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「おわり」は突然、来るかもしれない

楽しい時も、苦しい時も、おおらかな時も、せわしない時も、毎日文章を書いてnoteに投稿しています。いつの間にか150日を超えました。

「えっへん」とちょっぴり得意な気分になれるような文章が書けた時もあれば、頭をひねって言葉を絞り出したような文章を書く時もあります。いくら心の中でえばっても、はたまた冷や汗をかいたとしても、日が明けるとまた0に戻る。新しい気分でPCと向き合います。

今夜はオンラインCafeBarDonnaにふみぐら社さんが来てくれました。ぼくとふみぐらさんは「ことばのアトリエ」という工房を所有していて、ぼくたちの話を聴きたい人(同じ空間で過ごしたい人)を集めて、対話と音楽に満ちた時間を過ごしました。

なんていうんでしょう。好きなんです。ふみぐらさんの中に流れている時間と思考が。さらさらと森の中を駆け抜ける風みたいに、先に「感じる」があり、少し遅れて音がやってきて、ふわふわとリバーブしている感じ。つまりは心地よいってことなんだけど。

最初に掲げるテーマは確かにあるのだけれど、ぼくとふみぐらさんの話は横にスライドしていく。中心に向かうのでなく、「余談」みたいなものが盛り上がりを見せ、道草が冒険になり、気持ちよさそうに飛んでいく蝶々を追いかけて彷徨い、洞窟を抜けるとはじまりの場所に出てくる、みたいな。

「わからない」を所有する

一応、ぼくたちは大人だから「答え」を見つけようとするんだよ。でもね、そう簡単には見つからないってことも知っている(簡単に見つけられるものならとっくに発見しているはずだから)。「わからない」を受け入れ、「わからない」を抱えたままお話をする。それが楽しい。「わからない」ということをわかっている。耳の奥の方でずっと思考は動いているんだ。何万年単位で起こる地殻変動みたいなはやさで。

話していても、聴いていても、沈黙を味わっていても、ぼくたちは思考する。土いじりのさなかでも、コーヒーをドリップしているさなかでも、文章を書いている。検索しても出てこない答えと向き合い続けている。

かっこつけて表現すると、ぼくたちは詩人であり、哲学者なんだ(ね)。「わからない」ものは「わからない」んだ。傍目には詩人も、哲学者も、何をやっている人なのかよくわからないよね。ただ、精神的なスタンスはその辺が似ている気がする。

だから、草むらのきりぎりすのように話があちらこちらに飛び跳ねようが構わない。ギーギー鳴きながらぴょんぴょん跳ねる軌道に心奪われ、「きれいだね」なんて言っている。

だから、話し終えた時には「わくわくしたなぁ」という感覚になっているんですね。「よし、何か書こう」って。

誰に決められたわけでもなく、なんとなくでの「自分との約束」で毎日更新を続けています。ふみぐらさんと話して楽しかった。集まったみなさんと素敵な時間を過ごした。それでも「おわり」は突然やってくることがあります。

「このままずっと続くだろう」と思っていても、あっけなく書けなくなるかもしれない。それは人生に置き換えても同じことが言えますよね。だから結局のところ「今日」という一日を大切にしなくちゃいけないのだろうなって。

未来のことを考えることももちろん重要だけれど、「今」をせいいっぱい生きる、煌々とした輝きを放とうとするその姿勢だってずっと大切で。そういう気分でこれからも書いていきたいと思います。いつおわってもいいようにね。




「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。