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抱える力

抱える力。

それは、“保留する力”とも言い換えることができる。すぐに答えは出さなくてもいい。問いや感情を抱えたまま暮らす。それが思考力の足腰となり、人間力の基盤となる。異なる価値観や矛盾を抱え、清濁併せ吞む。器が大きな人というのは、そういう人なのだと思う。

「ネガティブ・ケイパビリティ」ということばがある。「消極的受容力」や「否定的能力」と訳され、不確実なものや未解決のものを受容する能力のことを指す。問題を解決する力ではなく、問題を受容して抱える力。不確実で、曖昧模糊、人によっては艱難辛苦の所業となる。

その一方で、「なぜ人はすぐに答えを欲するのだろう」とも考える。インターネットの登場で、検索窓にことばを並べれば、“答え”のようなものはインスタントに手に入る。当然のことながらそれは、“探した”だけであり、“思考した”わけではない。そのうちに、人は“答え”は必ずあるものだと勘違いしはじめる。思考のプロセスを軽んじ、結論を元にジャッジする。その行為を、あたかも“自分の頭で考えた”と信じ込む。

だから、“答え”が出ない事象に対して、苛立つ。否定する。目を逸らす。あるいは、忘れてゆく。「結論を出さない」ということが一つの選択肢であることに気付けなくなる。

今までにたくさんの人と話してきて、数多くの相談に耳を傾けてきた。人間関係における諍いのそのほとんどは、“決めつけ”によって起こる。「相手がこうであるに違いない」という盲信が、衝突を生んでいる。それは、対話の不在を意味する。相手の意見や考えを“一度受け止める”という(対話の)工程を省いて、それぞれの中で結論へ至り、それを振り回して関係性を破壊する。さにあらず、対話とは、関係性を構築する行為なのだ。

真夜中、友人と対話した。これらの問いを置く中で、彼は鮮やかな見解を述べた。「結論ではなく、仮説を立てて、相手に確認すればいい」。彼のことばが腑に落ちた。相手の考えを想像することは悪くない。ただ、妄想してはいけない。妄想は、勝手な解釈で、存在しない結論を仕立て上げてしまう。

妄想力ではなく、想像力。それは、仮説に留まる。その都度、相手に確認しながら調整してゆく。つまり、仮説とは「保留した結論」である。それを複数抱えることができる人が、建設的な姿勢で他者と関係性を築いてゆくことができるのではないだろうか。

それもまた、ネガティブ・ケイパビリティだ。仮説の保有と異なる価値観の受容。結論へは急がず、枝葉の先のナナフシのようにじっと思考する。

ゆく河の流れは、さながらウォーターライドの現代に。
わたしたちは、もう少し抱える訓練をすべきなのかもしれない。
自分のために、あるいは、他者のために。



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