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神とサドゥー

インドを旅した時、一人のサドゥーと出会った。

彼は通りを往来する人に向かって、一人ひとりに挨拶していた。わたしが前を通りがかると、彼は合掌して、わたしに小さく「ナマステ」とつぶやいた。その丸い瞳は、確かにわたしに向けられていたが、焦点が合っていなかった。

わたしが話しかけると、彼は答えてくれた。よくわからない東洋人に声をかけられて、何一つ動じないサドゥーの在り方に惹かれる。「何をしているの?」と訊くと、彼は「神に挨拶をしている」と答えた。

最初、それが英語だとはわからなかった。くせのある発音に、ことばはジェンガみたいに積み上げられては崩れていった。修行に身を置いている者は、ヒンディー語しか話せない人は多い。「わたしは神様なの?」と訊ねると、彼はこう答えた。

「あなたではない。あなたの中にいる神に、敬意を」

きれいは汚い、汚いはきれい

人間の美しい営み。愛すること、微笑むこと、料理すること、音楽を奏でること、対話すること。美しさを拾い集めて、そのきらめきを一つひとつ愛でる。美しさとは何か、あるいは、醜さとは何か。

誰のこころにも、感情の種がある。怒り、妬み、恨み、僻み。それらは、醜いのだろうか。“人間らしさ”と捉えれば、愛おしくも思える気がする。相手のことであれ、自分のことであれ。

未熟さをただ受け入れること。それは、あぐらをかくことではない。焦点をずらすことで、その先が見えることがある。“いじわる”な感情や行為に目を向けるのではなく、その奥にある人の気持ち。同じ種を持っていれば、少しだけ愛おしく思える。

人間の営みを知ること。そして、その者が宿した“感情を司る存在”に敬意を抱くこと。インドで出会ったあのサドゥーがわたしの中の神様に挨拶をしたように。焦点をずらせば、緊張はほぐれてゆく。

美しさとは何か、醜さとは何か。それは、太極図のように陰陽合わせて一つのからだを獲得するのかもしれない。

あのサドゥーは、今どこで何をしているのだろう。
苦行を積み重ねた果てに、カルマを打ち破ったのだろうか。


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