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反省エンターテインメント

「上達とは何か?」について考えている。

エチュード。それは、技術の精度を高める訓練。工夫して、試して、失敗して、反省して、改善する。その繰り返しが、エチュードの質を高める。一つの技能が高まれば、それは汎用性を伴って、他の分野にも影響を与える。訓練の本質を獲得した人は、それをあらゆる行為に応用できるということ。

人間は「道具」を通して、真理を探究する。漠然と考えるのではなく、道具と行為によって、鉱脈を発掘する。それは実感を伴う運動であるから、教科書を読んだだけでは、本当の意味では獲得できない。仕事でも、趣味でもいい。釣り人は釣魚で、飛行機乗りは航空機で、音楽家は楽器で、弓道家は弓で、演劇人は演技で、本質と構造を理解してゆく。

わたしは、対話でそれをする。

上達は、再現性の獲得と創造性の発育の二軸がある。

合理化、最適化するための論理と、常識を越境するための破壊。喩えるならば、教科書から学ぶ行為と教科書自体をつくる行為。これは「守破離」としてよく語られる。ざっくり言えば、“型”の獲得と破壊。収斂してゆく訓練と、拡張してゆく訓練は質が異なる。それをわけて考えることができると、「何をもって上達とするのか」がわかりやすくなる。

この“上達”という感覚が好きだ。訓練が好きというよりも、上達が好き。工夫して、試して、失敗して、反省して、改善する。この循環の中で、練り上げるように育まれてゆくもの。

もしかすると、わたしは“上達”が好きなのかもしれない。

エチュードを繰り返すのは、そのためであって。“上達”の存在しない行為に興味がない。時々、“無駄”と思われる行為をすることも、先を見越したある種の“破壊”を求めた結果のような気がする。上達に必要な成分は、大量の失敗体験と意思決定。それを材料に、反省して、改善して、工夫する。そういう意味でいうと、わたしの“対話”というライフワークは「成立させるための行為」というより、「反省するための採集行為」のような気さえする。

反省は楽しい。
孤独の中で、静かに思考する。
これがわたしの反省エンターテインメント。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。