人はどこまで孤独を許容できるのか

人はどこまで孤独を許容できるのか。
最近自分の身に起こったあることをきっかけに、このことを考えています。
ディストピア小説のそれを妄想してみると、仮に意思疎通の叶う他者がいない世界を生きねばならないとなったとき、他の欲求が全て申し分のないほど満たされていたとしても、やはり耐え難いことは容易に想像がつきます。

三大欲求には数えられていませんが、「他者と関わり合いを持つ」欲求はそれなりに根源的であり、やはり生きる上での成立要件を担っているように思います。

食べ物が1ヶ月もの間手に入らなければ例外なく誰もが絶命するのと同じように、関わり合いが断絶された個人はそれより長く生きながらえるにせよ、やはり命を継続させるのは難しいのではないでしょうか。

では、具体的にどの程度満たされればよいのか。これを定量化することは非常に難しい問題です。
例えば食欲であれば、基礎代謝量に活動係数をかけたメンテナンスカロリーを下回り続けないように満たさなくてはなりません。
正確無比な数値を表すことは難しいかもしれませんが、それなりの誤差精度の範囲内で予測が可能です。
翻って「他者と関わりたい欲求」はどうでしょうか。
仮に一週間誰ともコミュニケーションを取らない日が続いたとしても、その先に誰かと関わることが確定しているシチュエーションであればなんとか耐えられそうですし、逆に死ぬまで「1日5分の面会」と限定された時間、限定された相手とのみ関わることが許され、他の時間はすべて独りが余儀なくされるとすれば、これは身が持ちません。

一方で、食欲は一部の特殊な個体を除き、人間本来に最低限必要なカロリーの5倍もの量を摂取することは生理的に無理ですが、人間本来に最低限必要な「関わり合い欲」の5倍を求める人は珍しくありません。
僕自身はどちらかと言えば、よほど気の合う人でない限り長時間にわたって他者と関わる状況が心底耐えられないので、"イツメン"の枠組みが発生しそうな状況をから反射的に身を引いてしまいがちです。
そうは言いながらも、他者とのかかわりを皆無にはできない。
これは孤独orNOではなく量の問題であるわけですが、この量をどうすればうまくチューニングできるか、という視点は持っておいたほうが良いような気がしてきました。
確か、楠木健さんの絶対悲観主義だった気がしますが、某メガバンクの元重役たちが退職後にその有閑に絶えきれず、「相談役会」のような形で居座り続けていることが紹介されていました。言わずもがな、これは企業にとってみれば百害あって一利なしです。
かつて立派なエリートとして職業人生を全うした人たちでさえ、その欲望の魔の手を免れられないのであれば、いわんや自分はどうなることやら。耐性をつけ、人間本来に最低限度必要な水準に近いレベルで良しとする自分であれるよう、よくよく躾けておく必要がありそうです。

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