フレッシュな感性でいられるために
時間を共有するおもしろさ、というものがあります。
たとえば、一時間の「対話の場」があったとして。その空間に入って行き、共にその時間を過ごすことと、それをデータ化したものを後から見ることは、同じようでいて、どこか違います。もっと言うと、大事なポイントを抽出して文章にしたり、編集して短い映像にしてしまうと、実際にそこで起きていた内容とは、もはや「全く別のもの」になってしまいます。
ぼくたちは日々のいろんなことに追われていて、時間に余裕がありません。編集されたものを後から見たり、読んだり、聴いたりすることが当たり前のようになっています。とても便利な世の中ですが、同時にそれでわかった気になってしまっているという危険もあります。それは全く違うものだということを知っておかなくてはいけません。ニーチェの入門書だけを読んで、原書にあたることなく「ニーチェの思想を理解した」と信じきっているようなものです。
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「それは林檎に似ています」
一時間の「対話の場」に話を戻しましょう。たとえば、誰かの一言は、どのような文脈から引き出されたことばなのか。ことばだけを切り取っても、その前後のことばとの関係性でニュアンスは変わってきます。編集では、その一言に至るまでの間を切り捨ててしまいます。その人の内側で起こる現象が、リアルタイムで流れてゆく時間。それは「思考の時間」。内面に浮かび上がった問いにクラックが入り、中から何かが芽が顔をのぞかせ、すくすくと育ってゆき、ことばとして結晶化されるまでの「時間」。
誰かが何かについて話をしたた後、別の誰かが「それは林檎に似ています」ということばを発言したとしましょう。それが間髪入れずに発したことばなのか、しばらくの沈黙が通り過ぎた後に発したことばなのか。同じことばであっても、そこに醸される情報はわずかに違うものとなります。
それはしばしば「空気」と呼ばれ、その「空気」の中での発言では成立していたものが、その部分だけを切り取られて別の場所で公開された時に、全く異なる印象を引き起こしてしまう構造に似ています。「炎上」という現象にはいくつかのパターンがあり、その発言そのものが倫理的に問題がある種類のものと、その現場では成立していたものが後から受け取られ方が地すべりを起こして発生する種類のものがあります。
現場で成立していたものが、後で破綻するケースは、「編集」によってニュアンスと同時に、その場の空気をも切り捨ててしまったことによるものです。
編集されていない時間には、「独特の風味」があります。それはリアル、オンラインに関わらず、その場に漂っている空気。それを共有することは、とても大事なことであり、「体験」そのものなのだと思うようになりました。
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最近は便利な世の中になり、音楽ライブやトークイベントなどもデータに記録してアーカイブとして後からでも見ることができるようになりました。リアルタイムでのオンライン配信ではもちろんのこと、会場に足を運んだ人でさえ、どこかに「後からでも見直すことができる」と信じている節があります。
その、ある種の安心感によって受け手が取りこぼしているものは多大に存在します。一回性の価値を軽く見積もったことにより、無意識のうちに受信力を鈍化させているのです。今、目の前の瞬間に集中することができていたならば、深く刺さったはずの体験を、みすみす取りこぼしてしまっている。
恐ろしいのは、そのこと(取りこぼしていること)に気付いていないことです。「後から見れる」という安心感が、今目の前に起きている現象の解像度を低くさせている。
中には「好きなところだけ見れるように、無駄な部分はスキップしよう」とか「後から倍速で見よう」など、効率的に情報を処理することを重きに置く人もいます。もう一度言いますが、その場の空間や時間で起きているものと、それをデータ化したもの、あるいは、編集されたものは同じようでいて全く違うものです。
もし、目の前にある体験を味わえる立場にいるのであれば、ぜひともその空間と時間に集中してください。時間を共有するおもしろさを存分に楽しんでください。今、目の前の現象に集中して、空気を感じながら、フレッシュな感性と深い思考で味わう。
このような便利な時代だからこそ、今、あらためて何が大事なものであるのかを見つめ直してみてはいかがでしょう。
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