怪至考⑥<恐怖音声>はこわいという話


「ほんとにあった呪いのビデオ」シリーズにはいくつかの系統の映像にジャンル分けできるのだけど、このうち俗に「音声系」と呼ばれる(僕が勝手に呼んでいる?)映像がある。
最近はわからないけれど、初期「ほん呪」には音声系の映像が時々収録されていた。

例としては、「誕生日(「ほんとにあった呪いのビデオ7」)」や「ニューロシス(「ほんとにあった呪いのビデオ15」)」なんかがある。

あるいは、有名なかぐや姫の「わたしにもきかせて」のテープ音源なんかもこれに類するものになると思われる。

通常、映像メディアの強みを活かして、実際に怖い場所に、怖いタイミングで、怖い造形の何かが映っているのが一番わかりやすく怖い。
いわゆる「小中理論」の延長線といった感じで、怖い場所に怖い現れ方をする、という映像のインパクトを、「ほん呪」を始めとした「心霊投稿ビデオもの」のジャンルは磨き続けて来て、今や一つの完成形となり飽和しているともいえる。

で、そんな中で、初期の「ほん呪」にあった「音声系」は、今でこそ評価されるべき方向性のこわさなんじゃないか、という話がしたい。

「誕生日」は、僕が初めて観た「ほん呪」で、観た時は中1だった、というのもあるかもしれないけれど、結構衝撃的で、ともすれば普通の親子の会話にも関わらず「どうして帰れないの?」「どうしてだろう」という会話に、言いしれぬ厭なものを感じたのだった。

あるいは「ニューロシス」にしても、絶叫するように泣き叫ぶ子供の声と、金切り声に近い女性の怒鳴り声も、凄まじいインパクトがあるのと同時に、後を引くようなこわさがある。

これがなんでそんなにこわいんだろう、と考えた時に、「文脈」の怖さなんじゃないだろうか、という気がしている。

映像の場合、シチュエーションや、映り方、タイミングで怖がることはあったとしても、その前後の文脈で怖がることはあまりない。(文脈で怖がる映像もあることはあるのだけど後述する)

音声の場合、その音声自体がどれだけおどろおどろしいか、というよりは、なんだかその音声自体の持つ前後の文脈、何か背景のようなものを感じておそろしいのではないか。

「誕生日」にしろ「ニューロシス」にしろ、声質やそれが入るシチュエーション自体の気味の悪さもあるけれど、同時にその音声(親子の会話)から、ぼんやりとしたバックストーリーを感じ取り、そこにこわさが宿っているんじゃないか。

「わたしにもきかせて」と言われたとき、声のインパクトも勿論あるし、その音声が入ったマイクの位置や、交通事故に遭ったファンのエピソード等が重なることで、唯一無二の恐怖音声になっている。

どうも、映像は文脈を持ちづらいんじゃないかと思っている。少なくともそれ単体の映像では。映像が文脈を持つのだとしたら、それはたいていの場合、編集によるものである。

逆に、音声は文脈を持っている。代わりに、映像ほどの強力な印象は与えづらく、想像力に頼ることになる。それ故に、若者たちがその場のノリで借りていくのがメインとなるような「心霊投稿ビデオ」においては、需要に沿わず衰退した可能性が高い。

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ところが、2022年現在。寧ろこういう「文脈」こそがこわい、というのが、主に実話系怪談の世界で主流になっているような気がしている。

三津田信三『怪談のテープ起こし』や『どこに家にも怖いものはいる』であったり、それこそ(この文章で頻出しすぎと自分でも思うけども)小野不由美『残穢』であったり、あるいは松原タニシ『恐い間取り』なんかも、単発で幽霊が目の前に現れてそれが怖い、というシーンもあることはあるけれど、どちらかというと、その場所や、エピソードごとの関連性が見えてきたり、徐々に「何か」が積み重なっていってるような、つながりの怖さなんじゃないかと思う。

じゃあ、映像でそれは出来ないのか?というと、出来ないこともない、というか、出来ている作品もいくつかはあると思っていて、「ほん呪」でいうと「Special4」に登場する一連の映像は、どれもそのたぐいのものになっている。

大半が、「なんも起こってないのにヤバい」という感じの映像で、古びたアパートの一室で、トランクスにランニング姿の男性が一人で身体を掻きむしり、身体から落ちたノミを集めていると思われるような動きが映された映像であったり、自分で「俺流ほんとにあった呪いのビデオ」を撮ってきた人物だったり、カルト宗教にハマる母親と思しき人物の車にヒッチハイクしてしまった映像であったり、そのどれもが、「実際に映った霊っぽいものよりも、映ってる人間たちの異様さ、その背景」が怖い、というものになっている。

「ほん呪」のシリーズ中でもとにかく異様な一本で、傑作と言われるのは「Special5」(有名な「疾走」が入っていたりするため)だけど、僕としては「Special4」が最恐なんじゃないか。

これらは、インタビューで語られる断片的な情報に加えて、映像自体の質感、そこで映る人間の言動が意味の取れるような取れないような、絶妙なものになっていて、そこがこわい、というものだと思う。

有名な「エリサ・ラム事件」のエレベーター映像なんかも、現実に存在したその手の映像だと思うし、世にいう「未解決事件」のこわさもこれに類する。

それは文脈の発生と、その断絶によるこわさで、意味付けはできるけど真相はわからない、という怖さである。

恐怖というものがハイコンテクスト化していった時に、より継続的・断続的にこわいもの、視覚的インパクトのみに頼らない、「情報」の整合と不整合による違和感によって語られるものになっていくような気がしている。

そうなったとき、かつては「映像」に比べるとインパクトの足りない表現であったかもしれない「音声」は、寧ろ最も重要な要素として考えるべきものになるんじゃないか。

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