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客観的自分

ときどき、客観的になれず、自分のやっていることに対して視野が狭く、冷静に自分が見れていないときがあります。熱中しているときとか、感情的になっていたり、熱く話しをしているときなど。

そもそも、そう感じているだけで、それが普通なのか、やはり客観的に見れていないのかすら、正直、あやふやで、わかっていないのですが。

ただ、少なくとも「わたしは客観的に自分を見れていない」と感じていることは確かです。

先日、話しながらでも自身のことを冷静に説明するクールな同僚に、「何故、いつも客観的でいられるのか?」と、聞いてみました。

彼曰く「アタマの少し後ろに自分を見ている自分がいる」とのこと。

「ハァ…?」と思いましたが、話しを聞いていると、彼自身を見ている彼が後ろから、「こいつ、焦ってるな」とか「何、熱くなっているの?」と、自分で自分を見ている感覚らしいです。

しかし、そう意識してみれば、なんとなく出来なくもなさそうです。ただし、歩いているときとか、机でちょっとボーッとしているときぐらいには。
「ボーッとしてる自分いるわ。」
それも、ぼんやりで「客観的」と呼べるイメージではありません。

不思議と、後ろから見ているのは「わたしの反町さん」だったりして、「そんな姿勢じゃ、格好悪いぜ。」などと、クールなアドバイスをしてくれたりします。稀ですが。
ずべて、語尾が「格好悪いぜ」とか「ダサいぜ」なんですけどね。

それでも、そういうアドバイスがあった方が有り難いモノだと思い、姿勢を正したり、少し冷静になったり。

振り返るときに、自分を知る術として「暮らしのノート」に、感情をリアルタイムで書くようにしています。
「○○した。ダルくて面倒。」
「○○実施。△△が面白かった。スラスラ進み気分が良い。」
と、自分がどう感じていたかをメモしていたことが、少し分離した自分を作る源泉になっていたのかもしれません。

いつも、書けているわけではなく、思い出したように、そう意識できたときだけです。自分を見失うほどに忙しいときは、感情まで書けていません。

いつも、客観的に見ているのは、コトが終わって、後追いで「あの時は〜だった」と書くことです。

ありたい姿は、それをリアルタイムで自分を見つめ分析することです。それが正しいことか判断したり、感情を抑えて話しができたり、メンバーの目線に立ってケアしたり、そういうイメージです。

同僚の彼から聞いたことを真似て練習してみれば、いつかリアルタイムに自分を後ろから見ることが出来るのかもしれません。
糸口はなんとなく掴めた感触があるので、あとは練習という手繰り寄せをするのみ。自然にできるように慣れさせることから始めてみようと思います。

このnote記事を書いている時も、どこか、書いている自分をアタマの中に描きながら、記事を書いていました。
ときどき見えたり、スッと見えなくなったりしている感覚でした。
心落ち着いているから、そう見えるのかもしれません。

あと、本記事を書いていて「わたしの反町さん」も一種の客観的自分なんだろうと思いました。

感情的になる直前、熱中してるときに「わたしの反町さん」の召喚ができれば、及第点かな。

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