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「わかりやすさ」の功罪

「このカクテルはね、とても飲みやすいですよ」

バーテンダーがお酒の紹介をする時に、一言目がこれだった場合、ちょっぴり残念な気持ちになります。風味や香りの印象、それから見た目の特徴。そのカクテルの個性を表現することばはいくらでもあります。もちろん「飲みやすさ」という要素は大事です。だけど、一言目に出てくることばではないように思います。カクテルの知識以上に、提供しているお酒に対する愛情を疑ってしまいます。

たとえば、レストランに行ってウェイターから料理の「食べやすさ」ばかりを説明されると、バカにされた気分になりますよね。「やわらかいです」「一口大で食べられます」「消化にいいですよ」。「離乳食でもつくっておけばいいんだ!」と、席を立って帰りたくなります。

これは文章の「読みやすさ」にも言えます。読みやすい文章がダメなわけではありません(むしろ親切です)。ただ、「読みやすさ」だけに焦点を当てるのはいかがなものかと思うのです。文章の内容が先にあって、「読みやすさ」は後にある。そう考えておかないと、思考や感性は平坦化していきます。

とあるバーテンダーの話

「飲みやすい」ということばを最前に持ってくることで、相手に伝わるのはカクテルの「飲みやすさ」ではなく、その人の「乏しさ」でした。

文化とは、豊かなものです。それぞれの個体が多様性のにぎわいを見せる。お酒だってそう。香り一つにしても様々であり、それらの個性を認め、楽しむことが豊かさではないでしょうか。お酒を「飲みやすい」「飲みにくい」で判断しているうちは、文化ではありません。

「飲みやすい」ということばよりも、果実感なのか、爽快感なのか、アルコール特有の香りが穏やかなことなのか、口当たりのやわらかさなのか。それらの愛すべき特徴に光を当てることが先です。そして、それを自分のことばで表現できる人を「バーテンダー」と呼びます。バーテンダーの仕事は、お酒を提供するだけではなく、お酒の魅力を演出する力も求められるのです。

「飲みやすさ」を正義と考えているバーテンダーには、風味の複雑性や長い余韻を魅力的に語ることはおそらくできません。強いアルコール感や、独特の芳香についてをプレゼンテーションできません。内面に文化を育んでいる者こそが、豊かなのだと思うのです。

なぜ、このようなことを書くのか。それは、ぼくが小さなバーを営み、自身もカウンターの中で労働していた経験があるからです(今は現場に立ってはいません)。「バーテンダー」という職業にひとかたならぬ想いがあるのは、バーという空間が、バーテンダーという生き方が、ぼくの人生に大きく影響しているためです。

「わかりやすさ」

「わかりやすさ」を責めているわけではありません。ただ、その前に「豊かであること」が大事なのだと思うのです。

たとえば、哲学書には入門書だけでもごまんと存在します。Amazonで「ニーチェ 入門」と検索しただけでも300以上の書物がヒットしました(それだけで「ニーチェ」の豊かさを感じます)。入門書は、専門分野のエッセンスを抜き取り、「わかりやすく」解説した本です。入門書が案内図となり、原本を理解しやすくしてくれることも事実です。ただ、原本と入門書は別物です。入門書を読んだだけで、その分野のことを理解したと考えることは危険です。

「わかりやすく」とは、単純化することです。つまり、「無駄と思われる部分」を排除し、整え直した状態。当然のことですが、「無駄」は「そう思われる」だけであって、本当の「無駄」ではありません。

たとえば、日本に対する知識のない外国人に、「日本人」という単語が出てくる文章を伝える時には、「アジア人」ということばに直した方が相手にとってはわかりやすいわけです。その外国人にとっては、日本人も韓国人も中国人も同じであり、それほど重要ではありません。これは「わかりやすく」を求めて起きる単純化です。

「わかりやすさ」によって伝わる範囲は広がりますが、それがエスカレートしてしまうと人は考えたり、感じたりすることを放棄します。離乳食だけを食べていると、顎の筋肉は衰えます。「思考と感性が平坦化してしまう」とは、そういうことです。

まずは、「豊かであること」が大事なのではないでしょうか。「飲みやすさ」「食べやすさ」「読みやすさ」を主張するよりも前に、個性の豊かさを認め、楽しみ、表現する姿勢が大切だと思います。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。