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RADWIMPS“夢番地”にいつかの自分を重ねて

小さい頃はお花屋さんになりたかった。夢を諦めてからは、ずっとサッカー選手を夢見ていた。かつて夢はたくさんあった。テレビやドラマで活躍するような主人公になれると本気で思っていたし、何者かになるためにもがいていた時期もあった。何も知らないはある意味幸せだ。それだけで強くなれる気がしていたし、たしかにあのときは無垢で自由で、それでいて、可能性を信じて疑わない最強な自分だった記憶がある。

小学生の3年生まではクラスで1番足が速かったのに、3年生を境に周りにどんどん引き離されていったのだ。いつの間にか友達から足が遅いというレッテルを貼られ、自分は天才なんかじゃないと気づかされた。足が速くなるために試行錯誤を重ねたけれど、やっぱり1番にはなれない。自信の喪失はありとあらゆるやる気をなくす要因となり得る。

夢を語るたびに「お前なんかには無理」と、誰かに笑われて「そんなことないよ」と反抗してみせたけれど、やっぱり無理だったと諦めた夢の数のほうが圧倒的に多かった。部屋のなかで1人閉じこもって、才能がないことを嘆く。なんで天才に生まれなかったんだろうなんて後悔を添えて。叶えたい夢ばかり数えては失って、希望はいつしか絶望へと変化する。絶望はさらなる絶望を呼び込み、いつしか「もう夢なんかいらない」に到達した。

夢見る少女じゃいられないと言うが、それは紛れもなく事実なんだと思う。生活を守るためには好きなことばかりじゃやっていけない。自分の夢を諦めて、生活を守るために必死で働く。それが悪いことだとは思えないし、何かを守るために生きるその姿は賞賛されるべきだ。

いつか夢は醒めると誰かが言う。そんなことないよと、確かにそうだよねと二つの声が自分を惑わせる。どちらを信じればいいのだろうとわからなくなって、あれもこれも叶えたいと前を向けたり、向けなかったりする。

僕が立っているここは誰かの願っている場所で 誰かが立っている場所がきっと僕の望む場所で

諦めた夢は誰かが叶えてくれていると聞いた。加えて、誰かの夢がいま自分のいる場所でもあるとも。誰かの夢を叶えている事実は嬉しいけれど、他人に自分を重ねるのは悔しい気持ちがある。やっぱり夢は自分が叶えたい。どこかから「それなら、諦めんなよ」と声がする。その言葉を否定する言葉がすべて言い訳みたいになって、とてつもなく悲しくなった。

夢が叶ったことはある。それは幸運な出来事だ。夢がこちらから近づいてくるなんてない。どうやらチャンスは準備された心に降り立つようだ。サッカー選手になりたいと言っているくせに、家でテレビを観ているだけでは絶対に夢は叶わない。全国大会に出た人、プロになった人はずっと練習を続け、チャンスが来るための準備をきちんとしている人である。

これまでの人生を振り返ると、自身が夢を叶えられた理由は、踏み出す勇気とあきらめない信念を持ったことだった。チャンスは滅多に訪れないけれど、目の前にやってきたときにきちんと掴むための準備ができているかが叶うか、叶わないかの道別れになると身を以て知った。

待っているだけでは何もはじまらなくて、たとえ準備をしていたとしても叶わない場合だってある。夢を諦めたからといって、すべてが無駄になるわけではなく、努力したという経験が何者にも奪えない自分だけの財産となり得るわけだ。そして、別の夢を持ったときに効力を発揮する場合がある。無駄だと思えばすべてが無駄で、経験を生かすも殺すも自分次第。なんて真実に大人になってから気づいたと同時に、これまでの人生に安堵した。

叶えた夢の数を数えよう

叶った夢の数よりも叶わなかった夢のほうがきっと多い。それでも叶った夢を数えたほうが未来は明るいと思う。大人になればなるほどに、いろんなことを知って、無垢なままではいられないようになる。上手くいったときの喜びを知りもするが、失敗したときの痛みのほうがはるかに辛いと気づく。失敗が増えるたびに、また失敗しちゃうかもしれないと怖くなって、いつのまにか足がすくんでいく。「もしも」ばかりが眩しくなって、道中に起きる「まさか」がどん底へと追い詰める。這い上がる強さが欲しいと他人にそれを求めても、最後は自分次第だと気付ける人と気付けない人がいる。

立ち止まっている間に前に進む人だけでなく、立ち止まっている間に一緒に立ち止まってくれる人もいて、世界は優しさに溢れていると知った。見えなくなった背中を追いかけるのは、アドバンテージがあって辛いものだ。それでもいつか肩を並べて歩きたいと願い、諦めない自分になるために試行錯誤を重ねる。今度は自分の番だよ。そう言い聞かせて、まだ見ぬ明るい未来に希望を抱いてやんのさ。

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