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福島で紡ぐ〈わたし〉と〈あなた〉の物語【こじまいづみ】

大きな絆よりも、個々を結ぶ小さな絆

これは、「こじまいづみ」というひとりの人間の物語。彼女のことば、こころ、行動から築かれてゆく一つひとつの〈わたし〉と〈あなた〉という絆。

それは、手紙をしたためるよう、ていねいに、慎重に、想いを込めて紡がれる。一緒に泣いて、一緒に笑う。そのかけがえのない時間の中で、育まれるもの。

2011年3月11日、東日本大震災が起きた。
その半年後の夏、こじまいづみは宮城県石巻市へ訪れた。

1.印象

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───まだ音楽は必要ないんだ。

震災が起きた直後から、ずっとボランティアで行くつもりでした。ようやく「ライブをしてもいいのかな?」という雰囲気になった頃で。必要とされて呼ばれた最初のタイミングだったと思います。

ボランティアの方々と一緒に幼稚園で夏祭りをしました。わたしたちはそこでライブをした───

仙台空港に降り立つ前、飛行機の窓からの景色を見て、呼吸が浅くなった。
石巻市は宮城県の中でも震災の影響が大きかった地域。到着すると、「日和山」という名前の山に連れていってもらった。そこから見た街の光景は、すべてが混沌としていた。

海岸線にかけてたくさんの工場が連なっている地域で、水産工場、製糸工場が全て焼けて。津波で流され、火災で焦げた跡。街が一つ消えている状態でした。

潮風に運ばれて、嗅いだことのない匂いがした。
津波に流され、いろいろなものが燃えた後の、匂い。
その時、急にこわくなった。

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半年経っても、震災が起きた当時と変わらないそのままの状態でした。その場所に住んでいた人たちは、まだ戻ることができていなかった。こわくて帰ることができないんです。

夏祭りは、幼稚園の園庭で開かれた。
焼きそばを炒めたり、音楽のライブをしたり。
そこには、被災者だけではなく、
大学生や海外からのボランティアの子もたくさんいた。

ライブをした時、最初に泣いたのは、
そのボランティアの子たちだった。

被災地の人は、まだ泣けない。

半年経っても、まだ笑ったり、泣いたりすることはできない状態で。
はっきりと手応えのなさを感じた。

「あ、まだ音楽は必要ないんだ」

落ち込んだ。


ボランティアの子たちも、がんばっていたけれど、なかなかうまくいかなくて。助けるために来たのに、トラウマのようになって帰って行く子もいました。

わたし自身、阪神淡路大震災(1995年)を経験していて。当時、高校生のわたしはボランティアに行きましたが、何もできずに帰ってきました。ただただ、己の無力さを知った。

あの時のわたしと同じ想いを、ここにいるボランティアの学生たちは、今体験していて。痛いほど、その気持ちがわかる。

「このままでは、あかんやろ」

だからきっと、そこにいる人たちのためではなく。同じような悔しい気持ちをもうしたくないと思った自分のため。「向き合わなくちゃいけない」と思った。

「これから花火が上がるって知ってる?」

ひとりの小さな男の子がわたしに話しかけた。

「知ってるよ。ここで待ってるねん」

そのユウくんという名前の幼稚園児は、わたしの隣に座った。
ボランティアメンバーの中に花火師がいて、
その人が打ち上げてくれるのだという。
ライブ後、みんなは幼稚園の隣、
避難所となっている中学校の校庭へと集まった。

「ひとりでいるの?」
「うん、ひとりで見に来た」
「どこから来たの?」
「あっち」


彼の指先は、避難所をさしていた。
ユウくんはかき氷のカップを手にしていて、
メロン味のそれは溶けて
どろどろの水になっていた。

「お母さんとお父さんは?」
「仕事に行った」
「誰か一緒にいるの?」
「おじいちゃんはあっちにいるけど」
「うん」
「おばあちゃんは津波で死んじゃった」




「そうなんや。じゃあ、一緒に見よ」
「うん」


みんなが集まると、ひゅるりと音を立てて、
夜空に花火が打ち上がった。
その光の花は、
ささやかだったけれど、とてもきれいで。
闇に包まれた夜の校庭に、一瞬の光が降り注ぐ。

「みんな喜んでるかな」

そう思って、周りを見渡してみた。

すると、みんな、泣いていた。

それを見た時、「わっ」と思ったんです。
どうしようもないところに来てしまった。

ああ、わたしは何もわかっていなかった。
今、この人たちはどんな気持ちで泣いているんやろ。

わたしの目にも涙があふれました。

それはとめどなく、頬をつたい、こぼれる。

「ねぇ、大丈夫?」

ユウくんが、わたしに言った。
どうやら、花火の音を怖いと思ったみたい。

「大丈夫だから。こわくないよ」

ユウくんがわたしの手を握る。
ぐっと力を込めたその小さな手。
溶けたかき氷を食べていた手だから、
それはもう、
どうしようもないほどベタベタで。
それでも、わたしにはその小さな手が驚くほど
たくましく感じられて。
そこに込められた力を感じた時、

「必ずもう一度、この場所に来なくちゃいけない」

そう思った。

ささやかな花火、
夏の匂い、
そこにいる人たちの涙、
べたべたの小さな手、
はかなくて、
強い力。

その時のすべてが、忘れられなかった。

2.関係性をつくる

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───とにかく聴いておきたいんです。本音を聴きたい。

その時から、いろんなところへ歌いに行きました。石巻、気仙沼、多賀城……何度も訪れるうちに、まず泣けるようになって、それから、ようやく笑えるようになった。

わたしがそこで被災したわけでもありません。ここに住むわけでもない。
だから〝よそ者〟みたいな感覚はずっとありました。

「その溝を埋めたい」

だから行き続けていたのかもしれません。歌がダメなら、みんなと同じように汗をかいて、ベソをかいていかないと。

津波による塩害で、田畑の作物は育たない。田畑を蘇らせるためには、一度全ての泥を出して、そこに新しい土を入れなければならない。いづみは泥だらけになりながら、みんなと一緒に泥を出した。

歌える環境があれば歌った。それ以外のこともたくさんしました。そうしないと、彼らのこころの中に入っていけないんです。

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東北には、お漬物を持ち寄ってお茶を飲みながらおしゃべりをする「お茶っこ」と呼ばれる文化があります。仮設住宅の集会場で開かれるお茶っこにウクレレを持って行き、おばあちゃんたちと話して、歌をうたう。それはライブではありません。必要がなければ歌わずに、話を聴くだけの時もある。

でも、痛みを分けてもらうことってとてもつらいことですよね。たとえば、失恋やちょっとした傷であれば、それを後々勲章のように扱うことができるかもしれません。でも、はかりしれないほどの深い傷は、その想いをシェアしてもらうことって相当な体力を消耗する行為なんですよ。

それでも話してくれるということは、本当に勇気のいることで。「強いなぁ」と思うその一方で、「わたしが同じ状況に立たされているとしたら、自分にはできるだろうか?」と考えました。もしかすると、できないかもしれません。

簡単に「大変でしたね」とも言えない。
今目の前に起きていることは、決して過去形ではない。

とにかく想像すること。

「自分がもし同じ立場だったら何を想うだろう?」
「これがわたしの家だったら」
「棚から落ちてどろどろになった本が、わたしの買った本だったら」

一つずつ想像してみる。

そうすると、震えてくるんです。

でも、被災者の人に寄り添うには、イマジネーションしかなくて。それでもやっぱり、体験した人に追いつくことはなく。ただただ癒すことはやっぱりできないんです。

以前、訪れた時になかったものが、次に訪れた時にはあって。「きれいになったでしょう?」と喜んでいる人たちを見たら「本当ですね」って一緒に喜ぶことしかできない。津波にのまれた人のことを、想像して一緒になくしかできない。一緒に喜んで、一緒に泣く。本当にそれだけで。

それからが一年経ち、二年経ち……物資が必要なくなってきた頃、ようやく音楽の力が求められるようになりはじめました。場所によっては、もっと時間をかけなければいけないことだってある。

芸術が必要となるのは、これから先だと思います。

福島のように、ぱっと見た様子ではきれいだけれど、人が帰って来ることができなくなった場所もあります。反対に、国が「帰って来てもいいよ」と言ってしまった場所もある。

起きたことは、なかったことにはできない。
恐怖もまだ残っている。

お母さんたちは、何よりも子どものことが心配なんです。お母さん同士で、それらの情報を共有していて。わたしにも子どもがいるので、その気持ちはよくわかります。母親同士ということで仲良くなれた部分もある。

「こわくて産めない」

最初に福島に行きはじめた時に、あるお母さんと話をすると、「子どもはできたけれど不安だから産まない」という方がいた。子どもに対して「ごめんね」とずっと思っている。それは本当に苦しいし、いつまでも残り続けることで。

今は元気だけれど、明日病状が出るかもしれない。三年後かもしれない、十年後かもしれない。そのような不安をずっと抱えることになる。国が「影響がない」と言っても、実際の未来にどうなるのかは正確にはわかりません。

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みんながよく口にする「あれは天災ではなく、人災だ」ということば。福島の人たちがなぜ声を上げづらいのかというと、原発を誘致した場所は恩恵を受けているからで。

同じ福島の中でもそういうことが起きている。それは、そのコミュニティに入ってみないとわからないことで。その土地に行き、会って話を聴いていくと、次第にいろいろなからくりが見えてくるんです。

たとえば、「福島の実り豊かな作物を応援しよう」と影響力のある人が言ってしまうと広がります。だけれど、校庭や公園の線量を計り続けているお母さんたちから話を聴くと「あれをされると本当に困る」と言います。「わたしたちの不安の声がかき消されてしまうから」、と。著名人の一言に、現場の声がかき消される。

でも、それを宣伝する人たちに悪気があるわけではなく、「良かれ」と思って声を上げる。それが良いPRになる。支援をビジネスにすることだって存在する。ただ、使い方によってはこわいものになります。だから、そこに住んでいる人たちが何を求めているのかということを知って、より細かく的確に届けることができることが本当の支援だと思っています。

泥や瓦礫とは違って、放射線は目に見えません。匂いもない。だから、普通に暮らそうと思えば暮らすことができるんです。でも、だからこそ不安は行き場を失くしていくんです。

***

ことばを一つひとつていねいに選ぶ。

その姿が印象的で。

ことばとことばの間を泳ぐ沈黙。

そこには、いづみさんの思考が漂っている。

「人として、いかに生きるか」

悲しみの中に溶け込み、共に笑い、希望をすくいあげる。

音楽をツールとして、人と人の関係性(物語)をきめ細やかに、やさしく、つよく、構築していく。

いづみさんのことばが鼓膜を通って、こころに届く。

様々な感情があふれだす。

それを、書き起こし、並べ替え、整える。

ぼくもまた、一つひとつていねいにことばを選ぶ。

現実や想いをとりこぼさないよう。

誤解を招かぬよう。

大切なことが、伝わるように。

***

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3.これから育てるもの

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───十年目、自分の支援の指針を決めなくちゃいけない。

わたしはどれだけ放射線量の数値が高くても、そこに足を運んでそこに会いに行くつもりでいます。その人たちの様子を見て、話しを聴いて、支援したい。泣く人とは、一緒に泣きたい。

国の支援は十年が来たら終わってしまうと思うんですよね。神戸の時もそうだったけれど、そうなった後、みんなに本当に忘れ去られてしまうんじゃないかと思って。それがこわくて。

わたしは仕事柄、帰省本能というものがいつの間にか壊れてしまったのかもしれません。毎日、いろんな場所へ旅をしているから。それがよかったのだと思っています。どこへでも生きて行けるし。友達が一人いれば、そこがわたしの好きな場所になる。稼ぎ方は自分でつくっていける。

でも、現実的にはそうじゃない人の方が多い。そういう人からすると「京都においでよ」と言っても、「京都ってどんな遠い場所だろう?」と不安になったり、「住めるわけがない」と決めつけていたりする。

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友だちがこっちにいれば、「保養(義援金で短期間移動できる仕組み)」という形で、二泊三日ほど遊びに来ることができる。支援のカタチが、「この街に」ではなくて、「この人と」と考えることができる。これからは、それがよりマンツーマンの形になっていけばいいと思っています。

全員に何かを贈ることはできないけれど、友だちが住む土地に何かがあったら「大丈夫?」とお互いが言い合える。遠くに友だちが一人いれば、救われると思っていて。文通、みたいな関係です。

京都と福島のお話ではなく、〈わたし〉と〈あなた〉の関係性だから。もっともっとプライベートな部分でつながれたらいいのになって。そういう友だちが、福島のお母さんと日本中のお母さんとできたらいいなと思っているんです。

わたしが東北に二回、三回と行けたきっかけはそこでできた友だちがいるから。その人に会いたいから行っている。そういう風になればいいなって。

公的な補助に文句を言っても何もはじまりません。わたしは政治家になることもなければ、裁判を起こすこともない。そういうことは、それに相応しい人がやればいい。

そうではない方法で、細く、長く、続けていくことができれば、と。

「お互いさま」って素敵なことばよね。
お互いが「ありがとう」って。

昔あった〝隣近所〟という考え方がなくなっていると言うけれど、わたしは福島と京都も隣同士だと思っているんですね。コンビニに行けば宅急便を送れる。隣の家の軒先に送るのも同じなんですよ。明後日には届く。それを自然とできるといいな。

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きっと、この災害大国では、近い将来にはわたしたちが被災者になるので。「その時は頼んだよ」と言うと、みんな「任せとけ!」って返してくれます。それは、「お互いの組合」みたいなものですよね。「お母さん組合」とか「お友達組合」のような。

離れている人は助ける。
自分のためにもね。

大きく法律とかにしなくていい。できる時に、できる人が、一つずつやればいい。わたしはこの十年の間に、東北にたくさん友だちができました。本当によかった。

たまに「もしあの地震がなかったら」と考えます。十年前に戻って、あの地震がなかったらきっと出会えなかった。会えなかったとしても、あの地震が起こらない方がよかったと今でも思っています。

ただ、わたしはそのことで人生観が変わったし、その中で培われた経験もある。それでも、地震が起きてよかったとは思うことはない。これからも「起きなければよかった」とずっと想い続けるのだろうし。

でも、「会えてよかった、うれしい」と思い続けてもいいのかなって。

被災地へ通い続ける中で、「すごく苦しかったけれど、あなたとここで会えたということがうれしい」と言ってもらえることがあります。みんな、わたしをなぐさめるために言ってくれているのかもしれない。でも、わたしはそのことばに救われた。

救ってくれたのは、具体的な義援金やモノではなく、一つのことばだった。考えてみると、自分たちがしてきた〝何か〟も、もしかするとことば一つで救えたものもあるのかもしれない。全てではないけれど、一つや二つはあるのかもって。

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それがまんざらでもないと思ううちは続けていきたいと思っています。


***

ひとりの人間が、ひとりの人間を大切にする。

インターネットによって、いつでもたくさんの人に向かって語りかけることができる時代になった。それでも、〈わたし〉と〈あなた〉が紡ぐ物語には敵わない。

このインタビューは、未知のウィルスが世界に蔓延する以前に行われた。パンデミックの只中で、こじまいづみのことばが、人間の本質を鋭く捉えていたことをあらためて感じた。

今からでも遅くない。これから育てていくものが未来をつくる。


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嶋津 / Dialogue designer
「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。