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KURUKUFIRLDS :03

 今カルチャーを引っ張っているのは、音楽でもファッションでもなく、フードだ。
 というようなことを「green bean to bar chocorate」の安達建之氏が言っていた( The Taste of Nature 世界で一番おいしいチョコレートの作り方 )。
 確かにそうかもしれない。街には小綺麗なグラフィックデザインを伴ったコーヒースタンドやスイーツショップが、いくつでも増えていく。まるでグラフィックも音楽もインテリアもプロダクトも、最初からお店作りの為の道具として存在していたかのようですらある。インスタグラムに並ぶのはアイスコーヒーとアイスクリームとパンとケーキとランチとお店のロゴ。フェスにはもうバンドも音楽も必要がなく、小洒落たフードのポップアップが集まれば成立する。雑誌やウェブのインタビューではシェフや料理研究家やカフェのオーナーが取り上げられる。お出かけの目的地はコーヒーショップとアイスクリームショップとパン屋とケーキ屋とレストランで、もちろんそれら全てには、ユニークなロゴが付いていなくてはならない。ロゴはオリジナルグッズの展開にも役立つ。プロダクトの飽和した現代において、ロゴの生み出す表面的な多様性が人々の購買意欲を喚起する。ロゴ付きのオリジナルグッズというのは広告でもあるのだが、長い広告化時代を生きている僕達にとって広告はもはやライフスタイルと主義主張で、インフルエンサーにしろアンバサダーにしろ広告塔になることは憧れですらある。

 これらの変化は、社会的時代的なことではなく、あくまで僕の個人的な視線の変化に過ぎないのかもしれない。20代の頃は昼夜逆転したクラブ中心の生活をしてレコードもCDも音楽雑誌も買っていた。30代を通じて生活は朝方にシフトしてクラブには足を運ばなくなり、音楽はストリーミングで誰かが選択したプレイリストを聞き流すだけになった。耳にする楽曲の数は物凄く増えたが誰の何という音楽を聞いているのか全く分からないし、クラシックから実験的音楽まで聞き流しているので音楽シーンみたいなものも意識できなくなった。それに並行して、調理が面倒なのでポテトチップスとカロリーメイトと卵とオレンジジュースばかり食べていたのが、気が付けばオーガニックで健康的で動物福祉に合致した食事を心掛けるようになって生ゴミはコンポストに放り込んでいる。
 個人的な生活の変化は、僕達が広告社会を生きているが故に、完全に個人的な閉じた現象ではあり得ない。だから、僕が流行や広告影響下における一消費者としての自身から幾許かの一般性を読み出すことも、少しは意味を持つのではないかと思っている。
 僕の個人的な変化なんかどうでも良いという場合は、クルックフィールズのプロデューサーである小林武史氏を引いても良いだろう。まさに一世を風靡した音楽プロデューサーが、長い年月を掛けて実現したものが、この「循環」をテーマとした空間であることは時代の変化に対する一つのシンボルではないだろうか。「循環」というのはほとんど食べ物の循環のことだ。

 小室哲哉は、有名になってお金がどんどん入ってくるようになってもファミレスのものばかり食べていた、という話を聞いたことがある。ドラゴンボールで売れっ子になった鳥山明がカップラーメンばかり食べているという話も聞いたことがある。僕は食べ物に興味があまりなかったので、それらの話を聞いた当時は別にそういうものではないかと思っていた。もっともこれらの話は誇張された只の噂かもしれない。しかし今日彼らは何を食べているのだろうか。もしも僕が今20代だったら、僕は一体何を食べているだろう。
 子供の頃、マクドナルドはミミズの肉を使っているという根も葉もない噂があったが、誰もどのように飼育された牛を使っていて、どんな油でどんな添加物を使って調理しているのかという話はしなかったと思う。今では都市伝説は、フライドポテトは放置してもカビが生えないみたいな安全性に関するものに置き換わっているし、食品ロスの観点から、ハンバーガーが待ち時間なしで出てくるというのは廃止されている。そしてチーズバーガーセットを一つ食べるだけで出てくる大量のゴミにも問題意識が注がれている。

 10時の開園時間を過ぎると、駐車場にはぞくぞくと車がやってきて、陽の光に照らされたフィールドのあちこちへと人が散らばっていく。散策という観点で言えば、ものすごく広いとは言えないこの空間がどこまで特別なものかは分からない。たとえば、代々木公園は54haとクルックフィールズの倍近い面積を持っているし、田舎に住んでいて近所にハイキングコースがあればもっと長い散策を楽しむことはいくらでもできるだろう。ただ、ここにレストランやパン屋やソーセージ屋があること、その材料がこの土地と深い結び付きをを持っていることが、散策という行為に別の意味を付与している。食事をしながら、歩きながら、人々は自分が食べているもののことを微かにあってでも意識する。このミルクはさっき見た牛のものなのだろうかとか、さっき食べた人参はこの畑のものなのだろうかとか、そういうことを考える。極めて擬似的ではあるが、自分の畑で採れた野菜を調理して食べるような充足感の断片を感じる。人々はその仮想的な充足感を感じるためにここへやって来る。
 生きることと食べることは直結していて、それは誰でも知っていることだが、こんなに強く生産から流通まで意識されているという時代は今までなかった。たとえ高いレストランだって、安全で丁寧に作られた食材を使っていることを押し出すところはこんなになかった。料理は味と見た目が大事で、人々はそれにお金を払っていた。もちろん、生活協同組合に入ったりして食の安全にこだわる人達もいたけれど、今みたいにそこら中でオーガニックフードが売られていたり、誰もがブロイラーの実態を知っているみたいなことはなかった。生きることと直結しているはずなのに、僕たちはその表装しか知らなかった。かつて「最近の子供はスーパーで売っている切り身の魚しか知らないから、魚の絵を描いてというと切り身の絵を描く」というまことしやかな話があり、僕はそれを強く疑っていた。今もこの話は誇張甚だしいと思っている。しかし、この逸話が伝えたかったことは正しいのかもしれない。つまり圧倒的な食べ物についての無知という点で。
 周囲の友人に、農業を始めた人や、あるいは自分で食べる為の畑をしている人が増えてきた。僕のベランダにも小さな家庭菜園がある。そうして実際に作物を育てたり、その話を聞いたりしていると、自分の想像力が如何に欠如していたか分かる。
 実は僕は「農家は大変だ」ということが全然分かっていなかった。種を蒔いて時々、水や肥料を上げればいいだけだし、植物は勝手に育つわけだから、人間の方がそんなに大変だ大変だというようなこともないのではないかと思っていた。
 ところが、実際には農作物を育てるというのは、きちんとした観察と日々の手入れを、それも季節や天候を踏まえたものを要する行為だった。自然農法で完全に放置するようなものもあるので、この辺りまだ良く分かっていないのだが、「こういう風に伸びてきた枝のこちら側をこれくらいの長さに切る」みたいな手入れをするかしないかで作物のクオリティーが変わってくるのでプロの農家なら仕事が山のようにあるはずで、農業の何が大変なのか分からなかったのは僕の無知故だ。映画「イージーライダー」のワンシーンで、コミューンのヒッピーが適当に種を蒔くのだけど何も育たない、と言ったような描写があったと思う。もしも僕が急に「今日から自給自足」を始めたら、同じことになっていただろう。
 食が深い意味合いでカルチャーを引っ張るようになり、農業を始める人達が増える、というのは「おいしくて健康的なものを環境負荷少なく食べることができる」というような、あくまで「食」の中の話に留まることではない。その影響は長期的に、もしかすると思ったよりも早く、経済や社会のあり方を変えるのでないだろうか。ここへやってくる沢山の人々はその予兆の一つに違いない。

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