明治時代の外苑前や千駄ヶ谷周辺のこと - 千駄ヶ谷町原宿や徳川邸など
現在の外苑前から外苑西通りを国立競技場へ向かったあたりの地形の今昔を調べています。明治時代はこの辺りは千駄ヶ谷村と呼ばれ「原宿」という住所がまだ残っていました。高祖父の明治30年代の本籍がその「千駄ヶ谷村大字原宿」(大字は原宿、字に北原宿と南原宿が存在していました)だったため当時の雰囲気を探るため調べています。
練兵場の左側に「順正寺」という寺があります。ここに吉田家の墓がありました。高祖父多喜雄の弟鴻治の墓です。順正寺は関東大震災後、昭和6年に世田谷の千歳烏山に寺ごと移転したので、それまではこの場所に墓があった
と推測しされます。練兵場の場所は現在の神宮外苑、霞ケ岳町には国立競技場があります。順正寺の跡地は現在の東京都渋谷区千駄ケ谷1丁目13−6(シャリエ神宮外苑辺り)
大正5年の凹凸地図を見てみましょう。緑で囲った部分が順正寺です。右の霞岳町(霞ケ岳町)の部分が国立競技場になっているのですが、立法寺という寺があります。この寺はこの神宮外苑の造園の際に杉並区の和田に移って今も存在します。地図上部の徳川邸は徳川家十六代当主の徳川家達の屋敷。有名な篤姫(天璋院)もここで亡くなった。屋敷とはいえ平屋で質素な生活だったようです。凹凸があるので周辺からは高い位置にあったのだと思われます。
ちなみに、この凹凸地図は地番、家の位置や形状、戸数、木の配置なども所々見ることが出来て非常に重宝しています。
熊野神社の位置は変わりません、近衛四連隊の 陸軍省用地だったところが現在の國學院高校になっています。この近衛四連隊に高祖父の弟鴻治が所属していました。詳細はポッドキャストにて
明治時代と現在の道自体はほとんど変わっていませんが、水色のラインは当時の渋谷川だったところで、現在は道路に変わっています。この手法が暗渠(あんきょ)というものです。渋谷川は明治時代初期には鮎など生息したというほどキレイな河川でした。
高祖父住居は戸籍にあった住所で、大字原宿170番地とあったので、当時のいくつかの地図でこの辺りかと目星をつけたのですが、凹凸地図を見ると170番地が多すぎてお手上げ状態です。広島藩の浅野邸の方まで広がっています。
写真は渋谷川ですがこの状態を開渠(かいきょ)といいます。暗渠は蓋をした状態、開渠は渋谷駅まで続きます。個人的にこの景観を見ると「渋谷」だと感じます。渋谷にはこのような開渠暗渠が見え隠れして興味深いです。
昭和6年の渋谷川の暗渠工事の図面です。外苑橋付近の部分の暗渠工事です。
現在の国立競技場の外苑門から中央門にかけて一応渋谷川に面していることになります。順正寺も川沿いにあり今とはまた違う景観だったことが伺えます。渋谷川には蛍もいて、陸軍用地には馬に乗った軍人、銃声など聞こえたことでしょう。まさか練兵場にどデカい競技場になってるなんて想像もできなかったでしょう。
この地域は住んでいた人の記録を見ると、徳川家達、徳大寺、大山の三公、池田仲博、浅野、葉室長通伯、榊原政敬、伊達宗定、三島通陽、本野盛一ら各子爵などの名前がある。この頃の千駄ヶ谷周辺は特に目立った産業もなく大小屋敷などが点在していた場所なのだと思います。
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