏智不思議の領域にいかに入っていただくかというスキームを考えようとするのが、研究所のある意味狙いとするところであって、その入り口を示そうとしただけ。ただ、言われるように本来不可思議の仏智を思議の領域に貶めるという危険性ありやというご指摘は持ち帰って受け止めさせていただきたいと思う。(満井勧学寮員)

Q しかし、その入口を作ろうと思って書かれた冊子が、今まで指摘されたように多分に誤りがあると思う。成り立っていない。取り下げるべきではないか。

 不十分のそしりはあえて感受する。でもこの冊子をどうするべきかというのは、もう私の判断ではなくなった。(満井勧学寮員)

Q 大田所長はどう思われるか。

A 誤りとは思っていないが、今後検討はしなければいけない事だと思っている。(大田所長)

間違いを指摘されて、それでも正しいというのであれば、なぜ正しいのかをきちんと示すべきではないか。

 少なくとも私がどうこうするべき立場にはもうない。私が余計なものを出してしまった事を、正副両所長にはお詫びをしなければいけない。ご判断は研究所の出したものとして、現役の正副両所長に背負っていただく。ただ前任者はろくなやつじゃなかったという事でけっこうかと思う。(満井勧学寮員)

 研究所と仰っているが、これを全国に送付と決めたのは前の総局。本当にこれによって、みんな傷ついている。そして、僕は一番ご門主さまとご本山、これがろくでもないと世間から言われている事がたえがたい。総局には、送付を止めたかったというのはその通りだと思うので、回収していただきたい。

 貴重なご議論をしていただき、ただ今のご要望に関しては、直ちに回収という事はやっぱりできない。組織として、一度出したものであるから、先ほど大田所長が申し上げた通り、きちんと真偽の検証をして、その結果は報告をさせていただきたいという事を、総合研究所の方には指示を出したいと思う。現段階では、そこまでしか申し上げることが出来ない。(三好総務)

 宗派や本山が、時代に即した伝え方を考えている事には賛同する。公共性が求められるという事も理解する。ただ、「わかりやすく」という点では、「新しい領解文」はいかがかと思う。僧侶が集まり勉強会を開いても「よくわからない」という声が多い。その上で、この学習会の目的を考えると、「理解して納得する」という事が目的か、「理解して納得して広めて下さい」という事が目的か、どちらなのか。

 「新しい領解文」の取り扱いについて。「新しい領解文についての消息」というのは、「新しい領解文」だけではなく、その前後にご文が添えられてあり、その最後にご門主さまが「この新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)を僧俗を問わず多くの方々に、さまざまな機会で拝読、唱和いただき、み教えの肝要が広く、また次の世代に確実に伝わることを切に願っております。」と仰っていることを受けて、総局、宗門としては、ご門主さまの願いにこたえるべく、周知と普及を目指してこの学習会を開いている。ただご承知の通り、ご意見いただいた通り、私たちの力不足もあり、周知や普及という事にはまったくおよんでいないという事に対して、本当に申し訳なく思っている。(三好総務)

Q 周りから聞く話だが、一部和上や学者等の発言に対して、本山や宗派から圧力、忖度があると聞いたりするが、そのような事はいかがか。

A 無回答

Q 満井和上のお寺ではこれを唱和されていないという話だが、唱和されるようになったのか。

A 習慣化はできていない。ただしお座の折りに、私が自勤でやった時には、内容をご説明した上で、みなと唱和をした。(満井勧学寮員)


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