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モラルとの闘い

社会には規律と道徳がある。

法のおかげで安全な暮らしができているのだが、同時に“モラル”という空気のようなものでもコントロールされている。「確かに法律は犯していないけれど、人間としてどうなの?」という線引き。「煙草は吸ってもいいけど、ポイ捨てはダメだよね」みたいなこと。

さて、文学的なおもしろさはこの境界線上でのゆらぎにある。わたしはそう考える。ルールがある中で、いかにマナーを崩せるか。そこの葛藤に、わたしたちの中に息づく小さな非道徳的な要素が共鳴するのだ。

人間の業が、道徳のラインを越えさせる。圧迫の末に、規律のラインまで越えてしまうことだって起こり得る。わたしたちは、いつだってその可能性を孕んでいる。環境が違えば、条件が揃えば、ラインを越えるかもしれない。

どちらかと言えば、そちらの方が正常な気がする。人間は、ゆらぎの中で格闘するのだ。理性を盾に抗うか、己の正義で刺すか、はたまた社会の空気に観念するか。人間の感情として、あたりまえのことだと思う。

しかしながら、現実では純白さが求められる。行動はおろか、“葛藤”さえも悪だとされる。だから、そこにあったはずの感情や現象が、あたかも最初からなかったように振る舞われる。隈なく殺菌して、無菌状態をつくり出しているが、そんなものは幻想だ。

声に出せば叩かれる、ことばにすれば燃やされる。だから誰も、声を上げなければ、ことばに残さない。理想的な人間を演じながら、息を詰まらせているのが現実なのではないだろうか。

もはや、虚構の中でしか道徳のゆらぎは許されない。Twitterにも書けなければ、エッセイとしても書けない。社会の空気が口をつぐませるのだ。だからこそ、人は匿名で充満したエネルギーを発散する。おおらかさが消滅し、閉塞感に満ちた社会の空気は、ここに理由がある。

突破するのは、創作の力。モラルと闘え、文士たち。制裁で管理するのではなく、主体性を尊重し、許容できる世の中について議論しよう。

清潔というのは「菌を無くす」ということではなく、様々な菌と共存することなのだ。


「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。