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かなしみのただなか

つとめて、自分のことを肯定したり、否定したりしている人がたくさんいて。それらは正反対の方向へ進んでいるようでいて、その実両者は同じ種類の“かなしみ”に溺れている気がするのです。

「こうあってほしい」という願望か、はたまた「こうあらねばならない」という強迫観念か。祈りと呪いの本質が同じように、肯定も否定も容れ物と機能は同じ気がして。そこになみなみと注がれた“かなしみ”から逃れようとしているように見えるのです。逃れようとして、あがき、もがき、溺れてゆく。

虚構をこしらえることで、自らの救命を図る。ただ、その演技はことばにならないほどのかなしみを帯びており。虚しさばかりがあとに残るだけで。そうではなく、“かなしみ”を迎え入れることが大事ではないかと思うのです。逃げるのではなく、受け入れる。溺れるのではなく、抱きしめる。

ただ、それでいい。意味を与えなくていい。結論を出さなくていい。それしかできなくていい。その只中にいればいい。

いっしょけんめいに自分を肯定する物語はかなしい。いっしょけんめいに自分を否定する物語もかなしい。ただ、どうにもならない“かなしみ”を受け入れる物語は美しい。


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