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人に決められた道ではなく、自分の人生を自分で選ぶということ

この記事は、日本で決められたレールで育ち、狭い世界でもがき苦しんでいた僕が、大学時代に海外に触れ、20代半ばで海外移住を決めてキャリアを積み、現在に至るまでのストーリーを記したものです。

正直かなり赤裸々に、自分のすべてをさらけ出しています。なので、ぜひ以下のような方に読んで欲しいです。当てはまらない方は、読まないでください。

  • 人から決められた正解ではなく、自分の人生を自分で選び、自分らしさ全開でパワフルに生きていきたい

  • 今いる環境、狭い世界に満足して、ぬるま湯で生きていくのではなく、視野と可能性グッと広げ、怖さを乗り越えてでも人生を変えていきたい

  • 一度きりの人生、日本に収まらず海外も視野に入れて生きていきたい

でも、上記に少しでもピンと来てしまったあなたには、必ず何か持ち帰ってもらえることがあるはずです。

<プロフィール>
タイ/バンコク在住、海外在住歴は8年目。Roll Model Inc / CEO(海外転職/キャリア支援)、スタートアップ役員、プロコーチ。
新卒NTT(インド駐在)→戦略コンサル(タイ/ベトナム)→外資系人材紹介(タイ)→現在


-----第一章(社会のレールに乗って育った自分)-----

幼少期 ~僕の価値観を作った、立派な両親~


1988年4月6日、三兄弟の長男として生まれる。

父親は、大手広告代理店勤務(役員まで出世)、周囲からの人望も厚く、穏やかで、物知りで、子ども心に「欠点のない人」だった。
母親は、平日は主婦をやりながら、土日は結婚式の司会業もこなし、男3人を育てた。料理も家事も完璧だった。大人になり、自分の母親の高い基準が、世の中では当たり前ではなかったことを痛感した。

と、これまで何一つ不自由な思いをしたこともないくらい、本当に文句のつけようもない立派な両親のもとで僕は育った。

そんな両親の影響もあり、僕の人生の無意識部分には「社会的に、人として立派でならなければいけない」という価値観がある。進学も就職も、社会的に見て高偏差値の、いわゆる社会のレールに乗った人生を歩むようになる。

恵まれた環境である一方で、この社会の物差しで自分の人生を決めてきたことは、僕の人生を大きく苦しめるものでもあった。何度もそこから外れようと思い立っては引き戻される、そんなことを繰り返してきた。しかし結果的に、この「社会的にどう見られるか」を無理やり少しずつ引き剥がし、自分の本心で選択をしていくようになる。

小学校 ~なぜなぜキッズ / スイッチ入ったら止められない~

母親に、僕は小さい頃はどんな子どもだったのか、聞いたことがある。「なぜなぜキッズ」だったらしい。とにかく質問が多い子だった。自分が理解できるまで、納得するまで、しつこく質問する。両親曰く「頭のいい子だな」と感じていたらしい。

それと、「やると決めてスイッチが入ったら、周りが見えないくらい没頭する」らしい。ただ一方で、熱中できるものがなかったり、スイッチが入らなかったりという時の低空飛行も
それはひどいようで、良い時と悪い時のムラも激しいらしい。

この「納得するまで理解する」「スイッチ入ったら止められない」という特性は、大人になった今に至るまで、人生で繰り返し起こっている。まさに生まれ持った特性だ。

小学生時代の僕にとって、スイッチが入りまくってしまったものが、サッカーだった。小学1年生から地元のサッカー少年団に入り、放課後はほぼ、そのまま校庭に直行して暗くなっても友達とボールを蹴っていた。

運動神経は良かった。学校のマラソン大会の順位も大体1桁台。成績もそこそこ良かった。書道や美術でも何度か入賞したことがある。4月生まれというのもあるかもしれないが、多分大体のことをはやく覚え、器用にこなせるタイプだった。

中学 ~手に負えない強力なモンスターの出現~

そんな感じで、中学でも勉強も運動も大体成績上位。ただ、一つだけ満足できないことがあるならば、どうしても1位にだけはなれない。悔しい気持ちもあったが、それなりになんでも上位で優秀という自分の立ち位置に、ある意味慣れていたのかもしれない。

一方で、中学時代は反抗期真っ只中だったのだが、荒れ具合はそれはそれは酷かった。こう聞くと、「とんでもない不良だったのか?」と思うかもしれない。僕の場合は、「外ではいい子、家では悪い子」だった。

幼少期の話でも出てきたが、素晴らしい親の前で、社会的に立派でなくてはいけない、という価値観が根本にあるから、外向きの僕はいつも真面目で、思うことや嫌なことがあっても外に出さず、いい子であることが自分の基準だった。ただ、実はこれに大きなストレスがかかっていたのだろう。

外で嫌なことがあると、その怒りが向かう先は親だった。「うるせぇクソババァ」このセリフは本当に何度言ったかわからない。母親に手を挙げたことも何度もある。気に入らないことがあると物に当たって、部屋のドアや壁には穴が開く。

今思えば、両親、特に母親に大きな甘えがあったのだと思う。なんでもやってくれる、何か困ったら助けてくれる、その甘えが度を過ぎたのだ。

大人になった今でも感じるのだが、僕の中には手に負えない強力なモンスターがいる。小さい頃からずっとこいつを自分の内側に飼っていて、何かを我慢して生きている時に、よく暴れ出す。こいつが暴れ出すと自分でも何をしでかすかわからない。
一方で、このモンスターは良い方向にも働く。それが何かに熱中したり打ち込んだり、大きな決断をした時に大きな推進力をもたらしてくれる。このモンスターは、きっと限りなく僕の根本に近いところにいて、本心にとても素直なのだ。本心で決断して打ち込む時は味方になるし、外れると暴れ出す。もはやバロメーター的な存在だ。

話を本題に戻そう。家ではそんな感じだったが、外ではやるべきことをちゃんとやる。優秀じゃないと気が済まないので。そんな感じで高校も、埼玉の公立の進学校に合格した。県内No.1ではないけど、偏差値上から3番目くらいの高校だった。

高校 ~田舎の男子高で汗臭い青春~

田舎の男子高で、ザ・青春の日々の日々を送る。

部活は小中と9年間続けてきたサッカー部に入るつもりだったが、体験入部時に、レベルの高さと部員数にビビり、戦略的にここで勝負すべきではないと直感が判断した。バレー部、軽音楽部、テニス部など色々回ったが、ひょんなことからラグビー部の体験入部に参加する。

ちなみに、ラグビーだけはやる気がなかった。親父がラグビーバカだったので、反抗期だったのかわからないが、なんとなく嫌だった。(本当はスマートなサッカーの方が良かった)

ただ、うちの高校のラグビー部は大体みんな高校からスタートすることもあり、毎年入部者を集めるのに全身全霊をかけていた。サッカーをやっていてキックができた自分は、「君は素晴らしいスタンドオフ(キックを使う、司令塔の華型ポジション)になれる」と、まんまと先輩の巧みな勧誘に引っかかり、結局入部してしまった。多分どこかで、ここならそれなりにやれるという打算があったのだろう。

入ったら地獄だった。フィジカル練習がえげつない。授業もほぼ寝ているので、テストはほぼ一夜漬け。最低順位は学年400人中確か、398位代までを叩き出したことがある。これはさすがに、何事もそこそこ優秀でやってきた自分のプライドが許さなかったので、300位くらいまでは持ち直した。

大体のことをそれなりにやれてきてしまった自分は、本気スイッチが入るのが遅い傾向にある。でも一方で、スイッチが入るととてつもない集中力を発揮する。「あんたはいつもそう」、母親にもよく言われていた。

とてつもない馬力を発揮したのは、ラグビー部最後の大会前のこと。副キャプテンとしてチームの司令塔的な役割を果たしていたが、大会直前の練習で、鎖骨を骨折した。高校最後の大会出場はほぼ絶望。その日の夜は、悔しくて号泣した。

だけど、開き直ってできることを全てしゃぶり尽くすまでやった。当時、怪我の回復が早まる最先端技術と言われる酸素カプセルに通わせてほしいと親に懇願したり、カルシウム豊富と言われるウナギの骨を集めるために、家の近くの鰻屋にお願いしに行ったりした(今思えば科学的根拠はわからないw)。

なんとか大会の2回戦に間に合うまでに持っていき、後半僅差で負けている展開。テーピングをぐるぐる巻きにして強行出場したが、負けた。だけど、この時の執念と泥臭さは尋常じゃなかった。きっとここまでの人生、優秀だけどズバ抜けられなかったのは、ここまでににならないとスイッチが入らない自分の甘さもあるのかもしれない。

そして、この盲目になるほどの集中力は受験勉強でも発揮される。ラグビー部の同期は大体浪人するのが既定路線だったが、毎日図書館とカフェにこもって、深夜まで勉強した。結果、第一志望の早慶には全落ちしたが、ギリギリ立教にだけ引っかかった。浪人する選択肢もある中、迷わず進学を決断した。心の底から本当にやり切ったから、気持ちは晴れやかで、悔いはなかった。

この部活最後の大会と受験勉強の頑張りは、人から強制されたり、やるべきだからやった話ではなく、自分の意思で決めてやり切ったことだった。結果こそベストなものではなかったかもしれないが、この時の自分の力を出し尽くした充実感は、大人になった今でも忘れられない。

大学 ~初めての挫折 / 暗黒時代~

・オレンジデイズに馴染めない。悩みながらも、体育会ラグビー部入る

高校時代の自分を表すならば、まさに「文武両道(勉強も部活も両立する)」という言葉に尽きる。実際勉強を頑張ったのは最後の半年だけだが、狂ったように取り憑かれ、もうこれ以上はできないと思えるまでにやり切った。

そんな中で、都内の私立大学へ進学。中でも特に華やかなチャラ目の大学に、田舎の男子高ラグビー部が入る時点で、客観的に考えてカルチャーギャップが大きすぎることは、今冷静に考えればよくわかる。が、当時の自分はおそらくそこまでわかっていなかった。故の行動が以下だ。

まず、サークルの新歓に色々参加してみた。確かテニサー(テニスサークル)だった。女性の先輩にチヤホヤされて勘違いしたのも覚えている。あ、俺ここでもやっていけるかもな、と都合よく解釈した。ただ、これでいいんだっけ?という真面目で硬派な自分がちょいちょい顔を出す。

とはいえ、体育会の部活に入るということも正直頭にはあまりなかった。大学ではいろんな経験をしたいし、全国の強豪からスポーツ推薦で部活だけやりに来ているヤツがいる組織の中に入ることは、勝算が描けず、気が進むものではなかった。今振り返ると、「本気でやりたいとも思っていないのに、勝ち目のない勝負なんかしたくない」ということだろう。まぁそりゃ今考えてもそうだわな。

ただ、流れに身を任せてサークルに入ることも何か違う気がしていた中で、ひょんなことから体育会ラグビー部を観に行くという話になった。きっかけは父親の会社の後輩がラグビー部の関係者ということで、「観に行くだけだから」とちゃんと予防線を張ったことだけはよく覚えている。

・ずっとモヤモヤ、ついに心身ともに限界を迎え、退部(1年)

結局、華やかな大学生活と真面目で硬派な自分の勝負は、後者に軍配が上がった。高校時代のように、部活も大学生活も両立させてやろうと、テニサーを泣く泣く諦め、ラグビー部に入部した。本当にやりたい選択だったかというと、正直そうではなかった。ただ、他に納得いく選択肢がなかったために、「挑戦しない後悔より挑戦して後悔」と、なんとか自分に言い聞かせて、妥協ができない真面目な自分が勝ったのである。

ここが自分が人生の道を踏み違えたポイントだった。高校と大学はルールが違ったのだ。ここで華やかなオレンジデイズを選んでおけば、もっとリア充な大学生活を送れていたかもしれないのに。

全国から集まった走れる筋肉集団の中で、毎日激しく練習し、大学の授業はほぼ寝る。妥協せず決めたはいいけど、理想の大学生活とは程遠かった。そして、このまま続けた先にどんな理想の未来が待っているのか、描くことはできなかった。結局、無理をして頑張ってしまった。

1年の夏休みの合宿。正直行きたくなさすぎて、逃げ出したくて、前日に吐いたほどだ。でも、結局行ってしまった。自分の強い意思ではなく、ある意味消去法で選択したハードな環境での日々は、それは苦痛だし長くは続かない。結局そんな状況で自分の体とメンタルが悲鳴をあげて、続けるのが不可能になるところまで追い込んでしまった挙句、1年の終わりにラグビー部を辞めた。

今冷静に思えば、夏休みの合宿前に辞めていたら良かったと思う。でも、その時の自分がそれができなかったのは、これまで何事も最後までやり切ってきた強い自負と、途中で何かを中途半端に辞めてはいけない、という強い信念だ。要するに、「辞め方」と「挫折すること」を知らなかったのだ。根本の心理として、何かを途中でやめてしまうと、道に逸れてしまう気がして、怖かったのだろう。だいぶ価値観が偏っているし、世界が狭すぎる。

後になってポジティブに受け取ると、ここでこの経験をしておいて本当に良かった。ここでも挫折を知らずスムーズに人生が進んでいたら、もっと失敗を恐れるがんじがらめの人生になっていたかもしれないから。そして、きっと無難に華やかな普通の大学生活を選んでいたら、今ここまで弾けて海外にも来ていないだろう。

・目標や生きがい失い、半ニート生活(2年)

挫折を知らない人間は、挫折からの立ち直り方も知らない。心からやりたいことではないけど、自分のエネルギーを注ぎ込んできたものが急になくなって空白ができると、それをどう埋めていいかわからないのである。しかも心身ともに疲れ果てている。ここで無気力状態にあった自分は、大学の授業にも行かなくなり、半年間で取得した単位はわずか「2」だった。

外にも出たくない、人とも話したくない、1日が長い、部屋にこもってゲームをして紛らわせ、昼夜逆転の生活。自律神経が狂い、ほぼ鬱状態だった。完全に人生の道を踏み外したような絶望の日々だった。もう、ほぼ記憶すらない。

・就活アベンジャーズ、留年決意(3年)

そんな中で冴えない毎日が過ぎ、3年次に就活の時期を迎える。当然、自分は何も誇れることもしていないし、心の準備など整っているはずがない。気が進まない中、まずはとりあえずスーツを着て、合同説明会にいくつか出てみた。久しぶりに同級生に遭遇する。部活で主将を勤めているヤツ、留学で英語ペラペラになってるヤツ、学生インターンに参加して、既に内定チケット持っているヤツ。圧倒的な違いを目の当たりにした。

悔しかった。こんなはずじゃなかった。俺だって肩を並べてここにいるはずだった。理想と現実の乖離が受け入れきれずに、胸がキュッとなるくらい苦しかった

でも、この現実は受け入れる以外に選択肢はなかったのだ。なんというか、自分が下界で引きこもりをしている間に、こいつらは精神と時の部屋から出てきたんじゃないか、とも思える程の圧倒的な差だった。やりきれなさ、自分に対する悔しさ、でも、仕方なさもあった。そして「なんとか取り戻したい」、自分の中に消えかけていた炎が、少しだけ、久しぶりに顔を見せた。ここで、選考を受けることすらせず、留年をする路線がほぼ決まった。決まったというよりは、そう自分の意思で決断した。

親に頭を下げた。あと1年、取り戻すために留年させて欲しいと。両親はどう思っただろうか。結果的に、快諾してくれた。現役で合格もしてるし、1年だけならいいよと。本当にありがたい。バイト以外で自分でお金を稼いだこともない学生の分際だったが、「あぁ、これはもう無駄にしないようにやらなくちゃいけない」と、ちゃんと思ったことは覚えている。

・正気を取り戻す、海外バックパッカー

まず、どうしてもやりたかったことがある。それは海外に行くことだ。自分はとてつもなく狭い世界で悩みもがいているんだろうなということは、なんとなくわかっていた。だから、広い世界を知って、自分の殻を破るために、価値観が変わるような全然違うところに行ってみたかった。そこで、東南アジアバックパッカーの旅に出ようと決めた。

タイのバンコクから入って、ベトナムのホーチミンから出る。そのチケットだけ取って、あとはホテルも何も全て現地で予約する。怖いけど、何もかも自分でやる、そのこと自体がなんだかワクワクしていた。

高校生の時に、学校のプログラムで2週間だけメルボルンに短期ホームステイしたことがある。それ以来の海外だし、何もかもゼロから自分でやる経験が初めてだった。でも、この決断とここでの経験が、今の自分に大きく繋がっている。

海外に行くと、何が変わるのか。僕にとっては、「日本にいた時の自分が薄くなるというか、いなくなる」という表現がしっくりくる。

誰しも、自分が長く育ってきた環境の延長線だと、過去の自分に囚われて、自分を劇的に変えることは難しい。でも、環境がガラッと変わると、ダメだった自分の過去をリセットするかのように忘れて、新しい自分が出てくる。そんな感覚を味わったことがあるんじゃないかと思う。

自分にとっては海外がまさにそれだった。アジアの熱気とカオスの中で、過去の自分に囚われず、今まで知らなかった自分に出会える感覚がとてつもなく快感だった。

日本にいる時とは全く違う人格やキャラクターの自分に出会えた感覚。普段はとても慎重で何かをする前に一呼吸おいて状況を整理し、考える傾向があるが、知らない場所や集団に一人で物おじせず飛び込んでいく自分がいた。事前にある程度見通しが見えないと気持ち悪いタイプだったが、ホテルから、移動手段から、現地でその場でなんとかする、対応力と機転の効き具合も、自分でもびっくりするほどだった。英語は外国人と通じ合えるほどの能力はないと思っていたが、身振り手振りも交えてなんとかしようとしたら心も通じ合えたし、自分のポテンシャルが引き出されたような感覚だった。

多少は勘違いも入っていた気がするが、いい意味での勘違いをすることすらほぼなかった自分が、調子に乗れていることすら意外だった。例えるなら、スーパーサイヤ人とかマリオのスター状態になっている感覚。とにかく気分が良かった。

その感覚が忘れられなくて、もっと海外に触れたいと思った。正確に言うと、「海外というフィルターを通し、新しい自分に出会えること」に大きな希望を感じた。海外で生活をしてみたい、というなんとなくの感情も、ここが起点だったと言える。

・人の人生を変える、インド

大学生のうちにもっと海外に行っておこうと思い、次の渡航先を探した。東南アジアはもう行ったし、もっと根本的に自分を変えて、もっと新しい自分に出会えるような、刺激的な体験がしたい。その結果たどり着いたのが、インドだった。インドに行けば皆、価値観変わるっていうし。今思えば、ドMにもほどがある。

では、実際行ってみてどうだったのか?期待通り、人生は変わった。
何が変わったかというと、
・人目を気にし過ぎなくていい
・もっと自分中心に、ワガママに生きていいんだ

そう思えるようになったことだ。

何がそこまで変えてくれたのか?それはインド人の生き方そのものである。
僕の経験上、インドの人たちは世界でもトップレベルに自分中心でマイペースに生きている(※あくまで個人的な見解)。

会話をしていても平気で話を遮ってきて自分の話をし出すし、終いには俺が話してるんだから聞いとけ、みたいな空気を出してきたり。

あとは、列に並ぶ、という概念がなく、空港や店の列に並んだつもりが平気で割り込んでくるし、ちょっとよそ見したら目の前に知らないインド人おる!みたいなこともザラにある。

更には、インド人に道を聞くと、道を知らないのにあっちだよと言われるみたいな噂は、実は本当だった。(だから、僕の中ではインド人に道を聞くなら3人に聞け、という独自のルールを作った。ただ、大体3人全員違うことを答えるw)

これは日本人の僕らからしたらあり得ないことだが、インドではこれがスタンダードなのだ。これは実際にインド人から聞いた話だが、間違った道を教えられるのも、実は根本に、困っている人を助けないのは失礼、という価値観というか優しさのようなものがあるからそうなる、という話だった。

日本人でもインド人でも何人でも、みんなそれぞれベースの価値観があって、自分なりの正義に基づいて行動している。日本人だってそう。空気を読んで周りに合わせなきゃいけないとか、人に迷惑をかけてはいけないという、いわゆる同調圧力のようなベースが備わっている。そして何より僕はそれが強く植え付けられている。

だけど、郷に入っては郷に従え、である。日本人の僕も、インドに行ったらインドの価値観を尊重しなくてはならない。そうしていると面白いことに、自分もインド仕様になっていく。そうすると、今までとは真逆の自分が出てくる。

例えば、列を抜かされないように前の人に思いっきり密着してみたり、時には人がよそ見していてスペースを見つけたら割り込んでみたりw、雰囲気が悪くなったとして、正しいと思ったことは譲らず主張してみたりとか。変えたかった自分になることを、インドという国が許してくれた、そんな感覚になったことを覚えている。

そしてこの経験が今後、「インドで働く」という形で伏線回収されることになる。

・1年遅れの就活。第一志望は叶わないものの、やっと遅れを取り戻す

第一志望は総合商社だった。ちゃんとやれば、それなりに成果が出せるのが自分だ。第一志望の商社には辿り着けなかったが、それなりの企業に内定。この結果も自分らしい。大学受験も、第一志望の早慶には落ちたが、立教に受かった。いつも、100%ではなく80%の結果に落ち着く。

大手財閥系住宅不動産と大手IT・通信の2社から内定をもらった結果、後者に決めた。理由は「海外で働けるチャンスがあること」。前者の方が倍率も給与も上だったが、そこに迷いはなかった。特に後者は、入社2年目から応募できる海外トレーニー制度があったことが大きな決め手だった。

社会人

1社目 @日本/途中インド(24歳〜27歳)

・またモヤモヤの1年目

海外で働ける、グローバル、このキーワードで入社したはいいが、そんなにすぐに新卒からできるわけではない。配属されたのは超ドメスティックで老舗のToCサービスの企画部門。若手も少ない。組織も上司も、古き良きの企業文化の中で生きてきたような人が多かった。もうあんまり記憶がないが、魂抜かれたように生きていたことだけはなんとなく覚えている。

なぜ海外思考なのにこの組織に配属されたのか?大企業新卒ガチャというのももちろんあるが、それだけではない。2年目以降の海外トレーニーにしか興味がなかったため、人事との配属面談で「新卒はどんなハードなところでもいいのでぶち込んでください!」的なことを言った記憶がある。自分の中での「ハード」なイメージでは、バリバリ鍛えられる法人営業的なイメージだったが、新卒がほぼ配属されない、古き文化のおじさん組織という、言葉の文面を取り違えた別の意味でハードな環境だった。まぁ、無理もない、伝える希望があまりにも曖昧で無謀すぎたw

でも、尖っているようで尖れず、いい子にしてしまうのがいつもの自分のパターン。特に実力もない新卒なわけだし、上司に楯突くことも意思表示することもできずいい子を装い、次第に心身の状態が悪化していく。おそらく1年目の有給や福利厚生の休暇制度を使い切るくらい会社を休んだ。状況を抜け出したすぎて、途中ネットワークビジネスにも手を出しかけたこともある。

・前から決めていたこと&今の環境を抜け出したい一心で、海外トレーニーインド派遣決定

そんな苦しい1年目の終わりに、やっと海外トレーニーの募集がかかる。もはや動機づけは海外ではなく、ここを抜け出したい、に変わっていた。

派遣先の国の希望を聞かれる。欧米の主要都市からシンガポールや香港やバンコクと、わかりやすく人気の派遣先に応募が殺到する中、自分は戦略的なのかアホなのかわからないが、「インドかブラジルでお願いします」と言った(多分アホなんだろう)。

結果的に当然の如く倍率は低く、希望通りインドのムンバイへの派遣が決まる。内定者時代にインドオフィスに訪問していたことも恐らく効いている。意外と戦略的なのかもしれない。でも、当時はそこまで考えていない。でも、良かった。この会社に入った一つの目的が早くも達成されるし、何よりこの環境から抜け出せることが嬉しかった。

・開始早々インドの洗礼で強制帰還→免疫を獲得し覚醒

2014年6月末、いざインドへ。意気揚々と降り立った。
何より、学生時代3ヶ月も滞在していたし、余裕だろうと思っていた。あの時は屋台の飯を食べても大丈夫だったし、今回も大丈夫だろうとストリートフードを食べていた。今思えば、学生貧乏ホームステイと、会社の仕事で海外派遣なんて、どう考えても別物だと言うのは明らかなのに、当時は本当にアホで区別ができていなかった。そしてこのナメた姿勢がこのあと惨事を引き起こす。

仕事ではいきなり大手アカウントの担当を任されるし、インド人と協力して仕事を進めないといけないし、接待や出張者のアテンドが毎日のようにあるしで、いきなりハードだった。1年目、日本でぬるーくイヤイヤ仕事をしてきた自分には、これがキツかった。その時よりはずっと求めていたハードさではあったが、結構ストレスもかかっていた。

慣れない環境、慣れないストレス、ハードな生活、慣れない食生活、これが重なり、腹痛と下痢が悪化していき、インド渡航後1ヶ月たたずで、使い物にならない状態になってしまった。支社長から「1回日本に帰って治してこい」の伝達が。強制帰国命令である。

インド経験もあるし、タフにやっていける自負があった自分には、屈辱である。俺、日本を飛び出して海外でバリバリやるプランだったのに。ショックだった。その後日本帰国し、2週間固形物なしのおかゆだけで過ごす日々は地獄だったし、何よりこんなボロボロの状態でも早く回復してインドに戻らなきゃいけない、というプレッシャーとの狭間で苦痛の日々だった。

「ここで離脱しちゃいけない」恐らく何よりも強く心の根底にあったのはこれだ。大学時代の部活辞めちゃいない、と近しい感覚(この、ボロボロなのに何クソ魂を発揮するパターンを何度も繰り返している)。

きっとこれは、自分が育ってきた環境の影響が大きい。父親が大企業の役員だったこと、受験レースもそれなりに勝ち上がってきたこと、ずっとスポーツをやってきて、途中で投げ出してはいけないという根性が身についていたこと。大きな挫折を経験することなく、それなりに順調に社会のレールを外れずに生きてこられたことの裏側の側面が、自分の可能性を制限することになっていたとは。

その一心で、まだ完全回復していない(やっと固形物食べられる程度の状態)のに、インドへの帰還を決意。まさに戦場に戻るかのような精神状態で、インド人だらけの成田空港の搭乗口で心半分折れかけた状態で帰還した。

・人生の絶頂期とも呼べるインド駐在

その後はなんとか体調が回復し、仕事にも生活にも慣れていく。どうやらインド駐在員の日本人の間では、「3回腹を壊してからがスタート」という通念のようなものがあるらしく、まさにそれだった。免疫ができたのか、腸内細菌が入れ替わったのか知らんけど、むしろ日本にいる時よりも体調が良かった感覚さえある。きっと、精神的なものもあったのだろう。日本で退屈でモヤモヤしているよりも、超ハードだけど生きてる感覚があるインドでの時間の方が、魂レベルで充実していたのかもしれない。

大学時代のバックパッカーの時もそう、海外という未知の場所で、過去の自分に引きづられることなく、アジアの喧騒の中でタフに力強く生きている自分は、日本にいる時とは人格が違うといっても過言ではないくらい、世界が変わる。アジアの方が性に合っている、ということなんだろう。

〜 実は人生を通じて、「自分はこんなもんじゃない」、「本来持っている力が出しきれていない」感覚がずっとあった。

それなりに社会のレールに乗って、不自由ない人生を送ってこれたけど、ここは自分の居場所じゃないんじゃないか、もっと力が出せる自分に合った居場所があるのではと彷徨っているような。なんというか、野生動物が動物園で飼われているかのような、綺麗な水にしか住めないイワナが下流に流れ着いてしまったかのような。

ずっと彷徨っている感覚だったけど、大学時代のバックパッカーの体験から、その場所は海外なんじゃないか?という言葉にしにくい直感があった。

直感や本能では、自分にフィットしていないことは既にわかっていたのだろうし、事実、心身ともに症状として現れていたのに、「社会的にこうでなければならない」という、後天的に刷り込まれた価値観や通念で生きてきた。そしてそこから抜け出せない負のループをぐるぐると繰り返してきた人生だった。

海外に出てきたことで、日本での社会的な通念の記憶や臨場感が徐々に薄れ、この負のループを抜け出すきっかけを得られたことが、きっと僕の人生にとって最も大きな転換点とも言えるだろう。

・日本帰国。また半分病みかけ、休職。アジアフラフラしている間に、転職先決定

この話の流れで、日本帰国後の展開は大体お察しいただけるだろう。また、元の自分の平凡な日常に臨場感が戻るのだ。

帰国直後は、インドで1年の修行を耐え抜いて「自分最強じゃん」と、まさに戦場から帰還したヒーローのような感覚だった。だが、その感覚はわずか1週間で剥がれ落ちた。

自分が身を置いている環境の影響は、とてつもなく大きい。どんな環境に身を置くかによって、自分のキャラクターやエネルギー値、パフォーマンスが大きく変わるんだなぁと実感した。僕の場合は、ある意味日本にいた時のダメダメな自分を変えたい、捨てたいと思って海外に出たわけだから、日本に帰ってくるとその自分はどうしてもついて回る。なんというか、人格が2つあるような感覚だ。日本仕様の自分と、海外仕様の自分、理想は当然、うまく行っている海外仕様の自分なのだ。

当然、その後も海外に出る機会を探ることになる。今の会社で駐在員としての派遣を狙うにも、あと最低でも5年以上はかかる。絶望的だ。自分で転職して現地就職することも考え始める。ただ、これは自分にとって社会のレールを完全に外れることを意味するもので、現実味を帯びなかった。直感では絶対行ったほうがいいことはわかっているのに、リスクを恐れる自分の方がまだまだ強かった。結局、また2年半ほど冴えない状態で日本で働くことになる。

おそらく以下のような比較シミュレーションを、頭の中で何百回もしたことだろう。

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【海外で働く選択肢】

<駐在員>
・自分の意思で決められない。行けるかどうかもわからない。
・待遇もいい、会社のお金で行ける。キャリアアップに繋がる。

<現地就職>
・自分の意思で決められる。
・待遇が下がる。キャリアアップにはならなそう。社会のレールから外れる。将来が不安。
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自分の根本の考え方や腹が決まらない限り、何度考えても同じ結論にしかならない脳内シミュレーションだった。決められないから先送りにして、時間が過ぎていった。

とはいえ、この時の自分に自分の意思で決めることを強いるのも、難しかったこともよくわかる。正解を探している自分にとって、これは正解など存在しない問いなのだから。

今なら「正解は自分で決めるもの、決めたことを正解にするだけ」とシンプルに言えるが、この時の僕はありもしない正解を求める人間だった

と、生きている心地のしないモヤモヤ時期が長く続くと起こる自分のパターンは決まっている。体調を崩すのだ。結局会社に行くのも難しくなり、休職という結末を迎える。

大企業の福利厚生には感謝しかないのだが、4ヶ月間の休職期間をもらうことができた(スタートアップや経営者だったら考えられない)。

しばらく療養し体調は回復してきたが、復職するメンタルには向かわなかった。将来に希望が持てない。そこで藁にもすがる思いで、思い切って短期で海外に行こうと決めた。タイ行きのチケットを取った。何かが変わるかもしれないと思ったのだ。

休職して海外に行く。当時の自分には罪悪感も当然ある。だけど、この決断が功を奏した。体調だけでなく、メンタル状態も健全に戻っていった。そして、この流れで、海外に移住することが自然と自分の答えとなり、そのまま現地で転職活動をした。

言い換えれば、海外移住するという決断の決め手は、「そうせざるをえない状況まで追い込まれたから」が最も的確だ。荒療治をしない限り、自分の凝り固まった価値観を変えることは難しかった、とも言えるだろう。

運よく、内定ももらうことができた。たった2週間程度の短い渡航だったが、気づけば閉ざされていた自分のマインドは、希望と未来に向いていた。

-----第二章(海外で第二の人生始まる)-----

2社目 @タイ、ベトナム(28歳〜30歳)

・水を得た魚のように正気を取り戻す

やっと、念願だった海外移住を果たした。ここから第二の人生がスタートすることになる。まるで水を得た魚のように、日常の景色が変わった。今までの自分の好きではない部分にとらわれず、新しい自分で生きていくことが嬉しかったし、この先どうなるかはわからないけど、何か光や希望を見出せるようになった。

・ここはどうやら、「戦略コンサル」というところらしい。でもなんとかやれてしまった。

転職先は戦略コンサルのアジア拠点で、日系企業のアジア進出支援や市場調査を提供する組織に、海外拠点代表の直下で採用された。正直この時の自分は、「戦略コンサル」なるものがどんなものか、ほぼ何も知らなかった。ただ、上司やメンバーが超絶優秀だという理由で入社を決めた。今思えば、よくこんなに何も知らない状態でこの会社に入れたなぁと思う。

そういえば、当時僕を採用してくれた上司に採用の理由を聞いたことがある。
「①大企業出身」「②海外経験」「③ポテンシャル」、だった。

①についてだけ解説しておくと、大企業に採用をされ、経験を積んでいるだけでベースがあるし、当たり前のこと当たり前にできる、というようなニュアンスだった。特に当時は今よりも大企業ブランドが強かったこともあると思う。自分では大したことはやっていないつもりでも、社会のレールの中できちんと生きてこられているだけでも、実は十分に価値があったりする。海外だと特にそうで、お利口なスマートはわざわざレールを外れて海外現地就職する物好きはごく僅かだから、この掛け算だけで実は超希少人材だったりする。

そういう意味では、イケていないと思って生きていた自分の人生は、意外としっかりと繋がっていた

もちろんコンサルの仕事は慣れるまで相当大変だった。でも、長年実現したかった海外に生活拠点を移し、心身ともに安定し自分らしく生きられるようになったベースが整ったことで、なんとか喰らいつくことはできた。

・1年後、「ベトナム行って本格修行しない?」ボロボロで喰らいつく日々

タイ拠点よりもベトナム拠点の方が規模が大きく、優秀な人材も揃っていたこともあり、ベトナムへの異動を打診してもらった。自身のキャリアパスの観点も加味してもらい、ステップアップの打診だった。もちろんチャレンジするためにベトナム異動を決めた。

そこは国内トップの大学や海外大卒の超エリートベトナム人材の精鋭が集まる、30人規模の組織だった。一番下の新米コンサルとして再スタートを切った。年下のシニアコンサルタントからバシバシ鍛えられる日々。外から見ればエリート集団で働いているだけで成長しているように見えるが(実際とてつもなく成長していたと思う)、この組織の中では下っ端も下っ端で、毎日絶望する日々で自己肯定感も低かった。だけど、なんとかくらいついてやり切った経験は確実に今のベースになっているし、プロの基準を叩き込めたことは財産になっている。

ただ、このままこのコンサル集団でずっとやっていくのか(やっていけるのか)という思いも芽生え始めていた。だけど、ここで結果を出さなければいけないと強く思い込み、相当な激務とストレスでついに限界が来てしまい、退職を決意。結局ベトナム生活は1年で幕を閉じることになった。

・半年間ニートの末、タイに戻って転職

次の転職先も決まっていなかったので、経歴書に空白期間ができることは当時の自分には怖かった。この先の転職やキャリアに響くだろうなぁと。ただ今回はもうそせざるを得なかったので、少し休むことにした。

またあの時のように、東南アジアをフラフラすることにして、ゆるく転職活動も始めた。ある意味転職エージェントを使った初めての活動である(前回は知り合いのツテでたまたま誘ってもらえた)。

ただこの時に、海外転職・現地採用の厳しさを知ることになった。エージェントから紹介された求人で、ピンとくるものは正直一つもなかった。当時30歳、もうポテンシャルだけで通用する年齢でもない。自分の理想が叶う仕事は、海外にはそんなになかった。勢いで海外転職を決めて、次も考えずに辞めて、キャリアに対する考えの浅さも思い知らされた。とりあえず面接を受けに行ったが、どれもパッとしない。結局転職活動は難航し、約半年ほど無職ニートの状態だった。

そんな中、相談に行ったある転職エージェントから誘いをもらった。まさか自分が転職エージェントをやるつもりは全くなかったので、断るつもりだった。一方で、誘ってくれたそのマネージャー(後に上司となる人)は、海外で会った人の中でもとても優秀で視座が高い人だった。熱心に誘ってもらい、紹介エージェント業ではなく、集客やマーケティングの戦略部分と、新規事業の立ち上げを一緒にやらないかということだった。コンサルにいた頃はなんとなく事業会社でやりたいとも思っていたし、仕事も面白そう(今思えば浅すぎる)、あとは何より海外にチャレンジしたい日本人をサポートできるという名目もあったため、入社を決めた。

今振り返ると、どちらの転職も、業界や仕事内容よりも、一緒に働く人、誰につくか(上司)という観点で決めている。自分にとっては仕事内容よりも環境や人が大事といえば聞こえはいいが、結局業界を二度も変えて専門性がない、ということがこのあとも自身のコンプレックスになっていく。

3社目 @タイ(31歳〜34歳)

・ゼロイチの新規事業に取り組む、なかなか結果が出ない

新規事業の立ち上げなど、当然やったこともない。与えられた仕事をそれなりに優秀にこなすだけだった自分にとっては、使う筋肉も脳みそも当然別物で、なかなか成果を出すまでに時間がかかった。

自分のパターンとして、「自分が納得するまで行動できない」というのがある。これは、幼少期から出ている、生まれ持った特性でもある。何事もスロースターターで、スイッチが入るまでに時間がかかる。ただ見方を変えると、全体を良く見渡して観察し、まずは物事の構造をとらえる。「なるほど、これがこうなってるからこうなんだね。だったらこうするのが良さそうだね」という動き方を必ずといって良いくらいする。

周りから見ると全然行動してないし前進してないように見えるのだけど、実は自分の脳みその裏側では上記のようなことが走っている。だから、考えずに即行動できる人に羨ましさを感じる一方で、物事の構造を捉えて全体がつながり、納得できたあとには急激に行動が加速する。成長曲線が、前半は人より長く横ばいが続くものの、あるポイントから急激な角度にスピードアップする。このパターンで、最終的には大体のことをそれなりの結果で終える、というのが自分の生き方でもある。

・やっと結果が出てきた、と思ったらコロナで事業クローズ

ただ、このパターンでは今回の新規事業業務とは相性が悪かった。事業計画通りの成長を生み出せず、更にはコロナが直撃して事業部の財政が厳しくなったことで、クローズの意思決定が下される。仕方ないと受け入れざるを得なかった一方で、「自分にはゼロイチは向かない」というレッテルを自分で貼ることになる。(このレッテルも、のちに自分の挑戦を妨げる要素になる)

その結果、自分のネクストステップは、やるつもりのなかった転職エージェント業、キャリアコンサルタントへ。転職する選択肢もないわけではなかったが、コロナ禍で就職市場は凍りついていたこともあり、何より、何も成果が出せていないのにまた環境を変えるのか?という危機感があった。あとがない状況でこれをすんなり受け入れ、ひたすらエージェント業に打ち込む。

・初めてと言って良いくらい、社会人になって自身の実力で誇れる成果が出せた。でも、すぐ飽きてしまった

そろそろ人に誇れる目に見える成果を出して、専門領域を作らなきゃいけないという危機感をエネルギーに、ひたすら数字を追って集中した。もう「やろうと思ってた仕事じゃない」などという言い訳をしている暇はなかった。これもいつものパターンで、すぐに結果は出なかったが、構造やカラクリを掴み、コツを捉えてから、急激に成果が出るようになり、結果的にエージェント1年目にして社内100人中TOP5という成果となった。

ただ、その後は思ったようにモチベーションが湧かず、仕事に飽きてしまった。実は、ここにも自分のパターンがある。「良く観察して全体像を捉え、構造を掴む」。これにはもう一つの側面があって、それができてしまうと、飽きてしまうのだ。自分にとっては構造を掴む行為やプロセス自体が報酬であり、それをひたすらやってしまうのだが、その後の工程に興味がない。要するに、これってこういうことだよね、とわかり切ってしまったことを、ただひたすら愚直に繰り返すということが、退屈でできない。だから、よりまだ知らない領域にチャレンジし、それってどういうことなのか?という構造を掴みに行きたい。だいたいやる気がなくなって環境を変えるのも、このタイミングだ。

・上司、辞める。今後に対する漠然とした不安→色々模索する(コーチング、副業)

こんな時期にさらに追い打ちがかかる。入社を誘ってくれた上司が退職した。仕事も飽きたし、一緒にやりたい人もいないので、この会社にいる理由が「お金がそれなりに稼げる」こと以外になくなってしまった。

次のステップを模索し始める。ただ、海外の転職がそんなに簡単ではないことは前回の活動時に痛感したし、何より転職を支援するエージェント業をやっているわけだから、客観的な事実として知ってしまっている。しかももう34歳で結婚もした。転職でもない、日本に帰りたくもない、ましてや起業などできるわけもない(自分にゼロイチはできない)、もう八方塞がりの状態だった。

何か、自分のポテンシャルや生命力を出しきれている感じがしない状態だった。現職の人材業界では成績トップを達成し、やり切った感があったが、飽きていた。しかしながら、普通に稼げるので辞める理由はない。転職するという選択肢もあまりピンとこない。自分で事業を立ち上げ、いずれ独立・起業することを漠然と考えていたが、自分ごと化できておらず、臨場感が湧いていなかった。自分のエネルギーをどこにどう向けたらよいか、出しどころや方向性が見えない状況だった。

この時は、自己啓発本を読んだり、情報商材を買ったり、副業を始めてみたり、なんとか突破口を見つけようと色々模索していた。その中で見つけたものの一つがコーチングだった。

コーチングについて色々調べていると、直感的にこれは良さそうだ、という感覚だった。「環境を変えるのではなく、根本である自分自身を変革する」とか、「自分の強みや得意なことをちゃんと理解し、それを活かす」とか、今思えばこんな感じだっただろうか。ただ一方で、本当に成果が出るのかという疑いや、ちょっと胡散臭さみたいなものもあったのも事実だ。ただ、藁にもすがる思いで鬼気迫っていたこともあり、安くない金額を投じてコーチングを受けることを決断した。

・希望の兆し

全部で6回分のプランを選択したが、1回目から大きな変化が起きた。飽きてはいたものの、生きる手段として続けていくと思っていたエージェント業を、「あ、もう自分はこれをやっていちゃいけないな」と心の底から思ってしまったのだ。

1回目のコーチングで「自分が無意識的にやってきてしまったこと(この文章でたまに出てくる「自分のパターン」も、実はコーチングによって認識したこと)」、「苦しみながら頑張るのではなく、自然にできること」を客観的に認識できたことで、自分がどんな方向に進んでいくべきかが、なんとなく見えてきた。そしてそれは、34年間生きていた中で気づけていないことだった。こんな理想の自分があるんだと思えてしまったことで、理想とはかけ離れて惰性で生きている今の自分が、強烈に気持ち悪くなってしまった。とりあえず、半年後にエージェントを辞めることを、その場で決断したことを覚えている。

その後もコーチングを通して未来を描き、そこに向かうために必要な行動を取り、不要なことは辞めることを繰り返していった。だけど、これは簡単なことではなく、未来の理想の自分と現状の自分が強烈に闘うのだ。一方で、苦しいことも多々あったけど、一歩引いて客観的に見ると、自分の人生はいい方向に向かっている感覚は、確実にあった。

変化の一つの例を挙げようと思う。エージェント業に飽きたのもそうだし、物足りなさと違和感もあった。既にある限られた求人要件にマッチするように、求職者本人の数ある特徴をそこにマッチするように加工して、小さ〜い針の穴を通すような構造がとても窮屈だった。小さなパズルをはめているような感覚。

ある程度やり方の決まった狭いルールの中で、ただ同じ作業を繰り返すことは自分の特性に合っていなくて、この人には本人も見えていないこういう強みや特性がある、という、裏側の構造を見出して、こういう条件下や場所ならその要素がマッチするから最大限生かせる、という、制約条件をとっぱらったベストな構造を見つけにいくのが自分の性に合っていることを認識できた。

事実、求職者のキャリアを棚卸して、本人が見えていない気づきやキャリアパスを提示できる瞬間が楽しかったし、それが見えたら求人募集していなくても企業に打診してポジションを用意してもらったりと、普通のエージェントがやらないような動きも良くしていた(今思えば、ヘッドハンターの方が特性が近いのかもしれない)。

そういう意味でも、狭い窮屈な制約条件を取っ払って、本人の強みを最大限活かせるベストなシナリオを作りにいくことがやりたいのならば、コーチングはそれにとても近いものだった。

そんな文脈で、自分自身の制限を外し、可能性を広げてくれたコーチという存在に、僕自身がなろうと思うのは必然の流れだったのかもしれない。更に深く学び、自分の人生も加速したいと思い、Mindset Coaching Academyへの入学を決めた。

・人生が大きく動き始める / 自分に許可を出す

Academyの学長である李英俊さんと、1on1のコーチングセッションをやってもらう機会があった。たった30分の時間で、大きく自分の世界観に変化が起き、一言でいうならば「自分で自分を縛っていた抑圧を解放し、やっていいんだよ、と自分に許可を出せたこと」瞬間だった。

<コーチングセッション前>

・現職の人材業界(キャリアコンサルタント・法人営業)はやり切った感があり、正直飽きていた
・とは言え転職するという選択肢もあまりピンとこない。自分で事業を作り、いずれ独立したいと思っていた。でもこれも正直まだ自分ごと化できておらず、全然臨場感が湧いていない
・自分で全てゼロイチをやらなきゃいけないと思い込んでいた(あるものの質を上げるのは得意だが、ゼロイチに苦手意識があった)

<セッション後>
かけてもらった言葉の中で、特に自分に刺さったものは以下。

・「リアクティブ・プロブレムソルバー(受動的に課題を解決する人)じゃダメなんじゃない?自分がやりたい、してあげたい、できると思っていることを、あなたはもう自分から解決しにいく存在なんじゃないの?」
・「そもそも全部ゼロイチでやる必要はない。Willはあるけどリスク計算が苦手な起業家と組んで、"参謀として、兄貴分として" やればいい。めちゃくちゃなハードシングスが来ても、どうにか整理して構造化して、形にできる人なんだから。」
・「もう既にやれる経験も実力もあるんだから、それをやりたいと意思表示するだけなんじゃないの?そうすれば自分を必要としてくれる起業家も企業も確実にいる。今日からスタートアップのCXO、CHROと名乗る。」

本当に自分が解放された感覚だった。制限をかけていたのは、紛れもなく自分自身。自分のことを客観的に見れている方だと思っていたが、全然見れていなかった。やりたいのに、できるのに、視野が狭くて盲点だらけで、できない理由ばかりに目がいっていた。「やっていいんだ」と許可が出せた時間だった。

<その後のアクション>

まず、ゴール設定をした。

「海外で生きていきたい、意思と能力のある日本人」が活躍できる機会を創出し、構造を整備する(自身が最前線でロールモデル化)

狭かった視野を広げ、低かった視座を上げ、今のままではまだまだ厳しいけど、自分はこれをやりに行く人間なのだと、アイデンティティが書き換わった。

・自分のこれまでのパターンでは起こり得ない、脱皮の連続(社会の基準ではなく、自分の主体性で動き始める)

決めた人生のゴールを達成するために、超えていかなければならない大きな壁がある。それは、「既にある枠組みの中で優秀になり続ける世界線ではなく、自ら枠組みを創り出していく世界線に、パラダイムシフトすること」。これは要するに、自分がこれまで繰り返してきた人生のパターンを、変更することを要請される。

実際にどうやっていくのかはわからない。少なくとも今の延長では実現できないことは確かだ。でも、今までと違って北極星が見えたわけだから、まずはその方角に進んでいけばいいし、進んでいればきっと道やプロセスは見えてくる。まずは、今の自分でもできることをやってみた。

<実際にやったこと>

❶ 東南アジアの知り合いの起業家/経営者に声をかけ、10件以上アポを取り、今後やっていきたいことを伝えた。
→「週1日で僕をレンタル」1ヶ月無料キャンペーンを提案したら、「マジ?それはありがたい。こういうことをやってくれない?」と具体的な話が出てきた
→知り合いの経営者から業務委託の仕事をもらったり、ビジョンに共感した日本のスタートアップで事業開発メンバーに入れてもらったりと、この先のキャリアの兆しが見え始めていた。
❷ 自身でサービスを立ち上げる(海外キャリアコーチング)
→ 共感やサポートを得られそうな人とたくさん壁打ちして解像度を上げて、10名限定無料相談をやってみた。喜んでくれる人がたくさんいて、自信がついた。
→ゴールを設定したことで、本業の仕事への向き合い方、意味づけが変わった気がする。自分は問い合わせしてきた人の転職支援をするただのキャリアアドバイザーではなく、海外で活躍できそうな人を見つけ、実際に活躍できるまで支援するプロデューサーなのだと認知が書き換わった。

そうして立ち上がったサービスがこちら。

https://asia-career-labo.com/thailand/shushoku/asia-career-service/

そこで上司に「給与も労働時間も半分にさせてください」と打診しに行った。今までの自分で考えたら、こんなこと伝えたこともないし、ソワソワするし、めちゃくちゃな提案にも思えたが、これが意外とすんなり受け入れてもらえた。

海外で、こんな働き方をしてる人をほぼ見たことがない。だから本心はかなり怖かった。だけど、北極星の方角に前進するにはこの道がベターだった。

自己認知が変わり、上述のように行動していたら、気づけば知り合いの起業家や経営者と時間を過ごすことが多くなっていた。何人かに声をかけてもらった中で、「この会社、経営者、自分が参謀として入ればもっと伸ばせるイメージがある」と直感的に感じた会社があった。事業の相談に乗り、気づけばリードを獲得し、受注まで取り(まだ社員でもなんでもないw)、結果的にその会社の外部役員として、事業の統括ポジションになっていた。(やるべきことが明確になり、自分の進む方向性に確信が持てたため、退職を決意)

この行動も結果も、ゴール設定により自分の認知が書き換わらなければ起こり得ないものだった。「参謀としてWillある起業家と事業をトップに引き上げる」。このゴールに向かって脳が情報を集め、体が動いていたからだ。「人材企業のトップキャリアアドバイザー」ではなく、「スタートアップのCXO」と自分のIdentityが更新されていた。

https://note.com/ryota0406/n/n8915a0e8ef93

-----第三章(正解のない道を歩む決断)-----

・会社をやめる決断、レールのないキャリアを歩む決断

2024年2月、大きな決断を下す。現職の転職エージェントを辞めて、独立することにした。

現職の業務は一部業務委託で完全成果報酬の契約に切り替え、知り合いのタイスタートアップにNo. 2的なポジションでジョインすることになった。これと同時に自身の事業とサービスも作っていく。1年前、エージェントに飽きてキャリアの先行きがお先真っ暗になっていた時からは、想像もつかない決断だ。

この道に、誰かが敷いた正解のレールは存在しない。当然怖さもあるし、今までの自分が顔を出して悪魔の囁きをすることもある。だけど、もうやるしかないし、心の底からやりたいし、やれる気しかしていない。

・リミッターが外れ、仕事以外でも挑戦

<ボディメイクコンテストに出る決断>
ゴールを設定することで認知を書き換えれば、行動が変わることを感覚的に掴めていた僕は、他の領域でもこの理論を適用し、ゴール設定していった。

数年続けている筋トレも、何か目標がなく惰性になっていると感じ、まずはパーソナルトレーニングに通うことを決意。そのトレーナーから、「3ヶ月後ボディメイクコンテストがあるんだけど出ませんか?」との誘い。

実は前から興味がありました。でも、さすがに言われた直後はやらない理由と言い訳がドバドバ出てくる。でも、ここで言い訳したら結局いつもの自分。一旦全て言い訳をカットし、「やります」と答えた。もう、手汗が滝汗状態。

結果、確実にトレーニングへ向き合う姿勢が根本から変わり、会う人会う人に「体デカくなったね」と言われるくらい成長曲線が爆上がりした。

https://note.com/ryota0406/n/nae1f512d3ee2

<10日間、山籠りする決断>
半年前から「タイの山岳民族の村で10日間ホームステイ」という計画を立てていた。しかし人生というのは不思議で本当にいろんなことが同タイミングで起こる。

会社を辞めて独立の準備、新しい仕事もスタート、ボディメイクコンテストに向けた体づくり、めちゃくちゃ忙しいのに、10日間電波もない環境で仕事休むの?またやらない理由が溢れます。今回は前日まで航空券取らないくらいモジモジしていた。

でも結果的に本当に行ってよかった。自分の人生レベルで大きな気づきが得られたからだ。そして、仕事もなんとかなった。改めて「決断が先、プロセスは後」なのです。できるかできないか、どうやってやるかを考える前に、本音でやりたいならやると決めること。決断を先にするから、どうやったらいいかが見えてくる。この順番。

なんなら将来、「半自給自足の山での生活」も本気で目指してもいいんじゃないかと最近思っている。今の自分から考えてできるかできないかじゃない、ゴールがあるからやり方が見えてくる。(最近は気づけばほぼ東出昌大の YouTube観てる。無意識の力ってすごい)

https://note.com/ryota0406/n/n34c94260b0a5

起業@タイ(35歳〜)

決断して生きている人の心象風景

1年前までの僕は、何かに決断して毎日を本気で生きている人が眩しく見え(眩しすぎて目をそらしたくなるくらい)、自分はそうじゃないな、と指をくわえて見ている人間だった。そんな人と比較して、また悩む。そんなことの繰り返しだった。

でも、怖い決断を重ねてきた今は、その人たちの心の内側がどんな風になっているかがわかってきたような気がしている。できるかできないかじゃない、やりたいからやるんだ、やると決断することが全てなのだと。

自分で蓋をしてきた扉を開けて、本来の自分のゴールに生きていたら、それに関係がないことにはあまり心を奪われなくなる。自分でもスイッチが入っているのがわかる。スーパーサイヤ人。

そしてこうやって生きていたら、それは周りにも伝わり、存在するだけで、関わっただけで影響を与えていることもよくわかる。

自分の脳みそで思いつくこれまでのパターンを手放す

自分の頭で考えつくことを自力でやってきた結果が現在の自分。でもその現在の自分に満足できていないのならば、これまでのパターンを変える必要がある。僕はコーチングというきっかけを通し、人間のマインドのカラクリ・原理原則を理解し、自分の脳みそで思いつく範囲のこれまでのパターンを手放してきたからこそ、これだけ1年で変化することができた。

今まさに、正解のない、枠組みのない世界に身を投じて、手探りでがむしゃらにゴールに向かっている。起業なんてできるわけないと思っていた自分が、全ての0⇨1を自分でやらなきゃいけないという制限を取り外し、ビジョンを伝え、人を巻き込む事で進めている。

スタートアップの役員だってやったことはない。やり方も正解も決まっていない立ち上げフェーズで、理想のゴールを描いて、それをメンバーに伝えて、現実を前進させていく。これまでは個人で成果を出してきた世界戦だったから、タイ人のメンバーとともにそれをやっていくには、なかなか伝わらなかったり、思ったように現実が前進しないこともあり、変化や脱皮も必要なことも日々ある。

自分の無力さを毎日のように実感し、自己肯定感が下がることもある。だけど、できることしかせずに変に満足してる毎日よりずっと良い。本当に手にしたい理想があるのに、中途半端な賢さでやらない理由を並べてきた自分より、ずっと心が豊かだ。

過去や現状の自分に縛られることなく、理想のゴールに向かうためにどうすればいいか、そのために必要だったら、自分の不要なパターンを捨て去り、脱皮を繰り返していく。

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