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やわらかいことば

仕事をしていると時々、悲しい出来事が起きます。

たとえば、同じ文章の仕事でも、「ぼく」に依頼してくれる人と、「ライターとしてのぼく」に依頼してくれる人では扱われ方は大きく違います。「ぼく」に声をかけてくれる人は、ぼくの書く文章を求めてくれていて。「ライターとしてのぼく」として接する人は、「ライター」としてしか見ていない。まぁ、当たり前のことなんだけど。

「ぼく」をひとりの人間として見てくれている人と、「ライター」を一律に見ている人では、全く違うよね。

思い返してみれば、「ぼく」に声をかけてくれた人は、ぼくの文章にある「想い」みたいなものに共感してくれていて。「ライター」としての機能性だけを求めている人は、ぼくの「想い」は邪魔になる。「ただ、言う通りにしてくれればいい」ということ。それって、ぼくである必要はない。

そういう人はおしなべて、その職能に対するリスペクトはなく、「誰と仲が良いか」みたいなところばかり見ていて。とても悲しい気持ちになる。

そして、「ただ、言う通りにしている」と、「ぼく」に声をかけてくれた人は、離れていくんだ。だってもう、それは「ぼく」ではなく、いち「ライター」に過ぎないから。

みんな、こういうことで悩んでいるのかな?ぼくには仕事のことを相談できる「ライター」の友だちがいないからよく分からないけれど。ぼくは本当に不器用だと思う。そういうことを両立させて上手に生きている人もたくさんいるのだろう。上手にできない。というか、「上手にしたい」と思えないんだよ。

だから「ライター」と名乗ることはもうやめようと思う(今も肩書にはしていないけれど)。「ライター」の技能を磨くより、「ぼく」という人間を磨いた方がいい。

好きな人としか仕事しない。それ以外は、好きなように書かせてもらえる仕事しか受けない。それで書く仕事が減ったとしても、こころが削れるよりはずっといい。それより、良き仲間と、つくったモノの価値を上げたり、広く届けたりすることを工夫する方が楽しい。モノづくりに、コトづくり。もはや「書く」だけが仕事じゃない。

やわらかいことばや、想いを込めたことば。小さいかもしれないけれど、そういうものに満ちた世界にしたい。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。