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水の中のナイフ

確かロマン・ポランスキーの映画にそのような作品があった。

キャンパスに行かずに窓の外にぽつねんとたたずむ花の咲く庭を眺める日々を過ごした。『Nóż w wodzie』というタイトルに惹かれ、ぼくは何度もその映画を観た。好きな名前である。

「名前に惹かれる」ということがある。ぼくにとってアントニオ・カルロスジョビンの『三月の水』もそうだった。旋律よりも先に『Águas de Março / Waters of March』という響きに心をくすぐられた。何度も聴いているうちにからだが歓びを覚えていった。

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フランソワ・トリュフォーの『柔らかい肌(La Peau douce)』、ジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女(A Woman Under the Influence)』、クロード・シャブロルの『甘い罠(Merci pour le chocolat)』、フェデリコ・フェリーニ『甘い生活(La Dolce Vita)』。

大学にいた数年間、ぼくは映画を浴びるように見た。それは音楽を聴くように、という形容の仕方をした方が正しいかもしれない。思考とは糸がつながっていない状態で、ひたすらに浴びた。好きな名前から順々に。

いまや微かな記憶でしか残っていない。作品の断片と、タバコの匂いがそこにあるだけで。それ以上のなにものでもなかった。一年間で1000本くらい見た。その全ての印象は「名前」に託されていたのかもしれない。

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そして、ぼくは吉田拓郎を聴いた。ことばを食べていた。『イメージの詩』にはじまり、何周もしてから辿り着いた場所はやはり『イメージの詩』だった。ぼくは新しい水夫に憧れた。新しい海のこわさを知ることを臆病なのだと、その時はそう思っていた。

いつからだろうか。意味を求めはじめるようになったのは。理由を探すことで、少しだけ賢くなったような気がする。でも、もうぼくはあの時のように、小説や映画を音楽のように味わえないようになってしまった。大切なものをなくしてしまったような気がする。

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ずいぶんとつまらない人間になったもんだ。もうぼくは水夫には憧れない。純粋に「名前を味わう」ということができない。意味を探し、理由を想像する。ぼくの中で人工的な「感動」が製造されていく。

それがどうしたというのだ。それがどうしたというのだ。それが一体どうしたというのだ。

ぼくが求める答えはそんなところにはない。まだ触れられていない瞬間のきらめきにある。名前がつけられる前の、心の機微にある。それは風のようであり、波のようであり、虫の声のようであり、釜から吹き出す米の甘やかなかおりのようである。

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しばらくの間、旅に出ようと思う。



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