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飲み物にさえ〝人間〟が出る

神戸の旧居留地、地下への階段を下りたところに一軒のカフェがあります。

もう数年前のこと。
あいにくのスコール。
雨から逃れるために、その店へ入りました。

ガトーショコラみたいに、重心が低い位置にある雰囲気。
深みのある暗色で店内は彩られていました。
カウンターにはマスター、そして客は僕と妻の二人。

そこで注文したコーヒーがとにかく美味しくて。
お客さんがいないことをいいことに、雨脚が落ち着くまでマスターと話し込んだ記憶があります。

マスターの経歴が興味深くて、もともと神戸の人で、珈琲豆を焙煎や販売したりする店で働き出したことがきっかけで。
母親も喫茶店を経営していて、それが今の場所だったらしく(僕の記憶が曖昧なので改めて整理して文章にしたいと思っていますが)。
ひょんなことからカナダに移り住み向こうでカフェを開いたり、阪神大震災の時に今の店が大変なことになっていて、それを見て「立て直したい」と。
そう思い立ち、カナダの店を人に譲って日本に帰って来たようです。

復興の際に、不動産屋に一億円積まれて「この土地を離れて欲しい」と言われたのですが、「母が築き上げてきた場所なのでそれはできない」と、その提案を蹴ったという、常識に捉われない方でした。
選択を迫られた時に、ほとんどの人が〝右〟という道を選ぶ中、明確な意思をもって〝左〟を選ぶことができる人のことが僕は大好きで。
他人はそういう人のことを〝馬鹿〟と言って軽んじる傾向がありますが、損得ではないところに幸福の価値観を置いている人を僕は尊敬しますし、何より信頼しています。
天才性というのは圧倒的な自分軸で選択できる者に宿るものだと思っています。


僕もコーヒーを愛していますし、また、バーテンダーという顔もありますのでこんな質問をしました。

「この味を継承することは可能ですか?」

質問の意図はこうです。
「果たして、あなた以外の他者がこの味を再現することができるのか?」
味の素晴らしさは十分に分かります。
でも、これは、単純に技術だけの要素ではないと僕は思ったんですね。
決められた工程を踏むだけではきっとこの味にはならない。
すると、マスターは目を細めて言葉を飲み込み、こう答えました。

「それは分かりません」

そしてこう続けました。

「私にも弟子が数人います。
同じ豆を使い、同じ分量で、同じ水を、同じ温度で、同じ方法で淹れたとしても彼らと私のコーヒーは違う。
傍で見ていて、淹れ方にはどこにも問題がないけれど味を見てみるとやっぱり違う」

分かる気がします。
カクテルでもそうです。
作り手によって同じ材料、同じレシピ、同じ作り方でも微妙に味が違う。
感覚が敏感な人でなければ、一つ一つの微差には気付かないかもしれない。
でも、それらの微差の積み重ねが、大きな違いとなって現れます。
そこがまたカクテルのおもしろさでもあるのですが。



僕はマスターにこう尋ねました。

「材料も、作り方も同じならば、ある程度のレベルまでは誰でも到達できるかもしれません。
では、そこから───さらに美味しいコーヒーをつくるためにはどうすれば良いのでしょう?」


するとマスターは答えました。

「人間を磨くことですかね」

聡明な色味を帯びた眼差しは印象的で。
さらにこう続けました。

「私にも分かりません。
私もこれが〝最高の味〟だとは思っていない。
もっともっと美味しくできると思っています。
今私ができる最高のコーヒーを出すこと。

人生には色んな選択があります。
その岐路に立った時に、試されるわけです。
厳しい道を選ぶことができるのか、それが人間を磨くことに繋がると思っています」

「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。