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「自分」を見失った人へ

日々、ぼくたちは人と関りながら生活しています。

人との関係性の数だけ、自分がいて。それは確かに「自分」でありつつも、ピュアな「自分」というわけではなく。また、現実との結節点に存在する「自分」と、想像の中に息づく「自分」は同じようでいて異なる存在かもしれません。

そうなった場合、ぼくたちは常に複数の「自分」を抱えて暮らしていることになります。社会との関わり合いの中で、その編み目になめらかに溶け込むために、どこか「自分」を演じている場合があります。それは、果たして嘘の「自分」なのか、あるいは、それもまた紛れもない「自分」の姿であるのか。

ぐうたらな考えを持つ「自分」。それを律して、背筋を伸ばす「自分」は、本当の「自分」ではないのでしょうか。ぐうたらな「自分」から脱却しようともがく「自分」は、自分らしくないのでしょうか。

複数の他者との関係性から、相対的に「自分」を浮き彫りにさせることで、「自分」のことがよくわかったりすることもあります。他者との相違点や距離感によって導き出される社会的な「自分」という存在。

しかしながら、社会との関わり合いの中にいる「自分」を後追いすることによって、「自分」が見えなくなってしまう場合があります。表現を換えれば、「自分」が薄れていくようなイメージです。

人との関係性の数だけ、自分がいる。冒頭のことばですが、他者との関係性の中で、相手の存在によって「自分」が薄まっていき、「自分」のことがわからなくなることがあります。まるで蝕まれているように感じることもあるでしょう。無意識のうちに風化していることもあるでしょう。人との関係性の中に「自分」を見出すのではなく、「自分」が他者によって満ちていくイメージかもしれません。

不安だと思います。心許ないでしょう。そうしている間に、現実との結節点にいる「自分」が何者なのかわらかなくなり、それは想像の領域まで他者の存在に塗り替えられるような気持ちになることだってあるかもしれません。そのことに対して疑問を抱くことさえなくなってしまったかもしれません。

人と人との関わり合いの中でしか、ぼくたちは生きることができないと思っています。ただ、社会の中で自分自身がちっぽけに思えることもあるでしょう。「自分」という存在を見失うこともあるかもしれません。

そういう時は、文章を書いてみてください。自由気ままに。思ったこと、感じたこと、体験したこと、想像したこと。箇条書きでもいい、小説でもいい、詩でもいい。誰に見せなくてもいい。ただ「自分」のためだけに書くことば。

それこそが、自分らしくいられる場所です。自分を見失わない方法です。自分が今ここに存在するという証です。社会の中でどれだけ薄まっていこうが、その場所では、れっきとした「自分」でいられる。

その世界さえ大事にできれば、人との関係性を構築する中で、「自分」を見失うことはありません。

「自分」を何より、大事にしてください。



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