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鏡の世界

あの頃まで、ぼくは、怒りは価値観の違いによって生まれるものだと思っていた。

学生時代、バーでアルバイトをしていた。そこでお酒の知識や氷の扱い方を学んだ。カクテルの世界に魅了されたのはもう少し後の話で、その頃はカウンター越しに様々な世代、職業のお客さんの話を聴けることがただただ楽しかった。

アルバイトはぼくの他にもう一人、同年代の男の子がいた。便宜上、Aと呼ぶ。Aは、どこかぼんやりとしていて、ところどころ抜けていた。大事な話を聴いていなかったり、約束を忘れたりする。それをおもしろがったお客さんに茶化されることがよくあった。そのやりとりで場は成立していて、カウンターには楽しい時間が流れた。実際、A自身も楽しそうだった。叱られることは嫌いだが、茶化されるのは好きなタイプなのだ。

ただ、中には彼の「ぼんやり具合」が許せない人もいた。いく人かのお客さんは、真剣に注意した。Aは茶化されるのは好きだが、叱られるのは嫌いである。そういった場ではAはうまく存在感を消した。

とある常連のお客さんは、Aに対して厳しい人だった。そのお客さんが来るたびに彼は委縮した。お客さんのAへの指摘は日に日にエスカレートしていく。注意される原因はAにあるのだが、傍で見ていて「ちょっとそれは言い過ぎなんじゃないか」と思うようなこともあった。

そのお客さんも、Aが嫌なのであれば店に来なければいいのに、わざわざ彼のいる時間に合わせて店を訪れた。あえてAに話しかけ、受け答えを間違えたりすると叱りつけた。ある日、お客さんとのやりとりを見かねたマスターがAに用もないのに買い出しを頼んで、店から出した。

ぼくはそのお客さんの前に立ち、吸殻が二本重なった灰皿を新しいものに換えた。お客さんは、新しい煙草に火を付け、つぶやくように言った。「あいつ、昔のオレを見てるみたいで腹が立つんだよ」。それから、ぼくに静かに語りかけた。

「昔のオレも、あいつみたいにぼんやりとしていて。何か失敗してもへらへら笑ってやり過ごしていた。周りもそれで許してくれた。でもな、それじゃダメなんだよ。あいつを見てると、昔のオレを見ているみたいで、イライラしてくるんだ」

深く吸い込んだ息は、白い煙となって天井へと消えて行った。

人が人を攻撃する理由は、「自分とは違う」だけでなく、「自分と同じ」こともきっかけになり得る。そのことをはじめて知った。それ以前から自分の中でも起きていたはずではあるが、意識に至ったのはその時がはじめてだった。

ぼくたちは、自分の目で世界を見ている。その視界は、自分の外の世界に向けられていると同時に鏡の役割をも果たしている。他者の中に、自分を見ているのだ。

誰しもがコンプレックスを抱えている。意外にも、他者を見る時に最初に目が向く場所は、自分の抱えているコンプレックスの部分だったりする。それは外見もそうだし、内面もそう。その静かな共鳴は、怒りをも引き起こす。実は、気にしているのは本人だけだったりする。

当然、怒りの全てが鏡の効果になっているわけではない。ただ、そういった一面もあるということは覚えておいた方がいい。暴言の裏側には、その人の背景がある。価値観や美意識を損なうものかもしれないし、「自分」という存在を否定されることへの恐怖かもしれないし、「自分」という存在を発見してしまったからかもしれない。

感情の揺らぎは、その人自身を写し出す。



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