教養のエチュード賞を終えて
第一回教養のエチュード賞を終えました。
テーマ自由のnoteを募集した極めて個人的なコンテストです。募集期間は10月1日~31日までの一ヵ月間。結果的に応募総数は155作品にまで上りました。
参加してくださったみなさま、サポートしてくださったみなさま、それからコンテストを盛り立ててくださった全てのみなさまに心から感謝します。
この経験を通して僕はたくさんのことを学ばせていただきました。その一つひとつが普段ならできない貴重な体験でした。その感想と学びについて少し書いてみたいと思います。かなり赤裸々です。中にはネガティブな内容も含まれます。記載するかどうか最後まで迷いましたが、今後、僕と同じような企画を立ち上げることを考えている「誰か」にとって価値のある内容だと判断し、書くことにしました。
実際に、既に類似した企画を立ち上げている方をちらほらとお見かけします。僕としては、いろんな試みが行われた方がnote全体の動きが活発になると思っているので大賛成です。どんどんチャレンジしてほしいです。その際に、僕の経験を何かしらのヒントとして活用してもらえればうれしく思います(特に後半の反省部分は、事前に把握しておくと回避できるのではないでしょうか)。
それでは、順に書いていきたいと思います。
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得たもの
1.出会い
とにかくすばらしい才能と出会えました。賞を贈らせてもらった作品はもちろん、その他にもたくさんの魅力的な作品と才能に出会うことができました。20選に紹介したnoteはほんの一部です。
そこには僕の知らない世界がたくさんありました。今回は賞の対象に当てはまらなかったけれど「同じ書き手として切磋琢磨できるんじゃないか」、あるいは「ゆくゆくは一緒に何かできるかもしれない」と思わせてくれるような才能が、僕の全く知らないところに眠っていました(noteという土壌の豊かさに驚かされました)。
新しい「好き」を見つけるという当初の目的は達成されました。それも想像以上にたくさん。
1.新しい「好き」が見つかる
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2.憧れ
このコンテストが注目を浴びるきっかけがあります。
起爆剤となったのはワタナベアニさんのサポートとそこに添えられた言葉です。アニさんはこの企画を知るやいなや協賛として一万円を贈ってくださいました。何者でもない僕にアニさんのお墨付きがついたことで、一気にコンテストに説得力が生まれました。
嶋津さんが選ばれるものなら、絶対の信頼があります。
アニさんからいただいた言葉は宝物となりました。僕の中では一万円よりもずっと価値があります。だってアニさんは、冗談は言っても、嘘はつかない人じゃないですか。だからこそカッコイイ。
「冗談は言っても、嘘はつかない生き方」に憧れます。それは想像する以上にシリアスな生き方だし、相当なタフさが求められます。置かれた状況に合わせて、適度に自分に嘘をつきながらやりくりした方がずっと楽ですもの。そんなアニさんに背中を押してもらえたからこそ一入の感動がありました。
その時の気持ちはこちらのnoteに綴っています。
2.noteでは、思いがけない憧れとの出会いがある
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3.物語
アニさんのサポートを皮切りに、次々といろいろな方からサポートが贈られてきました。たくさんの人からリアクションが届き、記事を拡散してくれました。
膨らんだ賞金の使い道もみなさんの意見を参考にしました。Twitterのアンケート機能で、賞の振り分けを決めました。この辺りから、このコンテストは僕だけのものではなくなりました。関わってくれた人たちの手によって「教養のエチュード賞」が育てられていく。そんな感覚を味わいました。
詳しい経緯はこちらのnoteに書いています。
3.予想外のスペシャルな物語が生まれる
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4.絆
「このコンテストに応募するということは、ある意味、僕への手紙だと考えることができます。宛先のある手紙には、読む責任が生まれます」
これは開催発表の記事に書いた言葉です。ハッシュタグが加えられ僕の元に届いたnoteは、本当に「僕に宛てられた手紙」のようでした。その手紙は想像以上に、想いが込められていました。宛先のある手紙は、読む責任が生まれます。僕はその責任を背負って、一通一通読みはじめました。
気が付けば、一心に作品と向かい合っていました。告白すると、本当はもっとカジュアルに読み進めるつもりでした。ただ、「僕」という宛先で送られてきた作品たちは、そうすることを許しませんでした。僕は、作品たちに本気にさせられたのです。真剣に向き合わなければ、送り主に対して、いや、作品に対して失礼に当たるような心持ちになったのです。
そして、心を動かされたnoteにはコメントを添えてTwitterで紹介しました。するとその記事を書いたnoterさんから返事が届きました。
コメントがもらえると思っていなかった!
うれしい!
ほとんどはそのようなリアクションでした。相手は見ず知らずの僕から感想が送られてくるとは思っていなかったようです。
書き手は「読み手」を求めています。そして、真剣に向き合った時に出る言葉(感想)は、書き手には伝わります。「読んでもらえることの喜び」を僕も知っています。目に見えない共鳴が起こりました。
「この人たちも僕と一緒なんだ」
できるだけコメントを添えてシェアすることを努めました。Twitterでは常に「応募作品にコメントを求める人」を募集しました。コメントの有無をフェアにすべきだと思ったからです。連絡をくれた人には読んだ感想を返しました。
一つのコメントを書くことに対して二時間以上かけたこともありました。締切の迫る原稿を抱えながら睡眠時間を削ってコメントを考える。自分でも「何をしているのだろう?…」と思ったりもしました。ただ、誠実さというのは回り道の先にしか手に入れることはできません。
結果発表のnoteで「知らない人の文章をここまで集中して読んだのは人生で初めての体験かもしれません」と書いたのは大げさでも何でもありません。そこには全く嘘がないということを僕は自信をもって言えます。
作品を通して、書き手と見えない絆で繋がることができました。それは時に、実際に会って話すこと以上に、分かり合えた感覚に至ることもあります。感想を伝えた中の幾人かは、今僕が書いていることに共感してもらえるのではないでしょうか。僕は「最良の書き手」でありながら、「最良の読み手」であろうと努めました。
4.作品を通して、書き手との絆が生まれる
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5.発見
155作品と真剣に向き合う上で、大きな気付きがありました。それは文章におけるテクニカルな発見。言わば「読ませるコツ」のようなものです。
送られてきたnoteの中には大きく分けて「読みはじめてから最後まで駆け抜けるように一気に読んでしまう文章」と「途中で休憩を挟まなければ読み進めることができない文章」の二種類がありました。
前者のアカウントには共通する部分がありました。それは「フォロワーが多い」ということでした。
失礼を承知で正直に言います。全てではないにしろ後者の文章の多くは、このコンテストの応募作品でなければ(つまり「読む」という責任が課せられていなければ)途中でタブを閉じていたように思います。最後まで読むことなく。
ただ、僕の言いたいことの本質はそこではなく、次にあります。
読むことに苦労する文章でも、最後まで読めばおもしろい。
つまり、「誰もが価値のある文章を書いている」ということです。場合によっては前者の文章より、後者の文章の方がはるかに心を揺さぶることさえあります。両者の違いは「磨き方」にありました。それぞれ価値のある原石なのですが、その磨き方の精度で、最後まで読まれるか、途中で飽きられるかが決まっているのです。
そして、それは僕が今までに自分自身が抱えていた「悩み」と同じでした。
※この詳細は知りたい人と「別にそんなこと偉そうに言われたくないよ」と思う人に分かれる内容だと思いますので、後日有料noteとして公開します(もちろん具体的な作品や作者の名前などは挙げません)。
5.人に読まれるコツがわかる
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6.交流の場
応募作品が一定数集まると、参加者同士がそれぞれの作品を読み合ったり、お互いに感想を言い合ったり交流が生まれます。集まった作品に触れ、刺激を受けて「自分も力のある作品を出したい」という想いに駆られる。その相乗効果で応募作品の質は高まっていきました(もちろん全員が作品を読んでいたわけではありませんが)。SNS上でみなさんがやりとりをしているのを見て、心があたたまりました。
すると、突然「このコンテストのおかげで特別な作品が書けました」という言葉が届くようになります。僕は文章を書く〝きっかけ〟をつくったに過ぎません。書き手はそれぞれのクリエイティビティを発揮し、めいめいに思い入れのある文章を書き上げました。そして、有難いことにお礼まで言ってくれるのです。
6.コンテストがプラットフォーム化し、参加者同士の交流や刺激が生まれる
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7.責任
全ての作品を読み終えた後は、選考がはじまります。改めて応募作品を熟読していきました。正直なところ、ここからの作業は辛いです。
「選ぶ」苦しみを味わうことになります。僕に宛てられた手紙(それは何度も読んで愛着が生まれています)を選ばなくちゃいけません。僕は「選ぶこと」の専門家ではありません。元はここに応募してくれたみなさんと同じ「書く側の人間」です。
応募が終わった11月のはじめから、僕は胃をキリキリさせながら再読に取り掛かりました。
7.課せられた責任の重さは想像以上
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8.判断力
結果発表の数日前、コンテスト参加者の中から「教養のエチュード賞の予想」について言及されたnoteが公開されました。
TL上でそのnoteを発見した時「おもしろい」と思いました。それはそれは素直に。「嶋津さんは読まないで」と記載してありましたので、具体的な内容は見ませんでした。
でも、そのことに対して快く思っていない人がいたようです。その人たちの意見は「この予想評で主催者の選考に影響が出る」というものでした。つまり、「この投稿によって僕の選考基準が変わる」と思ったようです。ただ、僕には「自分の軸で選考する」自信がありました。
これは、僕の「好き」を見つけるための賞だからです。
コンテストを開催した最大の目的です。他の人に影響を受けていたのでは、意味がありません。あらゆるコンテストには予想が付き物です。「予想」も含めてエンターテイメントだと考えました。ですので予想noteが出た時、「おもしろくなってきた」という実感がありました。
ここで断言しておきますが、予想noteを公開した人は全く悪くありません。その方はDMで「もし不都合であれば取り下げます」と丁寧に仰ってくださり、それに対し、僕は「全く問題ないです」と答えました。
実際に、僕は自分自身の判断でそれぞれの賞を決めました。
ただ、冷静になって考えてみると「もう少し慎重であるべきだった」という想いもあります。みなさんは僕のことが何者か知らないわけですよね。予想noteを公開した人の方が僕よりも影響力のある方でしたから、たとえ僕が自信たっぷりだとしても、周囲が不安になるということは理解できます。
僕のことを知らない人に「僕を信じて!」と言ったところで、それは土台無理な話です。少なからず混乱した人がいることは事実ですのでしっかりと受け止め、次に繋げたいと思います。
ここは今後の僕の仕事ぶりや行動を見てもらってみなさんに判断してもらうしかないと思っています。
8.参加者が不安を抱くような要素はできるだけ排除する
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9.選ぶ
もし忖度が起こるのであるとすれば、それは予想評よりも、サポートしてくださったみなさんの顔です。選ぶ側の立場に立って、はじめてわかることがあります。
最終的に各賞を選ぶ時、サポートをくださった顔が浮かびました。みなさん「嶋津さんが選ぶなら」と仰ってくださいましたが、一瞬「みんな納得してくれるかな?」と思いました。しかし、ブンブン首を横に振って、自分自身を信じました。この体験によって、僕は明確に強くなりました。
個人的な賞でさえそうなのだから。これがスポンサーや会社の看板、名誉が両肩にのしかかれば、自分の一存で賞を決めることは本当に難しいことだと思います。賞の規模が大きくなればなるほど(オリンピックのロゴなどはその最たる例かもしれません)。この体験から、僕の中で一つの答えが出ました。
権威のある賞には忖度がある。
「美人投票」という言葉をご存知ですか?金融用語です。
「最も投票数の多かった人に投票した人に賞金を与える」というルールの元、100枚の写真から美人だと思う人に投票してもらう。すると、投票者は自分自身が美人と思う人へ投票するのではなく、平均的に美人と思われる人へ投票するようになる。
これが起こります。自分が選ぶことより、「この賞らしさ」や「外野からのクレーム」に備えて判断するようになります。結果的に「この人を選んでおけば間違いない」と波風が立たない着地が目的化します。
教養のエチュード賞のグランプリは山崎嘉那子さんの作品でした。僕は自信をもって山崎さんのnoteがいいと言えますが、理由をちゃんと言えないんです。結果発表のnoteにもそのように書いています。とても感動したのに、それを「言葉で説明しろ」と言われるとうまく表現できない。
理由を言えないものを選ぶということは、とても勇気が要ることでした。ただ、簡単に言語化できてしまうものが自分の新しい「好き」であるわけがありません。僕は自分自身に忠実でいることができました。そして、今回、賞を贈らせていただいた5名(グランプリ、副賞、プリマドンナ賞)に対して、僕は自信をもって「すばらしい」と言えますし、「大好きです」と断言できます。
9.選ぶ人の気持ちがわかる。
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10.感動
結果発表をした瞬間、たくさんの人が「喜びの言葉」と「労いの言葉」を贈ってくださいました。中にはサポートをしてくださる方もいて、とても幸せな気持ちになりました。
僕がみなさんに感謝をしたいくらいなのに、みなさんが僕に感謝の言葉を贈ってくれました。僕はこれまでイベントの企画をいろいろやってきましたが(執筆業以外にもオフラインではイベントの運営などもしています)、また違った達成感がありました。
このコンテストがきっかけで、新しい出会いがあり、新しい作品が生まれ、新しい絆が結ばれました。それが僕だけでなく、参加してくれた方々の間でも起きていたということに感動を覚えました。みんなが笑顔になってよかったし、真剣になった瞬間があってよかった。僕は自分のことでもそうですが、誰かが「真剣」になっている瞬間が好きなようです。真剣なものを見ていたい。ゆるいものが嫌いなのではなく、「真剣」はゆるい文体にも、不合理な物語にも込めることはできます。つまりは、心の問題です。
10.「真剣」のある場所をつくる
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11.反省こそ宝
結果発表を終えた後、メンションをつけて僕にネガティブな言葉を投げかけてくる人がいました。何度か無視していたのですが、翌日にもメンションをつけて「文句のようなもの」を投げかけてきたので、TL上で直接リプライを送りました。全然知らない所で文句を言う分には僕から話しかけることはありませんが、メンションをつける(@RyotaShimadu)ということは、僕の反応を求めていると思ったのです。
「申し訳ないことをしたなぁ」と思いました。「誰も傷つく必要がない」と謳いながら、このコンテストがきっかけでひどく傷ついた人が出たのです。僕はその人に謝りました。それから、これは優劣じゃないという旨を伝え、僕にとって応募された155作品は全て大切なものだと述べました。
話し合いで解決できるなら、気持ちを伝え合ってみたかったのです。お互いの想いがある。あらゆるトラブルでも話し合いでお互いが納得できる部分は必ずあると僕は信じています。このことは、次に繋がる課題だと僕は前向きに捉えていました。
するとその相手から「無視してほしかった」と言われました。そこに関係のない第三者が出てきて「無遠慮が過ぎないか?あなたは無視をすべきだ」という意味合いのことを言われました。「じゃあどうしてメンションを付けてきたの?」と聞こうと思いましたが、やめました。その時になってはじめて、僕は大きな勘違いをしていたことに気付いたのです。
相手は「解決」を求めていない。
問題を解決しようと思った僕の間違いでした。相手は解決なんて望んでいないのです。ただただ、「ちくしょー!」と叫びたかったのです。それがたまたま僕に向かって飛んできただけのことです。
何かをやるのであれば、ガス抜きができる場所もあらかじめ用意していなければいけません。全員が「解決」を求めているわけではなく、ただただ叫びたいように叫んでもらえる場所もデザインする必要があります。僕は「相手に真摯でいたい」という想いが強かったのですが、そのことが反対に相手の逃げ道を塞ぎ、窮屈な想いにさせることにも繋がっていたように思いました。時には逃げ道をつくってあげることが本当のやさしさなのかもしれません。
結果的に、その人とはDMでやりとりをしてお互いの気持ちを伝え合うことができました。意外にも僕の反対の立場から、僕と同じようなことで不安を抱えていたようで驚きました。あの時、話しかけてよかったと思っています。
この予想外の体験もまた、僕にとっては大変価値のある経験でした。本当の意味で価値のあることは、常に予想外のところからやってきます。
11.愚痴を叫べる場所をつくる
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12.賛否両論
それよりももっと驚いたことがありました。そのちょっとしたいさかいの後、違う人がnoteの記事でコンテストについて言及しました。
選ばれる、選ばれない問題。僕に「文句のようなもの」を投げかけてきた人に対して励みの言葉という形式をとって、感情に訴えかけるような文章で今回のコンテストを批判していました(明らかに教養のエチュード賞のことを書いていたので、僕もこの記述をしても問題ないと判断しています)。
「え?そんな後出しじゃんけんある?」
ショックでした。言うなら、直接言って欲しかったし、参加もしていない人がよくそんなこと言えるなって正直思いました。その記事に賛同している人もたくさんいました。人のフンドシで相撲を取ってカタルシスを得る。とある人が「評論家が嫌いだ」と言っていた理由がよくわかりました。ただ、当事者でなかった頃の自分ももしかしたら無意識にそのようなことをしていたかもしれません。
あなたが何かを起こす時、きっと、こういう人は現れます。
僕が何より気がかりだったのは受賞したみなさんが肩身の狭い想いをしていないかということです。彼女ら(彼ら)の作品は僕が選んだことに関係なく、すばらしいのだから。
蔓延する空気の怖さ。幾多もの批評や関心の目にさらされてきたプロの作家さんであれば、その豊かな経験値から取るべき態度がある程度わかると思います。そして、それは時間が経てばある程度マイルドになることも。
でも、このコンテストに参加したほとんどの人はそのような経験をしていません。個人が運営するとても小さな賞ですが、受賞者にとってはその瞬間は少なからずスペシャルな時間です。その時くらいは手放しに喜んでもらいたい。
「選ばれない」ことに関する言及は当然議論の対象になって良いと思うのですが、ただ、「選ばれた人の喜び」を奪う権利は誰にもないと思います。
選ばれた人は、選ばれる前よりも「書く」ということの自信を得たのだから。その自信を僕は応援したい。
その時は少なからずショックを受けましたが、そのおかげでさらに多くの出会いややさしさにも触れることができました。結果的に感謝する相手が増え、さらにはこのコンテストのことが良くも悪くも話題に挙がりました。
何か新しいことを立ち上げるあなたはこのことを忘れてはいけません。
12.悪口だってエンターテイメント
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長々と失礼しました。
当初、一晩で書いたこのnoteは10,000字を超え、翌日5,000字まで削り、その後、増えたり減ったりを繰り返し最終的には「もう読まれなくてもいいや」と8,500字に収まりました。ただ、この反省文は未来の誰かに向けて価値があると信じています。
新しい「好き」を発見できた喜び、新しい才能との出会い、コンテストで生まれた予想外のストーリー、幾多もの感動だけでなく、胃のキリキリも、いくつかの罵倒もまた、僕が得た財産です。
これはプリマドンナ賞を受賞したillyさんがつくってくれたマガジンです。
ここに書かれている言葉をいただけただけで「やってよかった」と思いました。僕が表現する文章だけでは決して得られない言葉だから。参加してくれた人、サポートしてくれた人、読んでくれた人、楽しみにしてくれた人、悪口を言ってくれた人、全てに心より感謝。
第二回教養のエチュード賞は十二月にお会いしましょう。
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後日、『言われたことを、やればいい。』という教養のエチュード賞が生まれた経緯の記事を書く予定です。タイトルはもちろん田中泰延さんの名著『読みたいことを、書けばいい。』のオマージュです。「読みたいこと」がある人は、そのまま書けばいいと思いますが、そもそも「読みたいこと」がない人は、どうすればいいの?というお話です。本書と同じように、答えは既にタイトルにある通りですが。誰かにとって価値のある記事になると思います。
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