わからないのは、お互いさまで
相手の言ってることがわからない時、「理解力のない自分が悪い」と感じる場合と「伝達力のない相手が悪い」と感じる場合がある。
その時々で自分のせいにしたり、相手のせいにしたりするのだけれど、実のところどちらにも同じくらい責任があるような気がする。その違いを判断するのは、おそらく“自分がわかりたいかどうか”なのだと思う。
たとえば、夢中になった小説や映画は、受け手を簡単に理解させてはくれない。「“わからない”けど、惹き込まれる」という体験は誰もが知っているのではないだろうか。“わからない”から、知りたくなるし、繰り返し見たり、調べたりする。すぐれたカルチャーは、受け手に手を差し伸べるのではなく「ついて来い」と背中で語る。その時、わたしたちは「相手が悪い」と感じることなく、自責でもって「理解したい」と前のめりになる。
一方、専門的で退屈な話や、経験が浅く表現力の乏しい話の場合、わたしたちは「理解力のない自分が悪い」とは思わない。「難しい」「おもしろくない」「何を言っているのかわからない」と、責任のすべてを相手に押し付ける。同じ“わからない”でも、捉え方がまったく違う。理由は単純で、こころがときめいていないのだ。
そこに「わかりたい」という想いがなければ、“わからない”は宙ぶらりんのままだ。相手に押し付けた責任の半分を、自分が抱えてみる。あるいは、自分の抱えた責任の半分を、相手に渡してみる。少しだけ、世界が変わる。
「わかりたい」と思ったら、人は自然と豊かに解釈してゆく。それは誤読であり、コミュニケーションの本質なのだと思う。良くも悪くも“わかりたい”からねじれは起こる。「わかりたい」からと言って、わかり合えるわけではない。ただ、その誤読を、そのねじれを、その豊かな解釈を、価値のあるものだと受け止めることができたとしたら。
世界はなんと美しいだろう。
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