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「じぶん」について

ぼくという人間は、人の話を聴く人であり、文章を書く人であり、おいしいコーヒーを淹れる人です。

ダイアログ・デザイナーという肩書で、対話をデザインしてそこから生まれる発見に価値を与える仕事をしています。「対話をデザインする」というのは、対話そのもの、あるいは対話のある場をしつらえるということです。それはインタヴューよりも対等な距離感で、声と思考を調合しながら、まだ目に見えていない(あるいは声に聴こえていない)ものを引き出す仕事です。

なんでも書きます。小説も書くし、詩も書くし、手紙も書くし、依頼された文章も書きます。ストーリーとナラティブを行ったり来たりしながら、それをことばで表現します。ことばを磨くことは、生き方を磨くことです。言い換えると、哲学的な問いに対して向き合い続けることは、ことばを洗練させていく行為でもあります。「いかに生きるか」と「じぶんのことばを獲得すること」は同義語だと考えます。詩人として生きることが目標です。

「話し相手になる詩人」というのが理想で、いてもいなくてもこれっぽっちも世界に影響を与えないけれど、いなくなるとちょっと淋しい個人的な存在でありたいと思っています。

おいしいコーヒーを淹れます。コーノ式のハンドドリップ。紙です。豆の味を濃縮して引き出します。ぼくは小さなバーを営んでいて、八年ほどバーテンダーとして現場にも立っていました。カクテルのつくり方は、ぼくの考え方と直結しています。材料を混ぜて、一体化させる。互いの長所を引き出し(あるいは短所をカバーさせて)、新しい世界観をつくりだす。いかにも対話的です。素材の声に耳を傾けながら、潜在的な風味を引き出し、一つにまとめ上げる。調和されたものを好みます。

そこから、あまねく「飲み物をこしらえる」という行為は、同じことが言い得るのだということに気付きました。誰かが淹れたコーヒーを味わうことは、その人を味わうことと似ています。道具の扱い方や、ふとした所作や、豆との呼吸、コーヒーの味で、会話せずともどういう人なのかがなんとなくわかります。つくり方を見れば、おおよそわかります。そこにはことばは不要です。

ことばは思考が結晶化したものなので、扱う時は慎重さが求められます。「伝わり過ぎる」というリスクが伴うからです。しかし、ことばがなくとも対話は成立する。味わうように五感で観察すれば、しっかりと受け取ることができる。そこから導き出される一つの答えは、「対話」はことばだけの特権ではないということです。

過剰な崇拝やへりくだりは好みません。横並びに、敬意を持って、接したいと考えます。本来、「尊重する」ということはそういう意味だと思うからです。

朝起きると、詩や短歌を朗読します。美しいことばを声に通すことで、身体のコンディションが整います。それから豆を挽いて、コーヒーをドリップします。その工程の中で、こころの状態を観察します。

それから仕事に取り掛かります。人と会いに行く時もあれば、家の中でひとりでことばを並べるだけの時もあります。

教養のエチュード賞というコンテストを開いています。文章によるコンテストで、テーマはありません。各々が、書きたいことを出して、それをぼくが読む。今回で三回目となっており、それはぼくのライフワークにもなってきました。「読みたい文章を読む」のではなく、「届いた文章を読む」という。このコンテストを通して、ぼくはじぶんの中の新しい「スキ」を発見します。

思いの外、力強い作品が届きます。それらの文章に勇気をもらい、ぼくは人生を一歩前進させる作業にとりかかります。その一つが本の制作で(誰に求められたものでもなく)、十五万三千七百十三文字と格闘しています。最終的な推敲に入っております。

次に進むためには、今目の前にあるものを形にする必要があります。それは人生のあらゆる場面に言い得ることができるのではないでしょうか。覚悟とは、そういうものであるかのように思います。

妻と娘と二匹の犬と一匹のハリネズミと二匹のカナヘビと暮らしています。妻は十八歳年上で、娘は彼女の子どもでぼくと三つしか年齢が変わりません。とてもおだやかで、あたたかい家族です。このユニークなチームこそが、ぼくの最大の幸福です。全てなくなったとしても、このチームさえいれば、まだまだがんばれます。

この特殊な構成のためか、ぼくにはほとんどと言っていいくらい偏見がありません。それは詩人として生きるための大切な要素だと、最近になって思います。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。