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東京市四谷区仲町壱番地を見つけたい - 迎賓館赤坂離宮付近の歴史

明治39年生まれの曽祖父の出生地が当時の戸籍によると「東京市四谷区仲町壱番地」とありました。仲町という町名は昭和初期に廃止され現在の若葉一丁目、四谷一丁目あたりになります。この辺りは迎賓館赤坂離宮や学習院初等科など、実際に行ってみると明らかに他とは違う雰囲気が漂っていて不思議な空気を感じられます。

迎賓館赤坂離宮は江戸時代は紀州徳川の中屋敷(紀伊殿)、明治に入り宮内省用地、東宮御所、現在の迎賓館となりました。学習院は初等科を残し現在は目白に移転しました。(この学習院四谷校地時代の資料もそちらで見ることができました。)

そのような場所でなぜ曽祖父は生まれたのか?明治後期の四谷はどんな雰囲気だったのだろうか?お父様は何をしていた人なのだろうか?興味は深まります。
今回はこの「東京市四谷区仲町壱番地」が現在どの辺りになるのかを考えてみました。

▷ポッドキャスト(先祖巡礼)での曽祖父・四谷考察回はコチラ

迎賓館の前の除地

まず戸籍でよく見られる「○○番」と今回気になっている曽祖父の「○番地」がそもそも違うものなのかなと思いました。土地は「番」でその土地の上の建物は「番地」という認識になるのかなと思います。○○番戸や○○番屋敷など建物にかかる表記なのかなと思いました。

この時点で気になったのは戸籍に「丁目の記載がない」ということ。四谷区仲町は明治33〜36年に一時的に「仲之町」と変更になって程なくして「仲町」に戻りました。この際に仲町は1丁目〜3丁目まであり、出生地はそのいずれかの壱番地なのだろうと思いますが、なぜ丁目の記載がないのかは当時の住居表示のルール上のものかなのか、無いとは思いますが手書きの戸籍のためのミスなのかよくわかりませんでした。

そこで幕末の切り絵図から明治、大正、昭和と現在までの地図や参考資料などから、こうだったのではないかというものを見つけました。

それは仲町に「丁目がなかった時期」があるということです。おそらくこれは仲町一丁目にあった学習院の四谷校地の移転とその後の関係が大きいのではないかと思います。以下画像地図にて説明します。

明治36年(1903年)の「風俗書報 四谷区ノ部」という東京案内の書物に丁目と番地についての記述がありました。曽祖父が生まれる3年前です。一丁目は1番地のみ、これは学習院の四谷校地だと思います北の尾張徳川の土地に跨って建っていました。二丁目は1〜17番地、三丁目は1〜50番地まで三丁目は番地が多いので住居が多いのではないでしょうか。40番地〜43番地は宮内省用地でこれは現在もある学習院初等科だと思います。勤人の邸宅多しとの記述も。

風俗書報 四谷区ノ部 明治36年(1903年)より

❶明治35年、四谷区仲之町時期、一丁目から三丁目までが確認できる。❷明治41年、名称が仲町に戻り仲町一丁目は変わらず学習院の場所か?この時期には既に曽祖父一家は他の場所へ移った。

❶四谷区仲之町時期 【東京市全図 明治35年(1902年)より】
❷一丁目は何処? 【最新実測東京全図 明治41年(1908年)より】

❸明治43年、ここでなんと仲町の丁目表記がなくなった。三丁目の住宅が多いと推測される場所が「仲町」として残っているのみ。❹明治44年、丁目は復活するも一丁目のみがなくなる。青の点線が現在の「若葉東公園」の場所。

❸丁目が消える 【東京市全図 明治43年(1910年)より】
❹丁目は復活も一丁目がない 【番地界入 東京市四谷区全図 明治44年(1911年)より】

一つの推測として、❸の地図の頃には曽祖父一家はこの地から他へ移っているのだが、この丁目が消失している時期になんらかの理由で戸籍に書かれた出生地なのかなと…。なので出生場所は❹の左の赤丸の三丁目1番地(壱番地)の可能性があります。

もう一つの推測、これは可能性が低いが。学習院で生まれた可能性。四谷区仲町一丁目壱番地は学習院の建物のみがあり、家族のどなたかが学習院と縁があり宿舎などで生まれた可能性…。学習院は目白に移っているので、その関係で丁目がない時期に戸籍が書かれたと強引に推測。曽祖父のお父様の従兄弟が子爵の吉田清成の息子の吉田清風で学習院出身のため無くはない推測か。

現状「仲町三丁目壱番地説」が濃厚でしょうか。以下画像参照下さい。

仲町一丁目(現:若葉東公園)
仲町二丁目壱番地
仲町三丁目壱番地

新宿区のみどり公園課に問い合わせたところ、仲町一丁目は若葉東公園で間違いないらしい。実は学習院が四谷に移転してくるもっと前、明治9年ごろには家が建っていたらしく、その頃の貴重な番地入り地図も見つけました。実際行ってみると本当にこんな場所に家があったのかと不思議な感覚。(おそらく武家地か)しかしなぜか一丁目壱番地だけがない。

❺【明治東京全図 明治9年(1876年)】より

余談ですが❺の尾張の松平さんの先の大通りに安政半太郎さんが営業していた西洋料理「蓬莱亭」住田金次郎さんの蒲焼商(うなぎやでしょうか?)などの記載があり、人気があったようです四谷は明治の頃から大変栄えていた様子が伺えます。うちのお祖父様一家も訪れたことでしょう。

以上。長くなりましたが詳しい方いらっしゃいましたら教えてください。


学習院大学資料館にて「揺籃期の学習院―四谷校地のころ―」が行われています。
令和4年3月28日(月)~6月3日(金)平日12:00~15:00
*閉室日:土曜、日曜、祝日


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