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「真剣」をつくる

「教養のエチュードしよう」というサークルを運営している。その中に「ダイアログ・ジャーニー」というプランがあり、内容はオンラインでぼくと二人でお話をする。世間話でもいいし、文章についてのあれこれでもいいし、相談ごとでもいいし、企画に対するフィードバックやアドバイスを求められることもある。

今までに数名の方とお話をしてきた。みんな抱えている課題はそれぞれで、じっと耳を傾けることが大事な時もあれば、お互いにおしゃべりになることが大事な時もあれば、「ヒント」のようなものを求められることもある。楽しい。

今日は、とある人とお話することになっていた。その方はMuse杯にも作品を応募してくれた方で、冒頭で作品の感想をたくさん話した。しばらく別の話をした後、またMuse杯の話に戻った。その人はこう言った。

「今まで〈真剣につくる〉ということから逃げていたのかもしれません。でもMuse杯の作品は真剣につくることができた。だから、賞に選ばれなかったことは心から悔しかった。でも、〈真剣につくる〉ことができたことがうれしかった」

その言葉を聴いて、PCの前で泣きそうになった。それくらいうれしかった。「真剣になれる場」をつくることができて本当によかった。

それが適当につくられたものなのか、真剣につくられたものなのかは、そこに注がれた仕事量を見ればわかる。熱量、技術、感性、推敲、それらは目に見えなくともこちらに伝わってくる。ぼくにはそれがわかる。だから、真剣につくられたものに対して、ぼくは敬意を払うし、何かしらの方法でぼくの想いを贈りたい。

感想を伝えることはその一歩目であり、それが深いところへ伝わった瞬間、お互いの間に物語のようなものが芽生える。全ての人にそれが起きるわけじゃないけれど、そういうことがあることは事実で。そこに物語が生まれた人とは互いの間に「信頼」のようなものが生まれる。

それはね、「真剣になれる場」で生まれたものにしか到達できない。ぼくはそれを知っている。一年前に「教養のエチュード賞」というコンテストを立ち上げた時にそれを感じた。とても小さな話だけど、それはとても大事な気がする。

「真剣になれる瞬間」をどれだけつくることができるか。

日々、どれだけ真剣に文章を書いているだろうか。どれだけ真剣に一杯のコーヒーを淹れているだろうか。どれだけ真剣に目の前の人の話を聴いているだろうか。昔の人はそれを「一期一会」という言葉で表わしたけれど、その言葉をどれだけ誠実に行動へとつなげているだろうか。

太陽が昇ったり、沈んだりする中で自問自答は続く。

その人にとって、Muse杯はそのきっかけの「場」だったのだ。作品を届けてくれたこと、それからその言葉をもらえたことに心から感謝します。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。