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ジェネリック崩れ

最近、思うこと。

ここ数年で最適化、効率化、合理化のテクニック論が溢れた。次から次へと効率重視のシステムが考案され、一瞬で広まり、みんながそれを利用する。簡単な話、PDCAサイクルみたいなことをぐるぐる回してアイデアをポンポン吐き出し、実践と改善で質を高めていく。それは確かに価値があることで、そのマニュアルに沿って実行していれば頭がよくなっていく。

でも、「頭がいい」って何だろう?

「ジェネリック医薬品」というものがある。特許の切れた医薬品を他社がつくった薬。有効成分は同じ。このジェネリックという概念は昔から存在し、それによって人類は進化してきた。最近では、コンビニがメーカーの商品をどんどんジェネリック化している。カルビーの「あれ」みたいなお菓子や、日清の「あれ」みたいなカップ麺が平然と自社ブランドとして陳列棚に並ぶ。消費者はジェネリック商品の方が安いからうれしいだろうね。

揺り戻し

別にノウハウを発見したり、広めたり、それを利用することが悪いと言っているわけじゃない。むしろ、それは社会全体のためには大きな価値がある。でも、それは大量のジェネリックを生み出しているだけなんじゃないかな。少しいじわるな言い方だけど。確かに全体の能力は上がる。でも、誰かと同じ方法で得た力は、誰かと同じ結果しか生まない。要するに、最初にそのシステムを発見した人、あるいは広めた人しか、そういう意味での価値はない。

憧れ

で、考えてみた。自分の「憧れ」。自分が尊敬する人。そうすると、気付いたことがある。僕は「最適化と効率化と合理化を追求した人を好きになったことがない」ということ。みんな不器用だったりする。右の道の方が絶対得するのに、自分の生理的な「何か」を信じて左を選んでしまうような人。要するに、変な人。ジェネリック商品をつくる時に、出てきたら1秒もかからずはじかれるような人。

おばあちゃんの知恵袋

つまらない言い方をすると「最適化、効率化、合理化はコモディティ化する」。たとえば、今右手に持っているiPhoneになる。この小さな四角いコンピュータには価値があるけど、それ以上の特別な価値はない。この数年でみんなが持つようになったからね。生まれた頃からiPhoneが存在する世界にいる人にとっては、その価値さえもそれほど気にしていない。それは、僕たちにとってのテレビや洗濯機みたいなものに過ぎない。「便利だけど、それがどうしたの?」という。壊れれば、買い直せばいい。バージョンアップしたら、買い直せばいい。気分が変わったら、買い直せばいい。

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「じゃがいもの皮で鏡を磨くときれいになるよ」とおばあちゃんが言う。実際に磨いて見ると、ピカピカになった。すごいでしょ?

「何が言いたいのだろう?」と思いながら読んでほしい。「じゃがいもの皮で鏡を磨くときれいになる」という情報はきっとネットでもすぐに出てくると思う(調べてないけど)。じゃあ「おばあちゃんの知恵袋はいらないのか?」というと、そんなことはない。僕は「大好きなおばあちゃんだから」話を聴いた。この人の人生から出た言葉におもしろみを感じた。この人の気の利いたライフハックに愛着を覚えたんだ。内容よりも関係性の話。詰まるところ、僕にとっての〝おばあちゃん〟は買い直せない。

最短距離

効率を考えることをやめてみた。今、教養のエチュード賞の応募作品の全てに感想を書いている。周りの人から「大変でしょう」「読んでくれてありがとう」「無理しないでね」とあたたかい言葉が届く。でも、多くの人はこう思っていると思う。「結局、何がしたいの?」。その問いに対する最も適切な答えは「わからない」だ。

ただ一つ、「この人、頭がおかしい」と思ってもらえれば僕の勝ち。僕は、ジェネリック商品を製造する中で、一番にはじき出される存在になる。あまりに不器用な方法かもしれない。ただ一つ決めていることがある。作品の感想には絶対に手を抜かない。決して嘘はつかない。おべんちゃらで書くようなことはせず、思ったことだけを真剣に書く。それは僕なりの誠意。そして感謝。

最短距離で目的地に向かうことはやめた。寄り途をすることにした。僕の好きな人はみんなバカみたいに寄り途をしている。でも、「行為」に対しては真面目なんだ。冗談も言う。自分のことを「怠け者」だとも言う。でも、信念に対する「行為」は神聖さを感じるほどの姿勢を見せる。

それが誰かの笑顔に繋がれば、なおいいよね。




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