“豊かさ”について
先日、仕事終わりに酒を飲んだ。
グラス一杯のビール。普段は飲まない。れっきとした下戸である。でも、好きな人たちと“乾杯”したかったから、気持ちがはずんだ。気泡が空に向かって祝祭的にのぼってゆき、ふわふわの白い泡に溶けていった。グラスを重ねると、声にならない笑い声が聴こえたような気がした。ぐびっ、ぷはぁ。ホップが利いている。そうだ、そうだ、ビールはこんな味だ。
そういえば、コロナになってからめっきり酒を飲まなくなった。外に出ないし、人にも会わない。店に立たなくなってから、味見をすることもない。この二年で飲んだのは数えるほど。もともと酒を飲む習慣はなかったが、コロナがそこへ拍車をかけた。酒を飲まなくなって困ったことは一つもなかった。
半年ぶりの酒。
頭の中が、ぽわんとした。
それから十日間、体調を崩した。グラス一杯のビールである。わたしのからだは、本当の意味で、酒を受け付けなくなったのかもしれない。だから今は、はとむぎとレモングラスをブレンドした茶を飲んでいる。ふくよかな香りで、後味がなんとも爽やかだ。気持ちが良い。さて、吞みながら書こうか。
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わたしの人生から酒を奪ったコロナは、わたしたちの価値観を大きく変えた。この二年、人類は哲学に耽った。「いかに生きるか」を真剣に考え、自己との対話を重ねた。
生きるとは、しあわせとは、はたらくとは、豊かさとは。呼吸するように、問うては考え、考えてはまた問うた。思考が収斂されてゆく中で、わたしは多くのものを手放していった。それは、物質的なものだけではなく、こころが抱えていた、いくつかの“欲望”のようなもの。わたしたちは、“今日”から“明日”へと旅をする。決められた“今日”という場所に定住するのではなく、遊牧民のように常に“明日”へとトラベルするのだとすれば。「これは“明日”に持っていきたい」と思えるものだけを残すことにした。
手放すと楽になった。
本当に大事なことだけを考えていられる。
自分の信念に忠実でいられる。
幽閉された部屋の中で、「いかに生きるか」が明瞭になったことは、セレンディピティであるとも言える。反脆弱性。コロナは紛れもなく衝撃だった。しかし、わたしたちは受けた傷を味わい、糧にした。コロナ以前よりも、しなやかで堅固な精神を獲得した。それは、「生きる覚悟」のようなものかもしれない。
それはある意味で、コロナの前にはもう戻れないことを意味する。環境だけではなく、精神もまた、あの頃には戻れないのだ。考えてみれば、あの頃は牧歌的で、豊かであった。ただ、色彩は異なれど、今もまた心模様は豊かである。
大切なものを守り、やるべきことに突き進んでゆくだけだ。
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コーヒーを飲みながら、侃々諤々と議論するのも好き。
あたたかいミルクにエスプレッソを落として、ゆっくり、まったり、対話を深めるのも好き。
はとむぎとレモングラスのブレンドティーを飲みながら、文章を書くのも好き。
酒は飲めない。
でも、飲みたい時がある。
それは、好きな人に会い、“乾杯”したい時。
これから、ようやく、実現するね。
豊かな時間を一緒に過ごせるといいな。
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